日本人にとって忘れられない、忘れてはならない日のひとつが、8月15日であることは、大方認められるところでしょう。
8月は、原子爆弾の投下や旧ソ連による北方領土侵攻等、あの戦時下にあって昭和を語るとき、日本人として悲劇的な出来事があった月であるとの思いがよぎります。
現在中年と言われる域に達した以上の方々には、もうひとつ忘れられない、忘れてはならない8月が、こころに刻まれているはずです。昭和60年8月12日、単発機の事故としては、今でも世界最大の犠牲者を出した日航ジャンボ機墜落事故、すなわち御巣鷹山の悲劇がこれです。
この事故は、その数年前、着陸時に尻もち事故を起こしたこのジャンボ機が、製造元ボーイング社の修理が十分ではく、圧力隔壁を損傷したまま飛行を続けた結果、この日東京羽田を午後6時に出て、大阪伊丹に向かう日本航空123便において、垂直尾翼が飛行中に破壊され、操縦不能となって30分以上いわゆるダッチロールを繰り返し、遂に午後6時58分、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落し、520名の人命が失われた航空機事故であります。
昭和60年は、私が東京弁護士会に登録した年であり、婚姻した年でもあります。前年福岡市での司法修習を終えた私は、もうひとつの大事な仕事をやり遂げるため、翌日8月13日に、福岡に行く予定にしていたものでした。この事故に関しては、決して風化されることなく語り継がれております。
日本航空でも、事故機の残骸等が保存されている同社の『安全啓発センター』で、8月12日を前に、整備士など100人を集めて、研修が行われたそうです。参加者の9割が、あの事故後の入社と言うところが、30年を改めて感じます。
弁護士登録30年と言うことは、日航ジャンボ機墜落事故から30年を意味します。この年の8月に28歳になったばかりの私にとっては、安全、人命、家族、プロ等等生涯に渡っていろいろ考え続けなければならない大きな出来事でありました。
今年も、8月12日を前に、新聞各社では、この事故で肉親を亡くされた方や、事故とは奇遇な運命で結びつけられた方等を中心に、様々な声を掲載しているのです。 私がこの『ひとりごと』でよく話題にするA社とB社もそうです。
いずれも尊い命は失われたが、引き継がれたものがテーマのように読み取りました。 A社の記事は、ダッチロールを続ける機内で、自己の運命を悟った働き盛りの乗客が、『幸せな人生だった』『子どもたちをよろしく』の『遺書』を残していたこと、その後の家族を追ったものでした。
B社の記事は、新婚半年の当時24歳の妻を事故により失った男性が、納得がいかないままただ仕事に打ち込み、深酒を繰り返した日常の中、5年後知り合い、寄り添ってくれる女性に、自分の背負うものの重さをわかってもらえるか、御巣鷹の尾根に同行を求めたこと、その女性こそ、たまたま昭和60年8月12日、あのダッチロールする日航機を、別の航空機の機内から見ていたと知り、御巣鷹山で号泣するこの女性が、『空からバトンタッチを受けた』と運命を感じ婚姻し、以後ふたりで、公共交通機関の安全等に関する活動をしていると言うものであります。
航空機事故に会う確立は、何万分の1にも満たないそうです。でも、人間が関わる以上、絶対はないと言わなければなりません。
この確立が真に0となるよう、私たちは、あの日航ジャンボ機墜落事故で得た辛い悲惨な経験を無駄にしてはなりません。私自身も、この仕事をさせていただいているとき、ブロとして責任の重要性を認識しつつも、『絶対はない』と常に心して臨んでいるつもりです。皆様のこ指導ご意見を賜ればと念しております。