近代刑法は、ある事実が、法律で定めれられた構成要件に該当し、その行為に違法性があり、行為当時、行為者に責任能力がある場合に、犯罪として成立するとしています。
例えば、人を捕まえて押さえつける行為は、暴行もしくは逮捕罪ですが、警察官が、逮捕状に基づいて行う行為は、正当業務行為として違法性がありません。また、他人の自動車に落書きするとか、他人の土地に穴を掘る行為は、器物毀棄罪ですが、乳幼児がやった場合は、責任能力がないとされるでしょう。
世上賑わすのは、責任能力だと思います。 酒を飲んでいてわからないとか、被疑者は、意味不明な言葉を吐いているなどの例でしょう。 刑罰の目的を応報とみても教育とみても、自分の行為が悪いことだとわからない者を非難しても、ある意味暖簾に腕押し、話は噛み合わないでしょう。先の乳幼児の悪戯?について、これを窘めても、当の子どもには、理解してもらえないでしょう。
では、酒を飲んで行為当時本当に自分のやっている行為を理解できていない場合はどうなんでしょう。
例えば、飲酒運転をして重大な事故を起こした人は、その時点では、まさに飲酒の影響で、本当にわかっていない可能性があります。 ところで、危険運転致傷罪が存在するように、責任能力に欠けるから犯罪とならないとは言われませんね。それは、これまた近代刑法の前提、自由意志論と人格責任論があるからです。人間は自由である。自分の意思で決められる。自分の意思で行ったことは、自分で責任を取りなさいと言うことです。先の飲酒運転の例、確かに事故時は自分のやっていることは理解していないかもしれません。
でも、酒を飲んだこと、そして自動車を運転したのは、自分の意思によることです。これが法学部で学んだ刑法総論の『原因において自由な行為』です。飲酒が原因の行為です。それは自分の判断でできたことなのです。 とは言え、本当に非難できるの?と思われる事案があることは否定できません。法律実務家である私は、感情に流されて論評することは許されません。これは、私がどう思うではなく、当時の社会の反応として、注目を浴びたケースがありました。
例えば、ある県で、母親に振り回されて極貧の生活を送っていた少年が、殺して金を取ってこなければお前を殺すと言われて、母親に命じられるまま祖父母を殺害した例、不倫していた妻から、その相手となる上司に強姦されたと打ち明けられてそれを信じ、妻の上司に回復不能の傷害を負わせて復讐?した例などは、被告人に同情が集まりました。でも、これらは、刑法上の責任能力が問題になるケースではありません。単に、それぞれの事情が、量刑にいかに影響するかであります。
先の極貧の家庭で生活した少年は、彼が好んでそのような環境に身を置いたものではありません。また、人間には、持って生まれてた素質、例えば医学の世界では、遺伝的素因もないとは言えないかもしれません。犯罪や非行に手を染めざるを得ないかったと同情されることもあるでしょう。そんな人を非難できるのですか? それでも人格責任輪は言います。確かに人間は、持って生まれた自分ではどうしようもないことはあるのかもしれない。しかし全ての人間が、それで諦める、まして犯罪者になるわけではない。
制約された中であっても、なお人間は、主体的に自らの意思で選択し、考えて生きていくことができるのではないか。それは行った行為そのものへの非難ではなくて、素質環境に左右されながらも、自分でそんな選択をした自由が残されていた。そのときその行為はやはりやってはならないと理解し得たはずだ。そのように人格形成して来たのだと言う内容です。 最近あるタレントが、薬物事犯で現行犯逮捕されたとき、『来てくれてありがとうございます』と述べたことが、議論を呼んでいるようです。
要するに、自分では、薬物に手を染めるのは悪いことだ、止めたいが止められない、捜査機関に摘発されるなどして、外からの強制手段によらなければ、自分ではどうにもならなかったと言うことのようです。 私も若いころ、刑事事件を担当したとき、薬物事件の累犯、すなわち繰り返す人を見てきました。我々は、理屈は言います。この被疑者被告人も、分かっているのです。それでも止められないのはなぜか。病気と言えばそれまでかもしれない。しかし、仮に病気だとしても、責任はないのか。そんなふうになったのは、自分の意思の部分は否定できないだろう。人格形成にどこか問題はなかっただろうかと振り返るのです。 このタレントの発言について、あるコメンテーターが、『来てもらってありがとうなんて軽い言葉。本当に更生したいなら、こんな言葉はでない。
ありがとうなんてふざけるなと感じる』とコメントしたことが、依存症問題に取り組む市民団体から、抗議を受けたと報じられています。抗議の是非はともかく、このコメンテーターの発言こそ軽いと思いました。
依存症の人は、確かにそうなったことは、自分の責任です。しかし、そこから逃れたいと思っているのもまた事実です。でも、自分から言い出せない。相談や治療を受ける環境が見出せない。それを反省していないかに片付けられては、依存症の人は怖いし恥ずかしい、理解してもらうのは無理だと抜け出すことはさらに難しくなっていくのです。 薬物事犯は、本人の人間性を破壊するのみならず、周囲、社会にも害悪となりうるこがよく言われています。
社会に害悪なら、社会が守られるべきなら、社会が対策を考え、責任を取った、取ろうとした人を受け入れなければならないと考えます。 やったことの責任から逃れられないことと、責任を取った、取ろうとした人にどのように向かうのかは、切っても切れない関係と考えます。
単に発生した結果がだけを捉えて非難し、また、同情するだけではその人も、また、社会も一件落着ではないと、大学で初めて刑法総論に接したときから思っていました。『犯罪』に関する報道、特にタレント上がりのコメンテーターと言われる方々の発言には、ストレスを感じます。久しぶりに法学部の学生に戻って、法律実務家を目覚ましたころを思い出した未だ梅雨明けしない夜のひとりごとでした。