安全保障関連法案は、核兵器の運搬を否定しないことが、参議院特別委員会での政府答弁で明らかとなりました。法律上は可能であるが、日本には非核三原則があるので、実際は運搬しない、『運ぶことはあり得ないぐらい日本人の常識だ』と自由民主党の幹部有力者は仰っています。
非核三原則の有る無しに関わりなく、日本が、核兵器を運搬することは憲法違反であり、そもそも核兵器が存在すること自体が、唯一の被爆国に生を受けた日本人として、人間の尊厳を踏みにじるものである、これの『均衡』ではなく、『廃絶』を発信し続けなればならないと考えます。『抑止力』という言葉は、要は、アメリカ合衆国の核の傘に入ることを意味し、核廃絶と真逆の方向に進むことに気付かなければなりません。
今日は、核廃絶や非核三原則を論じるのではありません。このところ政府与党が言う、『法律上可能だが、実際はあり得ない』と言う言葉の意味について考えます。
法律が制定される場合、『なんでそんな法律が必要であるか』が考えられます。すなわち、法律を制定しなければならない社会的事実が存在するのです。これを『立法事実』と言います。私が司法修習生になったころ、バイブルとされた東京大学の芦部信喜先生の著述に、『立法事実とは、法律を制定する場合の基礎を形成し、かつ、その合理性を支える一般的事実、すなわち、社会的、経済的、科学的事実』と書かれております。
立法事実論は、制定された法律が憲法に違反していないか裁判所が審査する際の基準として注目された経緯があります。つまり、ある法律が制定され存在すると言うことは、そのような法律を作るための根拠となる事実が、確実な証拠により合理性に説明できなければならないこと、そして、その法律が目指すところと、制定される法律が合致しているのか、目的達成できるのか、これが認められることが、合憲性の要件とされるのです。
私は、法律実務家の端くれですが、実際に適用されない法律が作られるなんて、聞いたことがありません。もし、日本には非核三原則があって、核兵器と関わることが人間の尊厳に背くものであるとの立法事実があるのだとしたら、こんな法律、出来っこないですね。むしろ非核三原則が国是であると言われるなら、その安全保障関連法案とやらに、『核兵器、大量破壊兵器等を使用する国のため、あるいは、そのような国と戦闘状態に至る明白な危険がある国のための兵站は一切行わない』法律を、どうして策定しないか理解できません。
そんなある意味福本悟に似合わない高尚な議論をしようと思っているのではありません。8月6日広島市での平和式典で、歴代内閣総理大臣で初めて非核三原則堅持に言及しなかった安倍晋三氏の周辺が、このことで強い反発が出たのは意外だと述べたことでもあり、政府与党は、実は、アメリカ合衆国等核保有国のために、日本の自衛隊が核兵器を運搬しても、非核三原則に反しないなんて、後になって言い出すのではないかと危惧するものであります。
非核三原則とは、『核を造らず、持たず、持ち込ませず』であります。日本国内で、核兵器が造られることはなく、また、核兵器を持つ政府や団体、個人は居ない、これは分かります。また、日本政府は、アメリカ政府に確認は取らないとは言うものの、核がアメリカから日本国内に持ち込まれたことはないはずです。
しかし、この安全保障関連法案により、日本国外の非戦闘地域において、同盟国アメリカの核兵器を日本の自衛隊が運んだとしたら、これは『持ち込ませず』には違反しないのでは?と法文上考えられる余地があります。公海上から公海上まで運んでも、日本の国内ではありません。まして、化学兵器、大量破壊兵器等非人道的兵器は、そもそも非核三原則には当てはまらないのでしょう。要は、本音は、可能な法律さえ作ってしまえば、後の『やる、やらない』は、ときの政府の施策、現場の自衛隊の判断でてきる道を開くのではと言う危惧であります。
法律上なんでもあり、あとは適用する政府の自由なんて事態は、認められません。この安全保障関連法案、廃案しかないと考えます。