生活保護費の収入認定が、早ければ10月から変わりそうです。
生活保護の支給は、憲法25条の『健康で文化的な最低限度の生活』をおくるため、その基準に達しない家庭に対する国の責務です。ただし、具体的に幾らであるとか、国民側から、直接の請求権があるかなどは議論があるところで、しばしば自治体では、『水際作戦』が行われるのです。それを手柄のように捉える自治体もありますが。
生活保護が受給できても、様々な制約があります。これでは何が文化的だ、何が最低限度だと言いたくもなります。例えば、養育費の支払い約束があればダメ、車は処分しなさい、私立や塾はダメ、保険等で被害弁償を受けられたら、支給された分を戻せ等です。
特に、子どもが親を助けようとして、また、こんな生活から抜け出したくて、アルバイトをしたり、奨学金を受給して進学することは、基本的には認めれません。すなわち、アルバイトをした分は、その世帯の収入とみなされ、奨学金が出たとしても、それを塾代に使ってはならない等あったのです。これでは親の貧困から子どもは抜け出せません。
厚生労働省は、子の進学のための塾や教材、模試費用等については、アルバイト代から出しても良い、つまり、子が働いた、あるいは奨学金と言う借金をして稼いだお金は、世帯としての収入とはしない、子どもために使うことを認める方向だと報じられております。
私からすると、『当たり前』のことでした。何らかの事情で、最低限度の生活を維持できない家庭で育ったこどもは、その生活から脱したいと思うのは当然です。日本弁護士連合会は、ここ数年、『貧困の連鎖』を大きな社会問題にしております。私から言わせれば、これこそ『政治の責任』だと思います。 みかん箱を机に、裸電球の下で苦学したなんて、昔の立身出世物語です。司法試験の世界でも、法科大学院に進学することが受験資格になるなど、この国は、お金持ちが支配する国になって行く感があります。
優しい経済ではないんです。親の貧困を理由に、進学を諦めた人たちを、私は何回も見てきました。
でも、お金持ちは、単にお金持ちであるだけなら、自由と国民主権の国であれば、羨ましいで終わりです。しかし、先般の国会前での『反対運動』では、こんなプラカードが目につきました。『戦争を始めるのはお金持ち。戦争に駆り出されるのは貧困者』 なんでもナチスを例にするのは、ある新聞社と同じと思われてイヤですが、ナチスは、第一次世界大戦で課せられた天文学的数字となる賠償金の支払いを踏み倒し、ドイツがこうなったのは、金に汚いユダヤ人のせいだと喧伝しました。
今でも軍需産業は儲かるなんて言う経済人がいるように、日本の戦後民主政策のひとつとして、『財閥解体』がありました。かの安保法案に関するNHKでの討論中、山本太郎参議院議員は、特定機密保護法、改正労働社会派遣法、原発再稼働、そして今回の安全保障関連法案を例にして、○○○が賛成し、政府に「やれ」と申し入れるときは、いつも危ない方向に進んでいると述べたことが思い出されます。
先の大戦で、お金持ちは、戦争に対してはどんな態度をとったでしょう。もっとも最後は大政翼賛会ができ、国家総動員で、戦争に突き進みました。
もちろん、国民は、本当のことを知らされずに。生活保護制度に批判的な人たちは、今回の安全保障関連法案の成否に関して、どのような立場、見解だったか興味があります。