歴女と言う言葉が流行っていると聞きます。歴史、特に戦国武将に惹かれて文献をあたり、実際その人の足跡を追う旅をするなど、かなり熱心なファンもいるそうです。
昔は、新選組や源義経等武勇に優れ、若くして命を散らした男性が人気だったと理解していました。最近の歴史ファンは、歴史の見直し、あるいは歴史に埋もれていた人物に人気が向かうと言われますね。 NHK大河ドラマ『真田丸』は、相変わらずの人気番組です。
豊臣秀吉の末期に入り、父昌幸、兄信幸(信之)と、信繁こと真田幸村に、このドラマの『その後』を予感させるシーンが現れてもいて、目が離せないようです。
特にこれまで策士であり、知恵袋であって、あるいは秀吉の腰巾着のごとき描れ方が少なくなかった石田三成が、山本耕史さんの好演もあって、好感度がアップしていると聞きます。 歴史とは勝者が作り上げたものとは、最近話題になっているスマホゲームで、『永遠の与党』とされている団体が、特に日本国憲法や、東京裁判を差して言うところです。
確かに石田三成を謀反人とし、真田幸村を英雄としたのは徳川幕府の時代ではあります。三成は、関ヶ原の戦いで処刑され、幸村は、最後まで家康を追い詰めて戦死した点で、徳川幕府の視点では、その扱いが異なるのはわかります。 石田三成は人望がなく、嫌われ者であったのは大方の見方ですが、彼が私心なく、忠義者であり、太閤殿下の威厳と豊臣の世を残すべく奮闘していたことは、これまたほぼ共通した評価だと思います。
徳川幕府時代に評価が下がり、『体制』から冷や飯を食わされた立場の者として、私は、周防岩国藩の藩祖となった吉川広家を上げることがあります。今回ちょっとしたきっかけで、山口県岩国市を訪ねました。関ヶ原の戦い後、岩国を治めた吉川広家は、かねて気になっていた人物です。まさに『たらればの話』として、この人の行動が、後に長州藩を動かし、そして明治維新から続く『永遠の与党』のトップを最も多く輩出した日本の歴史と政治に、少なくない影響を齎したのではないかと思うからです。
今回岩国滞在中に、日本三大名橋である名勝岩国錦帯橋から、吉川広家公が築城した岩国城を望むべく写メしてまいりました。 吉川広家は、吉川元春の三男として生まれ、幼少期は、うつけ者と言われるように凡人とされ、戦国の世の習い従って、人質や養子に出された試練の人生で様々を学び、豊臣秀吉の世となった後、頭角を表した人物です。
それは、西国の雄毛利元就が死去したときには、その長男毛利隆元は亡く、家督を継いだその子毛利輝元を補佐するため、毛利隆元の弟吉川元春と小早川隆景との『毛利の両川』体制が構築、徳川幕府で言えば、宗家を守るための御三家(二家?)となったこと、そして豊臣秀吉の朝鮮出兵の時期に、父吉川元春と家督を継いだ兄が相次いで死去したことが、吉川広家が、世に出る契機となったのです。毛利元就といえば『三本の矢』が有名です。父元春からも薫陶を受けた吉川広家もまた、毛利本家の存続と一族の団結を最優先にしていたのです。
さて、豊臣秀吉の死去後、通称豊臣方と言われる西軍と、徳川方と言われる東軍に分かれた天下分け目の関ヶ原が起きます。関ヶ原の戦いは、歴史通の間では、豊臣対徳川ではなく、豊臣秀吉家臣団の分裂と、これを利用した徳川家康の政治力と評価されます。秀吉子飼いで、その正妻寧々に可愛がられた福島正則や黒田長政は、東軍の主力として功を上げ、家康を警戒もしくは嫌っていた石田三成を筆頭に、奉行衆や大谷吉継らは西軍に付きました。豊臣家の官僚派と武闘派の対立でもあります。
関ヶ原の戦いでは、小早川秀秋の裏切りにより、勝敗がついたと言われます。それはそのとおりでしょう。ただ小早川秀秋は、小早川を名乗るものの、豊臣秀吉の甥で、寧々の親族でもあり、小早川隆景の力量を高く評価していた豊臣秀吉により、いわば無理やり?小早川家の養子にされたのであって、吉川広家ら生粋の『毛利人』ではないのです。そんな小早川秀秋を知る吉川広家は、最初から小早川秀秋の日和見、そして裏切りを予想していて、この戦は、必ず東軍が勝利するから、それを前提とした毛利本家の立ち位置を、模索していたわけです。ちなみに、吉川広家の正室は、関ヶ原の戦い最大の悲劇の武将と言われることになる宇喜多秀家の姉でした。
毛利も宇喜多も、元々は織田信長亡き後、豊臣秀吉に掛けた身内でありました。 石田三成は、自分が表に出たら反発を呼び人は集まらない、形だけの総大将を作り上げ、それが豊臣政権の五大老毛利輝元だったわけです。毛利輝元は、大阪城に居る豊臣秀頼を盛り立て、側にいるべしとし、形のうえでは、豊臣秀頼の意向として、西軍のトップに祭り上げられてしまいました。毛利はもともと天下を狙うべからず、毛利一族纏まることこそ先君元就公からの家訓であり、両川亡き後、安国寺恵瓊を頼りにする毛利輝元やその養子秀元らに危うさを感じていた吉川広家は、戦前より懇意にしている黒田長政を通じで、毛利は西軍につかない、少なくとも動かないことを申し出て、その代わりに毛利家の安泰を願い出ていたのです。 いざ関ヶ原の戦いが始まりました。
吉川広家は、形のうえでは西軍の総大将毛利輝元の配下として西軍に属しておりましたが、間違っても毛利軍が、東軍すなわち徳川家康に対して戦いを挑まないよう、毛利秀元や小早川秀秋の様子を伺う位置に陣取り、戦況を見ていたのです。そんなことを知らない毛利秀元は業を煮やし、これまた真相を知らない小早川秀秋は東軍に寝返り、毛利軍と吉川軍は、実際関ヶ原では、戦闘に加わることなく帰還したのでした。
戦前には、黒田長政を介して、徳川家康の重臣井伊直政や本多忠勝より、家康は、毛利家の本領安堵を約した起請文が交付されてもいて、吉川広家としては、これで毛利家は安泰と思いきや、そこは流石に徳川家康、後顧の憂とでも思ったか、毛利輝元の謀反の証拠なるものを持ち出して、毛利家は取り潰し、その代わり、なんと防長2か国37万石は、吉川広家に与えるとの決定が出されたのでした。 ここで吉川広家の必死の行動が始まりました。
今回のことは、毛利輝元の無分別が招いたことで、彼には家康に対する二心はないこと、毛利輝元が処罰されて自分が取り立てられたら面目が立たないことを言い、毛利家の名を残すことを願い出たのでした。結果徳川家康は、吉川広家の願いを受け入れ、吉川広家に与える予定だった防長2か国を毛利輝元に与え、吉川広家には恩賞なしの沙汰をしたのです。吉川広家の必死の行動で、毛利家は減封されたものの存続が叶い、これが後の長州藩による倒幕に繋がり、明治維新が生まれることになったわけです。
毛利本家は、37万石となり本拠を萩に起きました。当時の毛利輝元や秀元は、このようなことになったのは、戦うことを放棄させた吉川広家のせいだと受け取り、吉川広家は、周防入口岩国に、支藩3万石を与えられて、以後吉川家は、毛利家の家臣として扱われることになったのでした。いっぽうで『岩国領』は、徳川幕府に対しては藩と扱われ、参覲交代の対象とされるなど、『岩国の殿様』として複雑な立場にもなりました。
すなわち、以後明治の世まで毛利家の御三家は、長府、徳山、清末であり、岩国藩は、毛利であって毛利ではなかったのでした。 ある人は、吉川広家が余計なことをしなければ、関ヶ原の戦いでは西軍が勝利して徳川の世にならず、毛利家は、豊臣政権の中で、中枢を占めたはずだと言い、ある人は、毛利元就の直孫吉川広家によって毛利の名は残り、また、防長2か国に追いやられた徳川家への恨みとなって、幕末維新の原動力になったとの見方もあるのです。明治維新以後、防長すなわち山口県が、最も内閣総理大臣を輩出しています。
初代伊藤博文から現在の安倍晋三氏まで、意外にも?『菅直人』氏も山口県ご出身で、内閣総理大臣を務められました。
もし、関ヶ原の戦いの結果、毛利家が改易されたら、倒幕も明治維新も、『永遠の与党』もなかったかもしれません。その前に、取り潰しされた毛利武士団は、浪人となって、真田幸村らとともに、大坂の陣に馳せ参じたかもしれません。また、吉川広家が、このような工作をしなければ、小早川秀秋あたりが何をする必要もなく、西軍の勝利になっていたかもしれません。
その意味では、吉川広家の存在それ自体が、徳川幕府の成立、存続とその終焉に、影響を与えたとの結果論が、導き出されるのではないでしょうか? 岩国領主となった吉川広家は、岩国の街造りに努めたそうです。188ヶ条にもなる領内の統治法を制定し、岩国の基礎を築き、『岩国領』の石高は、実際17万石に達していたと言われます。そして8年の歳月をかけて錦川を手前を望む横山に、戦時用の城が完成したのでした。ただこの城は、後に幕府の一国一城令により、廃城となってしまいました。
すなわち、岩国藩は、独立した藩ですが、毛利本家からすると家臣に過ぎず、国内に複数の城があると言われたからです。そして吉川広家の後、2代藩主から肖像画が存在しないのも、岩国藩?の微妙な立ち位置、藩祖吉川広家の行動が、当時毛利本家からいかに見られたかが、わかるものであります。 しかし、歴史にたらればはありません。長州藩は、徳川幕府を倒したのです。それは、あの関ヶ原の屈辱が、深く刻み付いていたとの評価もあり得るでしょう。
岩国藩、そのときは、長州藩の支藩にすぎませんが、当初は、幕府と藩との間を取り持つような役割を与えられていましたが、いわゆる四境戦争の折は、岩国藩は、長州藩として芸州口で幕府軍と戦って勝利を呼び込み、長州藩から認められました。そして大政奉還後の慶應4年、長州藩主毛利敬親の介添えもあって、ようやく岩国藩は、正式に独立した藩と認めらたのでした。
ただし、廃藩置県の前夜のことでありました。 岩国藩が、毛利本家から認められたのは、廃藩置県の前数年であります。それでも、吉川広家の行動があったからこそ長州藩として毛利家は残り、そして有為な人材が、幕末維新のみならず、平成の現在まで、山口県から輩出しているのです。最後の最後で数年間、岩国藩は、毛利本家から臣下ではなく、藩として認められ、『和解』が成ったのです。
ここに267年の恩讐を越えて、吉川広家の願いは実を結びました。一度は来てみたかった岩国、そして岩国錦帯橋から眺める岩国城、真夏の日差しの中に魂を見た気がしました。