上野駅は、東北の匂いがすると言った人がおります。今は、夜行列車は無く、東北新幹線は、東京駅が始発です。宇都宮線高崎線も、上野東京ラインと名付けられて、上野駅が終着駅始発駅では無くなりました。東北の匂い、まだするでしょうか。 1日の乗降客日本一の新宿駅、私は、ほぼ毎日利用しています。日頃は、通勤通学のターミナルと感じるのですが、新宿駅は、信州への入り口の感じがいたしませんか?それは、私の世代は、「あした私は、旅に出ます。あなたの知らない人とふたりで、いつかあなたと行くはずだった、春まだ浅い、信濃路へ……」で始まる昭和の青春の名曲、『あずさ2号』を覚えているからなのかもしれません。 国鉄JRがその後下りを奇数、上りを偶数の列車番号にしたことから、8時ちょうどのあずさ2号は消滅しました。でも、あの名曲と、新宿から信州信濃路へ旅立つ人は、絶えることはないのです。新宿駅から発車する特急あずさは、スーツ姿のサラリーマンに混じって、重装備をしたいかついクライマーや、信州に憧れた?若い女性、さらに温泉地あたりにでも行くのか、賑やかなグループ、また静かなご夫婦等、いろいろな人が利用しています。私は、新宿駅から甲斐路信濃路へ向かうのは好きです。 事務所が新宿にある私は、山梨県の甲府や都留、そして長野県の諏訪や松本に行く機会は多いです。仕事もそうですが、多摩地区にある自宅から、わんこと一緒に山梨県に出かけることもあります。 都内から向かうとき、鉄道も高速道路も笹子トンネルまでは、登りの連続です。列車が笹子トンネルに入ると、速度を落としたことがわかります。そして笹子トンネルを抜けると、甲州市となった甲斐大和駅を通過します。この『ひとりごと』で、何回かお話したと思いますが、武田家終焉の地であります。 ここを通過すると、眺望が開け、見事な盆地の風景が見られます。果物の宝庫と言われる山梨県です。特に4月、一面の桃源郷は見事です。やかで甲府に到着し、ここからさらに信州を目指してあずさ号は進みます。もう4月末で、桃のピンクは見られません。私は今日、特急あずさに乗車しました。 春まだ浅い時期も過ぎたようです。車内は、レジャーよりも 仕事の感じがしますね。特に、諏訪岡谷塩尻松本と、昔から精密機械の土地が続いています。また、お酒やワイン等の産地でもあります。山ばかりなのに山梨県なんて言う人がおりましたが、信州には海がありません。 魚好きな私ですが、やはり山に囲まれた場所は、水がきれいでおいしいです。我が家は、山ばかりの会津から、お米を送ってもらっていますが、信州米、特に安曇野のお米は美味しいですね。人間にとっては水が基本中の基本、これが豊富で美味しい土地は、まさに『日本』を感じます。 その信州に入る前、通るのが甲斐路すなわち山梨県です。山梨県と言えば何を想像しますか。富士山や富士五湖、清里や八ヶ岳、果物や花、温泉等いろいろです。 私は、古い人間になりましたか、武田信玄公であります。実際現在でも山梨県の方々が、県の偉人として挙げるのは、その4分の3が武田信玄公なのだそうです。歴史好きな私も、武田信玄と上杉謙信、両雄は、惹かれる戦国武将です。ただ、年齢を重ねるごとに、武田信玄は、武将と言うよりも、優れた行政官、政治家だと評価しています。 このことは、別の機会に私の思うところをお話します。今日は、この戦国最強の武将、最高の政治家であった武田信玄亡き後、後を継いだ武田勝頼の代で、この強国が崩壊した事実を振り返り、武田家末期の足跡が残る場所に思いを馳せる行程を辿りました。 すなわち、城を造らなかった信玄時代は去り、長篠の戦いで大敗した武田勝頼は、領国内への侵攻を防ぐ狙いに加え、人心が離れて謀反の兆しが現れてもいて、築城を決意、これを普請したのが真田昌幸で、こうして完成したのが新府城です。NHK大河ドラマ『真田丸』で、最初に出てくるシーンがこれでした。 新府城は、現在の韮崎市にあります。JR韮崎駅の次には、新府駅があります。そしてさらに鉄道を北西に進むと、穴山駅、長坂駅と続き、山梨県のいちばん北西、小淵沢駅となるのです。 新府城は、数万の兵が入城できる強固な城でした。しかし完成して数ヶ月で、武田勝頼は、この城に火をかけて東へ進み、笹子峠を越えようとしたところで、小山田信茂から鉄砲を打ちかけられ、天目山の露と消えたのでした。 その武田末期、裏切り者のひとりが、武田信玄の女婿穴山梅雪でした。武田勝頼を見放し、密かに徳川家康の庇護を受けて生き延びる選択をした末路は悲惨でしたが、新府城を捨てることを進言したのも、穴山梅雪とも言われています。歴史の皮肉か、新府駅の次にあるのが穴山駅です。 さらに武田末期、書物『甲陽軍鑑』では、跡部勝資ととも戦犯とされたのが長坂釣閑斎ですが、この先に長坂駅があります。でも長坂釣閑斎も跡部勝資も、武田家滅亡と運命を共にしていて、仮に武田家滅亡となるような誤った判断をしたのだとしても、最後は武士らしく主君に殉じ、甲斐武田家と運命を一にしたのです。武田武士として生きたと評価してあげて良いのではと思います。 そんな思いで、韮崎駅で途中下車して新府、穴山、長坂を経て信州へ入りました。私は、山梨県、そして信州に向かうとき、小山田信茂の岩殿城跡が見える大月に入ると、なぜか武田信玄ではなく、武田勝頼を想います。甲斐大和駅、新府、穴山そして長坂駅を通ると、なおその感が強ます。 電車からは、信玄の足跡ではなく、勝頼の悲哀が見えるのです。歴史好きな私にとって、信州信濃路へ進むにあたって、避けて通れない感慨があるのが甲斐路です。 武田勝頼が自害したのが新暦に直すと4月3日です。百花繚乱のこの時期、甲府市や笛吹市を中心に、信玄公まつりが盛大に行われます。4月、花とともに、名家武田家の盛衰を想う甲斐路です。