『大年増の厚化粧』と言われて泣く男性と奮い起つ女性。
2016年7月31日
最近ゲームの世界で『永遠の与党』と表示されている政党は、既に政界を引退した先輩に対して、「既にバッジを外された方」と言って、そのアドバイスなりは受け付けようとはしません。
それは、かの安全保障法のとき顕著でした。「自民党をぶっ潰す!」と叫んで『構造改革』なんてやった小泉純一郎元内閣総理大臣に乗って、劇場を演出したのは今は昔、当の小泉純一郎氏がチビチビやっている脱原発運動なんてどーってことない。この政党にとってこの先必要なのは、小泉純一郎氏ではなく、小泉進次郎氏ですから。
その自民党、何を思ったのかかつて党員だった前衆議院議員を呼んで、現在選挙期間中である東京都知事選挙の応援演説?をしてもらいました。自民党の推薦する候補者は、かつて自民党政権で、国務大臣を務めましたが、元地方の首長でした。
ところが衆議院議員で、こにらも国務大臣を歴任した女性自民党員が、党の推薦を受けずに立候補したことから、自民党としては、党推薦ではないこの女性の当選は認めれないと言う理屈のようです。この自民党員である女性候補者を応援した自民党員、そしてその家族は、党員から除名すると言っています。
党の方針に反して立候補した当人は、除名されたとは報道されていません。ですがこの女性候補者、自分は組織も応援もなく
ひとりで闘っていると言い、あたかも悲劇のヒロインを繕っています。なぜ自民党を辞めなのですかね。そして今回自民党から応援を頼まれた元衆議院議員のご老体、この方は自民党としての衆議院議員を辞めた後、ある自治体の首長を何期か務めました。その後国会に返り咲き、自民党ではない政党から、立候補して議員を務めていました。
元自民党議員で、その後他党に移った方は結構おられますね。鳩山由紀夫氏もそのひとりですが、この方、政界を引退後も、彼方此方で物議を醸す言動をされているわけですが、誰も元自民党と言いません。まあ、宇宙人と称される御仁ですから、他人からなんと言われようとも、ご本人はどこ吹く風でしょう。
元自民党だからという理由だけで、今更鳩山由紀夫氏の意見を聞けとか、彼に選挙の応援演説を頼みなさいとは申しませんが、どうして首長を経験したこの元自民党衆議院議員の『先輩』を担ぎ出したのでしょう。保守分裂なんて初期のころ言われた都知事選ですが、私は最初から茶番劇だと思っています。
この応援に出てきた御仁、かねてより口が悪いことで評判でした。『ババア』『シナ』等、変わることはありません。
この方、自民党の承認を得ずに立候補した女性候補者を指して、『大年増の厚化粧』で嘘つきと言い放ちました。その前に、野党統一候補を指して、『あいつは売国奴』と汚い言葉を吐くことは忘れておりません。私は、この女性候補者の化粧に興味ありませんし、どれくらいになると大年増と認定されるのか知りません。
この御仁、引退時自民党に所属していない点では、鳩山由紀夫元首相と同じですが、『古巣』のために応援したかたちでした。
この御仁、とかくタカ派発言が多いことで知られております。私はてっきり護憲政党?の公明党と手を結ぶ自民党に愛想を尽かして他党に移ったのだから、自民党に愛想を尽かして?自身の政策を実現するべく立候補したこの女性候補者を応援するのかとも思っていました。だって憲法改正を強く持論として、軍法会議復活や核武装の必要性等、同じお考えなのですから。
『東京にアメリカの核ミサイルを!』推進する集会でも、この女性候補者、持論を展開していました。仲間じゃないですか。
でもこの御仁の熱い気持ちはともかく、やはり茶番劇だったのですね。早速女性候補者陣営では、この御仁の発言が女性蔑視だとか、おじさんたちに任せられないとか盛り上がりを見せているのです。
自民党を除名されたはず?の元検察官出身の衆議院議員が、この女性候補者の応援の折、神妙に、哀しそうに、『大年増の厚化粧』発言に触れていました。これを見た女性候補者、こんなふうに男性を泣かして悪いなんて言っていましたよ。チャンチャラおかしい‼️。
件の口の悪い元衆議院議員で、自治体の首長を務めたご老体、この方の発言で泣かされた人はたくさんいますが、悲しいとか言って、昔のアイドルじゃあるまいし、嘘泣きなんてせずに、検察官、弁護士をやっていたなら、告発するとか損害賠償請求すれば良いでしょ。野党候補者は、この御仁の発言なんか、コメントしていません。それを女性蔑視とか大衆受けする選挙運動に切り替えて、上手いことやっていますよ。ここに集まった群衆のほとんどは、かつてこの元首長であるご老体を支持し、投票したと思われるのですが。もし、当選したら、かつての『ババア』発言も含めて、大年増の厚化粧発言について謝罪等求めるんでしょうね。まさか、『シナ』に同調するから怒らないなんてありませんよね。それと、東京に核武装、これどうなるんでしょう。大年増と言われて頭にきたから撤回するなら、それはそれで良いですが……。
選挙の結果、この女性候補者が当選し、自民党推薦候補が都知事になれなかったら、自民党どうするんでしょう。未だ離党していなかったなら、当然除名ですが、その他どれくらいの党員が、除名になるんでしょうか?そして、後ろ盾がないこの新知事、どう都政の舵取りするんでしょう。選挙中から、都議会を解散するとか言っていましたから、この新知事を支持する自民党ではない政党から、新たな当選者が出る理屈ではあります。
茶番劇は続くと思いますよ。応援してはならないのは選挙期間中だけですから、当選したら支持しても良いのでしょ。長く国政に居たこの新知事、自民党きつてのタカ派で、憲法改正はもとより、先の核武装発言や軍法会議の復活も言っています。少子化対策は、保育園の増設ではなく、強い男子を国策として育てること、そのためには大家族化が必要であり、発達障害等の『障害者』は、親の育て方が悪いと言っている団体に属していましたから。
コレ、どの政党の主張に合いますか?きっとある政党の総裁が、『新しい判断』で支持すると思いますよ。でもねぇ〜。そんなこと、選挙が始まる前から、私でもわかっていましたよ。自民党、保険かけたんですかね。少し前に行われた参議院議員選挙で、この自治体の選挙区からトップ当選した『女性』が、万一都知事選に出たら……。結果として、どちらが当選しても良いように、理屈は後から付いてくるやり方で、先の『3分の2』と同様、うまいこと都民に気づかれず、やり遂げました。さて投票日です。8時ちょうどに、結果出るでしょう。
東京の遅い梅雨明けに、この夏からの『新しい判断』と『新しい都政』を思うひとりごとです。
2016年7月28日
先月27日、気象庁は、関東甲信越地方の梅雨明けを宣言しました。
平年は、7月21日とされていて、昨年は、7月10日に梅雨明けしましたから、今年は、かなり遅れた梅雨明けであります。気象庁によれば、関東甲信越地方の梅雨期間は53日で、2003年以来の長い梅雨だったとされています。 この梅雨期間でも、首都圏では水不足が言われておりました。この期間の東京での降水量は256ミリで、だいたい300ミリが普通と言われる梅雨期間の降水量に照らしても、今年は雨が降らなかったのに、梅雨が長かった不釣り合いの気候でした。梅雨が明けても東京には、にわか雨があるいっぽうで、首都圏の水瓶は、厳しい状態が続いているようです。8月以降はさらに取水制限がされる見込みです。 東京の水瓶は、利根川水系の群馬県のダム湖です。
このダムの渇水は、かなり前から予想されていたと言います。今年の冬は、例年より降雪が少ないとは聞いておりましたが、ダム湖に注ぎ込む雪解け水が、首都圏の水瓶となっていたとは気づきませんでした。そう言えば群馬県や栃木県のスキー場が、雪不足で閉鎖されたとのニュースが、この冬報道されておりました。 それはそれとして、やはりダムのある場所は、梅雨期間にも、降水量は少なかったようです。 ダムの建設は、しばしば公共事業の絡みで議論されます。村がダムに沈んでさらに過疎が進んだとはよく言われることです。
でも、ダムができて観光資源となり、また、建設期間中には多くの人が出入りしますから、宿泊施設や飲食業等、さらには人手不足で地元の雇用にも資するとも言われます。いっぽうで公共事業は、かつて土建屋が儲かるなんて揶揄されていたように、利権や族議員の問題に発展する恐れもあり、無駄な公共事業なんて言われて小泉改革のときに、かなり批判されていたと思います。でも、アベノミクスを地方に!なんて声高々に、参議院議員選挙後、国民の信任を得たとして、さらに財政出動して、公共事業に充てることが計画さています。
新しいものをどんどん作るのではなく、今あるものが役に立っているか、よく考えて欲しいと思います。東京オリンピック前に、老朽化した首都高速道路の補修をするような話題はありましたが、これまた何にお金を使うかで、さてどうなるかです。数年前、中央高速道笹子トンネルの天井板崩落事故があったとき、全国の高速道路の点検をするようなことを言っていましたが、古い物を補修するよりも、新しい道路が次々に完成する気配です。反対運動が起きましたが、高尾山の下を通って、相模原海老名方面に向かう道路を造っても、その手前、上りの小仏トンネルの渋滞に、拍車をかけた感があります。
羽田空港から新宿方面に、首都高速道路中央環状線ができたことは、私にとってとても良いことでした。これまで浜崎橋ジャンクション他、都心の難所を通らなければならなかったところ、山手トンネルで短縮化でき、多摩地区の自宅とのリムジンバスも、便利となりました。でも、こんな新しい道路造るよりも、安全性を高める必要があったのではと考えてしまいます。
都内に道路ができても、都民の水が不足したら生きていけません。だからと言って、本当に新しいダムは必要なのか、今後の需要供給も、予想しながら計画してもらいたいです。
どこかの経済政策を言うわけではありませんが、ただ単に市場「金だけつぎ込んでも、大企業は金を外に出すことはなく、消費税分は、赤字国債に転化されている現状では、次世代への付け回しに過ぎません。オリンピックも良いですが、まず現実の生活が安心できるように、本当に、この鬱陶しい、悶々とした国政、そして都政を吹き飛ばすような晴れ晴れとした人と政策が現れることを期待したいです。
今年の夏も、暑くなりそうです。皆さんお元気で。
ある日のきさらぎ法律事務所前の公園での光景から。
2016年7月27日
きさらぎ法律事務所の斜め向かいの位置に公園があります。
大通りから入ったマンション街が並ぶこの地域にポツンと存在するこの場所、昼休みなどには、サラリーマンらが一服したり、OLさんが、弁当を食べている姿が見られます。
また、日曜日などは、近くに住む子どもたちが、ボール投げや遊具で遊んでいるのです。
この公園、きさらぎ法律事務所を初めて訪ねられる方の目印になるので、私も重宝しています。
ある依頼者が仰るには、きさらぎ法律事務所内は禁煙なので、これから始まる長~い打ち合わせに備えて、この公園で喫煙してから事務所を訪ねる例だそうです。
この辺り、もともと花園町と言って、四谷大木戸の手前、庶民の街の入口に位置していたので、昔風に言えば、新宿はここからとなるわけです。今日は、この由緒ある?旧花園町やそこにある公園についてお話するのではありません。ある日、この公園前で目撃した光景からのひとりごとであります。
後でわかったことですが、それは『ポケモンGO』が、日本に配信された日でした。私は、そもそも機械はからっきしダメな上、ゲーム類には全くと言っていいくらい興味がないので、何のことか、最初サッパリわかりませんでした。
ポケモンと言えば、たまに空港で見かける『ポケモンジェット』のキャラクター程度の認識でした。ネット上で調べてみましたら、ポケモンGOとは、位置情報を活用することにより、現実世界そのものを舞台にして、ポケモンを捕まえたり、バトルするゲームで、これまでのゲームと違うところは、モニター?の中に留まらず、プレーする人は、実際外に出て、ポケモンを探したり、他のプレーヤーと情報を交換することで、リアルとバーチャルを楽しむことができると説明されていました。
その説明でも、私は、よくわかっておりません。
この日の午後、外出先から事務所に帰るため、四角を曲がって件の公園前に来たときです。手にスマホか何か持った複数の人たちが、私を目掛けてその器具を押し出すように歩いて来たのです。驚いたというよりチョッと怖くて、『何ですか?』と言葉を発しようとした途端、私の存在に気づいたのでしょう、その集団?は、私を避けて器具を前にしたままゆっくりと前進を続けたのです。
よく見ると、サラリーマン風の人、学生らしき人、作業服の人、手に買い物袋を持った中年女性、そして恋人のような男女、いろいろでした。『何かの宗教?』かとも思ってしまいました。
これがポケモンGOをやっていた人たちでした。この公園に、ポケモンキャラクターが現れたのでしょう。
まだ続きがあります。
翌朝私は、早朝自宅を出て羽田空港に行くリムジンバスに乗るため、最寄駅に歩いていたとき、駅近くのロータリーに、これまた数名の男女が、スマホらしき物を持って、彼方此方に向けて歩いているのです。夏至から間がなく、日照時間が比較的長い夏の朝と言っても、まだ午前4時台です。そんな時間に駅前に人がウロウロしていたら気味悪いですね。もう、「あっ、ポケモンGOだ!」とわかっていたから安心でしたが。
以前より、歩きスマホの危険性は言われておりました。既にポケモンGOをやっていたことでのトラブルが報道されています。交通事故は複数発生していますし、私が驚いたと同じ経験をしたのでしょうか、こちらを目掛けてスマホを剥き出して歩いて来た女性に対して、「勝手に写メふるな!」と怒って殴りつけた男性が、逮捕されたようでした。
画面の世界ではなく、実社会にリアルにとは、もうゲーム利用者の満足度が、そこまで来たと言うのことなのでしょう。私が酒を止められないように、この方々、危険を顧みず、ゲームを止められないことは、分からないではありません。
このポケモンGOの危険性、迷惑を巡っては、もう議論が沸騰しているようです。
特に、「心の底から軽蔑します」論争が、既にネット上で、バトルされている気配です。
ゲームに関心がない私からすると、好きな人は勝手にやれば良いのであって、ただし、他人に迷惑不安を与えないでねの注文は付けますが。既に首相官邸にも、ポケモンGOのキャラクターが登場したそうです。皇居や原発に来たらどうなるの?ともあれこれ言われているようです。
そんな中で自民党本部、『永遠の与党』と表示されていたことが明らかにされました。
リアルとバーチャル、これはゲームの世界だけのことなのでしょうか?
そっちが気になる人間も存在することをわかって欲しいポケモンGO騒動でありました。
歴史は勝者が作る、歴史にたらればはない、山口県に来た福本悟のひとりごとです。
2016年7月26日
歴女と言う言葉が流行っていると聞きます。歴史、特に戦国武将に惹かれて文献をあたり、実際その人の足跡を追う旅をするなど、かなり熱心なファンもいるそうです。
昔は、新選組や源義経等武勇に優れ、若くして命を散らした男性が人気だったと理解していました。最近の歴史ファンは、歴史の見直し、あるいは歴史に埋もれていた人物に人気が向かうと言われますね。 NHK大河ドラマ『真田丸』は、相変わらずの人気番組です。
豊臣秀吉の末期に入り、父昌幸、兄信幸(信之)と、信繁こと真田幸村に、このドラマの『その後』を予感させるシーンが現れてもいて、目が離せないようです。
特にこれまで策士であり、知恵袋であって、あるいは秀吉の腰巾着のごとき描れ方が少なくなかった石田三成が、山本耕史さんの好演もあって、好感度がアップしていると聞きます。 歴史とは勝者が作り上げたものとは、最近話題になっているスマホゲームで、『永遠の与党』とされている団体が、特に日本国憲法や、東京裁判を差して言うところです。
確かに石田三成を謀反人とし、真田幸村を英雄としたのは徳川幕府の時代ではあります。三成は、関ヶ原の戦いで処刑され、幸村は、最後まで家康を追い詰めて戦死した点で、徳川幕府の視点では、その扱いが異なるのはわかります。 石田三成は人望がなく、嫌われ者であったのは大方の見方ですが、彼が私心なく、忠義者であり、太閤殿下の威厳と豊臣の世を残すべく奮闘していたことは、これまたほぼ共通した評価だと思います。
徳川幕府時代に評価が下がり、『体制』から冷や飯を食わされた立場の者として、私は、周防岩国藩の藩祖となった吉川広家を上げることがあります。今回ちょっとしたきっかけで、山口県岩国市を訪ねました。関ヶ原の戦い後、岩国を治めた吉川広家は、かねて気になっていた人物です。まさに『たらればの話』として、この人の行動が、後に長州藩を動かし、そして明治維新から続く『永遠の与党』のトップを最も多く輩出した日本の歴史と政治に、少なくない影響を齎したのではないかと思うからです。
今回岩国滞在中に、日本三大名橋である名勝岩国錦帯橋から、吉川広家公が築城した岩国城を望むべく写メしてまいりました。 吉川広家は、吉川元春の三男として生まれ、幼少期は、うつけ者と言われるように凡人とされ、戦国の世の習い従って、人質や養子に出された試練の人生で様々を学び、豊臣秀吉の世となった後、頭角を表した人物です。
それは、西国の雄毛利元就が死去したときには、その長男毛利隆元は亡く、家督を継いだその子毛利輝元を補佐するため、毛利隆元の弟吉川元春と小早川隆景との『毛利の両川』体制が構築、徳川幕府で言えば、宗家を守るための御三家(二家?)となったこと、そして豊臣秀吉の朝鮮出兵の時期に、父吉川元春と家督を継いだ兄が相次いで死去したことが、吉川広家が、世に出る契機となったのです。毛利元就といえば『三本の矢』が有名です。父元春からも薫陶を受けた吉川広家もまた、毛利本家の存続と一族の団結を最優先にしていたのです。
さて、豊臣秀吉の死去後、通称豊臣方と言われる西軍と、徳川方と言われる東軍に分かれた天下分け目の関ヶ原が起きます。関ヶ原の戦いは、歴史通の間では、豊臣対徳川ではなく、豊臣秀吉家臣団の分裂と、これを利用した徳川家康の政治力と評価されます。秀吉子飼いで、その正妻寧々に可愛がられた福島正則や黒田長政は、東軍の主力として功を上げ、家康を警戒もしくは嫌っていた石田三成を筆頭に、奉行衆や大谷吉継らは西軍に付きました。豊臣家の官僚派と武闘派の対立でもあります。
関ヶ原の戦いでは、小早川秀秋の裏切りにより、勝敗がついたと言われます。それはそのとおりでしょう。ただ小早川秀秋は、小早川を名乗るものの、豊臣秀吉の甥で、寧々の親族でもあり、小早川隆景の力量を高く評価していた豊臣秀吉により、いわば無理やり?小早川家の養子にされたのであって、吉川広家ら生粋の『毛利人』ではないのです。そんな小早川秀秋を知る吉川広家は、最初から小早川秀秋の日和見、そして裏切りを予想していて、この戦は、必ず東軍が勝利するから、それを前提とした毛利本家の立ち位置を、模索していたわけです。ちなみに、吉川広家の正室は、関ヶ原の戦い最大の悲劇の武将と言われることになる宇喜多秀家の姉でした。
毛利も宇喜多も、元々は織田信長亡き後、豊臣秀吉に掛けた身内でありました。 石田三成は、自分が表に出たら反発を呼び人は集まらない、形だけの総大将を作り上げ、それが豊臣政権の五大老毛利輝元だったわけです。毛利輝元は、大阪城に居る豊臣秀頼を盛り立て、側にいるべしとし、形のうえでは、豊臣秀頼の意向として、西軍のトップに祭り上げられてしまいました。毛利はもともと天下を狙うべからず、毛利一族纏まることこそ先君元就公からの家訓であり、両川亡き後、安国寺恵瓊を頼りにする毛利輝元やその養子秀元らに危うさを感じていた吉川広家は、戦前より懇意にしている黒田長政を通じで、毛利は西軍につかない、少なくとも動かないことを申し出て、その代わりに毛利家の安泰を願い出ていたのです。 いざ関ヶ原の戦いが始まりました。
吉川広家は、形のうえでは西軍の総大将毛利輝元の配下として西軍に属しておりましたが、間違っても毛利軍が、東軍すなわち徳川家康に対して戦いを挑まないよう、毛利秀元や小早川秀秋の様子を伺う位置に陣取り、戦況を見ていたのです。そんなことを知らない毛利秀元は業を煮やし、これまた真相を知らない小早川秀秋は東軍に寝返り、毛利軍と吉川軍は、実際関ヶ原では、戦闘に加わることなく帰還したのでした。
戦前には、黒田長政を介して、徳川家康の重臣井伊直政や本多忠勝より、家康は、毛利家の本領安堵を約した起請文が交付されてもいて、吉川広家としては、これで毛利家は安泰と思いきや、そこは流石に徳川家康、後顧の憂とでも思ったか、毛利輝元の謀反の証拠なるものを持ち出して、毛利家は取り潰し、その代わり、なんと防長2か国37万石は、吉川広家に与えるとの決定が出されたのでした。 ここで吉川広家の必死の行動が始まりました。
今回のことは、毛利輝元の無分別が招いたことで、彼には家康に対する二心はないこと、毛利輝元が処罰されて自分が取り立てられたら面目が立たないことを言い、毛利家の名を残すことを願い出たのでした。結果徳川家康は、吉川広家の願いを受け入れ、吉川広家に与える予定だった防長2か国を毛利輝元に与え、吉川広家には恩賞なしの沙汰をしたのです。吉川広家の必死の行動で、毛利家は減封されたものの存続が叶い、これが後の長州藩による倒幕に繋がり、明治維新が生まれることになったわけです。
毛利本家は、37万石となり本拠を萩に起きました。当時の毛利輝元や秀元は、このようなことになったのは、戦うことを放棄させた吉川広家のせいだと受け取り、吉川広家は、周防入口岩国に、支藩3万石を与えられて、以後吉川家は、毛利家の家臣として扱われることになったのでした。いっぽうで『岩国領』は、徳川幕府に対しては藩と扱われ、参覲交代の対象とされるなど、『岩国の殿様』として複雑な立場にもなりました。
すなわち、以後明治の世まで毛利家の御三家は、長府、徳山、清末であり、岩国藩は、毛利であって毛利ではなかったのでした。 ある人は、吉川広家が余計なことをしなければ、関ヶ原の戦いでは西軍が勝利して徳川の世にならず、毛利家は、豊臣政権の中で、中枢を占めたはずだと言い、ある人は、毛利元就の直孫吉川広家によって毛利の名は残り、また、防長2か国に追いやられた徳川家への恨みとなって、幕末維新の原動力になったとの見方もあるのです。明治維新以後、防長すなわち山口県が、最も内閣総理大臣を輩出しています。
初代伊藤博文から現在の安倍晋三氏まで、意外にも?『菅直人』氏も山口県ご出身で、内閣総理大臣を務められました。
もし、関ヶ原の戦いの結果、毛利家が改易されたら、倒幕も明治維新も、『永遠の与党』もなかったかもしれません。その前に、取り潰しされた毛利武士団は、浪人となって、真田幸村らとともに、大坂の陣に馳せ参じたかもしれません。また、吉川広家が、このような工作をしなければ、小早川秀秋あたりが何をする必要もなく、西軍の勝利になっていたかもしれません。
その意味では、吉川広家の存在それ自体が、徳川幕府の成立、存続とその終焉に、影響を与えたとの結果論が、導き出されるのではないでしょうか? 岩国領主となった吉川広家は、岩国の街造りに努めたそうです。188ヶ条にもなる領内の統治法を制定し、岩国の基礎を築き、『岩国領』の石高は、実際17万石に達していたと言われます。そして8年の歳月をかけて錦川を手前を望む横山に、戦時用の城が完成したのでした。ただこの城は、後に幕府の一国一城令により、廃城となってしまいました。
すなわち、岩国藩は、独立した藩ですが、毛利本家からすると家臣に過ぎず、国内に複数の城があると言われたからです。そして吉川広家の後、2代藩主から肖像画が存在しないのも、岩国藩?の微妙な立ち位置、藩祖吉川広家の行動が、当時毛利本家からいかに見られたかが、わかるものであります。 しかし、歴史にたらればはありません。長州藩は、徳川幕府を倒したのです。それは、あの関ヶ原の屈辱が、深く刻み付いていたとの評価もあり得るでしょう。
岩国藩、そのときは、長州藩の支藩にすぎませんが、当初は、幕府と藩との間を取り持つような役割を与えられていましたが、いわゆる四境戦争の折は、岩国藩は、長州藩として芸州口で幕府軍と戦って勝利を呼び込み、長州藩から認められました。そして大政奉還後の慶應4年、長州藩主毛利敬親の介添えもあって、ようやく岩国藩は、正式に独立した藩と認めらたのでした。
ただし、廃藩置県の前夜のことでありました。 岩国藩が、毛利本家から認められたのは、廃藩置県の前数年であります。それでも、吉川広家の行動があったからこそ長州藩として毛利家は残り、そして有為な人材が、幕末維新のみならず、平成の現在まで、山口県から輩出しているのです。最後の最後で数年間、岩国藩は、毛利本家から臣下ではなく、藩として認められ、『和解』が成ったのです。
ここに267年の恩讐を越えて、吉川広家の願いは実を結びました。一度は来てみたかった岩国、そして岩国錦帯橋から眺める岩国城、真夏の日差しの中に魂を見た気がしました。
依存症問題は、その人を非難するだけでは、社会は安寧とはならないと思います。
2016年7月25日
近代刑法は、ある事実が、法律で定めれられた構成要件に該当し、その行為に違法性があり、行為当時、行為者に責任能力がある場合に、犯罪として成立するとしています。
例えば、人を捕まえて押さえつける行為は、暴行もしくは逮捕罪ですが、警察官が、逮捕状に基づいて行う行為は、正当業務行為として違法性がありません。また、他人の自動車に落書きするとか、他人の土地に穴を掘る行為は、器物毀棄罪ですが、乳幼児がやった場合は、責任能力がないとされるでしょう。
世上賑わすのは、責任能力だと思います。 酒を飲んでいてわからないとか、被疑者は、意味不明な言葉を吐いているなどの例でしょう。 刑罰の目的を応報とみても教育とみても、自分の行為が悪いことだとわからない者を非難しても、ある意味暖簾に腕押し、話は噛み合わないでしょう。先の乳幼児の悪戯?について、これを窘めても、当の子どもには、理解してもらえないでしょう。
では、酒を飲んで行為当時本当に自分のやっている行為を理解できていない場合はどうなんでしょう。
例えば、飲酒運転をして重大な事故を起こした人は、その時点では、まさに飲酒の影響で、本当にわかっていない可能性があります。 ところで、危険運転致傷罪が存在するように、責任能力に欠けるから犯罪とならないとは言われませんね。それは、これまた近代刑法の前提、自由意志論と人格責任論があるからです。人間は自由である。自分の意思で決められる。自分の意思で行ったことは、自分で責任を取りなさいと言うことです。先の飲酒運転の例、確かに事故時は自分のやっていることは理解していないかもしれません。
でも、酒を飲んだこと、そして自動車を運転したのは、自分の意思によることです。これが法学部で学んだ刑法総論の『原因において自由な行為』です。飲酒が原因の行為です。それは自分の判断でできたことなのです。 とは言え、本当に非難できるの?と思われる事案があることは否定できません。法律実務家である私は、感情に流されて論評することは許されません。これは、私がどう思うではなく、当時の社会の反応として、注目を浴びたケースがありました。
例えば、ある県で、母親に振り回されて極貧の生活を送っていた少年が、殺して金を取ってこなければお前を殺すと言われて、母親に命じられるまま祖父母を殺害した例、不倫していた妻から、その相手となる上司に強姦されたと打ち明けられてそれを信じ、妻の上司に回復不能の傷害を負わせて復讐?した例などは、被告人に同情が集まりました。でも、これらは、刑法上の責任能力が問題になるケースではありません。単に、それぞれの事情が、量刑にいかに影響するかであります。
先の極貧の家庭で生活した少年は、彼が好んでそのような環境に身を置いたものではありません。また、人間には、持って生まれてた素質、例えば医学の世界では、遺伝的素因もないとは言えないかもしれません。犯罪や非行に手を染めざるを得ないかったと同情されることもあるでしょう。そんな人を非難できるのですか? それでも人格責任輪は言います。確かに人間は、持って生まれた自分ではどうしようもないことはあるのかもしれない。しかし全ての人間が、それで諦める、まして犯罪者になるわけではない。
制約された中であっても、なお人間は、主体的に自らの意思で選択し、考えて生きていくことができるのではないか。それは行った行為そのものへの非難ではなくて、素質環境に左右されながらも、自分でそんな選択をした自由が残されていた。そのときその行為はやはりやってはならないと理解し得たはずだ。そのように人格形成して来たのだと言う内容です。 最近あるタレントが、薬物事犯で現行犯逮捕されたとき、『来てくれてありがとうございます』と述べたことが、議論を呼んでいるようです。
要するに、自分では、薬物に手を染めるのは悪いことだ、止めたいが止められない、捜査機関に摘発されるなどして、外からの強制手段によらなければ、自分ではどうにもならなかったと言うことのようです。 私も若いころ、刑事事件を担当したとき、薬物事件の累犯、すなわち繰り返す人を見てきました。我々は、理屈は言います。この被疑者被告人も、分かっているのです。それでも止められないのはなぜか。病気と言えばそれまでかもしれない。しかし、仮に病気だとしても、責任はないのか。そんなふうになったのは、自分の意思の部分は否定できないだろう。人格形成にどこか問題はなかっただろうかと振り返るのです。 このタレントの発言について、あるコメンテーターが、『来てもらってありがとうなんて軽い言葉。本当に更生したいなら、こんな言葉はでない。
ありがとうなんてふざけるなと感じる』とコメントしたことが、依存症問題に取り組む市民団体から、抗議を受けたと報じられています。抗議の是非はともかく、このコメンテーターの発言こそ軽いと思いました。
依存症の人は、確かにそうなったことは、自分の責任です。しかし、そこから逃れたいと思っているのもまた事実です。でも、自分から言い出せない。相談や治療を受ける環境が見出せない。それを反省していないかに片付けられては、依存症の人は怖いし恥ずかしい、理解してもらうのは無理だと抜け出すことはさらに難しくなっていくのです。 薬物事犯は、本人の人間性を破壊するのみならず、周囲、社会にも害悪となりうるこがよく言われています。
社会に害悪なら、社会が守られるべきなら、社会が対策を考え、責任を取った、取ろうとした人を受け入れなければならないと考えます。 やったことの責任から逃れられないことと、責任を取った、取ろうとした人にどのように向かうのかは、切っても切れない関係と考えます。
単に発生した結果がだけを捉えて非難し、また、同情するだけではその人も、また、社会も一件落着ではないと、大学で初めて刑法総論に接したときから思っていました。『犯罪』に関する報道、特にタレント上がりのコメンテーターと言われる方々の発言には、ストレスを感じます。久しぶりに法学部の学生に戻って、法律実務家を目覚ましたころを思い出した未だ梅雨明けしない夜のひとりごとでした。