天皇陛下82歳のお誕生日の記者会見でのお言葉に思う。
2015年12月25日
今年もあと少し、私福本悟にとって大きな出来事は、『安全保障関連法案成立』と『アビスパ福岡J1昇格』でした。
でも、どうしても書いておきたいことがありました。それは、今上陛下の『お言葉』です。天皇陛下は、12月23日に、82歳になられました。
私自身年をとるに従い、戦争を知らない世代の中では『年寄り』の部類に入っていく私には、年々陛下のお言葉が「ありがたい」と感じられるのです。福本悟を『右翼』と思っている方はおられないでしょうから、天皇誕生日を迎え、また、2015年の締めにあたり、これに触れさせていただきます。
陛下は、今年の年頭のご感想の中で、「満州事変に始まる戦争の歴史を学び、今後の日本のあり方を考えることが極めて大切」と述べられました。また、8月15日全国戦没者追悼式では、「先の大戦に対する深い反省」と言う表現を新たに使われて、お言葉を述べられました。
もちろん、天皇は、国政に関与いたしません。天皇の国事行為とされる儀式への参加、お言葉は、『内閣の助言と承認』によりなされております。つまり、安倍晋三内閣総理大臣は、陛下のお言葉を『承認』しているのです。
12月23日、82歳の誕生日を誕生日を迎えられるにあたり、再度陛下は、「今年は、先の大戦が終結して70年という節目の年に当たります」と述べられ、この戦争では、軍人以外の人々も含め、誠に多くの人命が失われ、平和であったならば、社会の様々な分野で有意義な人生を送ったであろう人たちが命を失ったことに、非常に心が痛みますと続けられました。
陛下は、幼いころ、船の絵葉書を見て楽しんだことがあったところ、「それらの船は、ほとんど海に沈んだということを後で知り、制空権がなく、輸送船を守る軍艦などもない状況下でも、輸送業務に携らなければならなかった船員の気持ちを本当に痛ましく思います。」とお声を震わせてお話されたと報道されておりました。
太平洋戦争では、民間船の船員ら6万人余りが犠牲となったとされます。陛下は、今年6月に行われた第45回戦没・殉職船員追悼式に参列され、献花をなされています。
陛下は、今年発生した各地の災害にもお心を痛められ、また、危機を伴う救助活動に、多くの国民が携わったことに感謝の思いを寄せられ、「困難に遭遇している人々を助けようという気持ちが、日本人の中に豊かに育っていることを非常に心強く思います」と結ばれています。
今上陛下は、本当にお心の優しい方であります。いつも国民をおもい、そして全世界の平和と安寧を願っておられます。その原点は、『先の大戦』と『歴史に学ぶ』、そして『これらに対する深い反省』とされます。ハッキリ言って、現在の日本の為政者にいちばん欠けているのは『これ』ですね。
今上陛下は、今年パラオ共和国を訪問され、日本政府が建立した西太平洋戦没者の碑と、米国陸軍第81歩兵師団慰霊碑に献花されました。
たっての陛下の願いだったと報じられておりましたが、このご年齢で、思いを実現されるのは、本当に頭が下がります。誰よりも、世界平和を願い、そして日本の歩む道筋に、目を離すことをなさらないのだと思いました。
さて、内閣総理大臣、政府与党のお歴々、そして株だ円安だ昇給だとなんとかミクスに湧いている方々、今上陛下が国民のために送り続けているメッセージ、感じ取るとことはないでしょうか。
アビスパ福岡前代表取締役社長野見山氏の退社報道に寄せて。
2015年12月24日
プロ野球は、日本シリーズが終わり、サッカーJリーグは、チャンピオンシップとJ1昇格プレーオフ、J2J3入れ替え戦が終わるとストーブリーグです。ただ、毎年のことですが、契約更改をしない選手、すなわち、そのチームを去らなければならない選手が出る辛い季節でもあります。
でも、選手だけではありません。監督コーチの契約終了は、プロである以上、現場の責任者として避けられないことでありましょう。 今日は、悲しいと言うか、ありがとうとしか言えない報道に接しました。
アビスパ福岡取締役で、平成26年1月代表取締役に就任し、今年3月アパマングループのシステムソフトさんが出資されて、その経営を委ねた後も、取締役としてアビスパのため努力され続けた野見山篤氏が、アビスパ福岡株式会社の取締役を、12月15日付けで退任されたのです。アビスパ福岡サポーターからは、『号泣!』『感謝しかない』『涙が止まらない』等、整理がつかない惜別の弁が続出しております。 野見山篤氏は、福岡県飯塚市出身の59歳、飯塚高校から早稲田大学に進み、サッカー部に所属、卒業後は住友金属株式会社に入社、後の鹿島アントラーズの礎を築かれました。
Jリーグ創成期の立役者で、ジーコ氏を日本に連れてきたのも野見山氏と言われます。その後日本サッカー協会でも強化委員や技術部副委員長等を歴任し、また、鹿島アントラーズの育成部長に戻るなどした後、2013年末に、選手に対する給与遅配が起こり、経営難が表面化したアビスパ福岡の再建のために、郷里の福岡県に戻られる英断をされ、見事にこれを再建、そして、アパマングループの資本参加を得て、川森社長にバトンタッチされたのです。
この方がおられなかったら、アビスパ福岡は倒産したか、少なくとも連続した債務超過により、ライセンス剥奪は避けられなかったのでした。 でも、私を含めたアビスパ福岡のサポーターは皆知っています。野見山さんは、単に経営手腕に優れているだけではないのです。いつも、どんな天候でも、アビスパが勝っても負けても、スタジアム前に立たれ、ひとりひとりに頭を下げて、観戦のお礼を述べられます。
また、アウェイゲームにもいらっしゃって、一緒に観戦してくださっていました。特に私は、東京福岡県人会の総会の会場で、外に小さな机を置いて、会員ひとりひとりにアビスパ福岡を知っていただくべく、入り口でお辞儀をする姿が忘れられません。今となっては、野見山さんとお話しできたこと、名刺交換できたことが、私の財産となっています。
『火中の栗を拾う』と言う言葉は、この方のためにあるように思いました。でも、拾った栗は、素晴らしい輝きを見せました。アパマングループを招聘したことも、井原正巳監督を招いたことも、中村北斗選手を呼び戻すことができたのも、野見山氏あればこそでした。
どんなに感謝しても感謝しきれない恩人です。そして、J1昇格を果たしたこのとき、静かに退社されるなんて、カッコ良すぎですね。ご自分がなすべきことは全てやり遂げた思いなのでしょう。
野見山篤前代表取締役社長、本当にありがとうございました。
そしてお疲れ様でした。
野見山氏の残した財産、私たちは決して忘れません。
そしてこのような方こそ、会社の代表に相応しい。代表者たるもの、自ら率先して事に当たる、会社とは、これに関係する全ての人に、「ありがとう!」の気持ちで臨まなければならないことを教えていただきました。
サッカー、また、スポーツ界だけでなく、野見山篤氏を必要とする組織は必ず存在します。アビスパ福岡を助けていただけたように、苦難に陥った組織や人々を、どうか助けてあげてください。アビスパ福岡のサポーターとしてのお願いです。繰り返します。野見山篤氏に対しては、感謝しかありません。
人間の真価は、挫折を味わったときに発揮されます。
2015年12月23日
スペインで開催されていたフィギュアスケートグランプリファイナルで、羽生弓弦選手が、330点超えのスコアを出し、3大会連続優勝しました。
その数日前に、自らが出した320点台を更新する世界記録でした。異次元、無限大等と評価され、どこまで伸ばすのか、圧巻の演技でありました。演技後自己記録、すなわち世界記録を更新したことがわかると、羽生弓弦選手自身も泣いておられました。
かつて羽生選手が尊敬するロシアのプルシェンコ選手が250点台を、そして長年日本男子フィギュア界を率いていた高橋大輔選手が260点台を、ソチオリンピックでは、羽生選手のライバルと言われたパトリックチャン選手がその前年にあわや300点に届くかと言う数字を出したときには、人類未踏なんて声さえ上がったのがもう、別世界のことのようです。まだまだ伸びる羽生選手ですが、ここまで来るのも、想像を絶する努力があったはずです。
平成23年3月11日発生した東日本大震災では、羽生選手の地元宮城県は大きな被害を受け、羽生選手が練習するリンクも破壊され、羽生弓弦さん自身も、数日避難所生活を余儀無くされました。彼は、このとき16歳の高校生、現実を受け容れることができず、フィギュアスケートを辞めようと思ったそうです。
そんな彼の心を動かしたのは、復興のため頑張る人々、そして羽生弓弦選手を応援する多くの声援だったそうです。そんな人々の姿を見て、背中を押され、再びリンクに立つことができたと言われます。彼もまた、恩返しを言われます。自分の責任ではないところで挫折を味わい、そして立ち上がるのは、並大抵のことではありません。強くなったのでしょう。
話は少し戻ります。ソチオリンピックスキー団体男子ジャンプ陣に銀メダルをもたらした葛西紀明選手は、『レジェンド』と評されます。この大会では、葛西選手個人も、銀メダルを獲得しました。40歳を越え、まだまだ衰えを知りません。
彼もまた、大きな挫折から復活したのです。少年時代から天才ジャンパーの名をほしいままにしていた葛西紀明選手、日本国中が湧いた冬季長野オリンピックの男子団体ジャンプでは、彼は補欠に回ってジャンプ台には立てず、金メダルの4人を下で見ていたのです。「失敗しろ!」と願って。
その翌年、私は、ワールドカップ札幌大会大倉山ジャンプ場で、スキーを担いで俯きながら、ひとり歩く葛西紀明選手を見ました。前年のオリンピックの感動をもう一度の観客が大勢集まり、世界の名だたるジャンパーが躍動する姿に多くの人たちが歓声をあげていました。そんなとき、よい結果を出せなかった葛西選手を見つけた観客が、「あっ、葛西だ葛西だ。」「もう、ダメなんじゃない?」と指をさしつつ会話していました。
私は、「ひどいこと言うな!」とは思ったものの、その後のレジェンド葛西紀明を予想などできません。単に勝負の世界は厳しい、常にトップクラスを維持することはどんなにか難しいのだろうと思ったに留まります。
その後葛西選手は、肉親を亡くし、所属チームを離れ、ひとりで闘ったのです。でも、葛西紀明選手は、ソチオリンピック後、多くの人に支えられたと言われました。本当は、悔しいこと、辛いこと、やめたいと思ったこともあったでしょう。でも葛西選手は、言いました。あの日、あの白馬の雪の中、下で見ていたあの瞬間に誓った、あれがあったからやり続けられたと。
人間は、何かの瞬間、きっかけで、大きく変わることがあります。『日本中が泣いた』浅田真央選手のソチオリンピックフリーの演技は、その前に行われたショートプログラムで力を出せなかった浅田選手に対して、佐藤信夫コーチが、「コートで倒れたら助けに行く!」の一言が後押ししたとの後日談です。
また、今年サッカーJリーグ第2ディビジョンから、昇格プレーオフを制してJ1への昇格を決めた『アビスパ福岡』は、開幕三連敗で最下位に沈んだとき、今年就任した井原正巳監督は、「これ以上下はないから」と言ったそうです。
葛西紀明選手も羽生弓弦選手も、あるきっかけで変わり、他人が真似をできないような努力を続けて今日があります。
そしてこれに満足せず、その先に挑戦しているのです。私は、今年休養から復帰して、先日のグランプリファイナルでは、おそらく満足いく演技ができなかったと思われている浅田真央選手が、胃腸炎のアクシデントに見舞われながらも演じきったことは凄いと感じるものですが、どうぞ浅田真央さん、ご自分の思うところ信じるところに従って、道を進んでいただきたいと願うものです。
浅田真央さんくらいの極められた方に対しては、外野が「がんばれ!」は無用でしょう。そんなこと考えされられるウインタースポーツの時期になりました。
明太子が福岡博多の最高傑作と言われるのはなぜでしょう?
2015年12月22日
ピリッと辛くてコクのある、暖かいご飯にピッタリの『明太子』、福岡博多土産の定番から、今や全国区の味となりました。
昔は、『からしめんたい』と呼ばれていた記憶があり、かなり唐辛子がきつかった印象でした。明太子は、日本の新しい『食』となった感がありますが、なぜ福岡博多が明太子の発祥の地となったのかご存知ですか?
福岡は、本当に魚が美味しい街です。玄界灘、有明海、周防灘と三方が海であり、中央区天神から徒歩圏内に博多湾があります。長浜市場は、九州そして全国また、世界中からの魚が水揚げされます。そんな福岡市にわずか1年住んだだけで完全にはまってしまい、福岡をあちらこちらで宣伝している私は、最近まで、福岡博多と言えば『明太子』がほぼ真っ先に出てくることには、違和感があったのです。
なぜなら、明太子の原料となるスケトウダラは、福岡県近海では獲れず、北海道近海の物が最高とされ、ロシアやアラスカあたりの物も入ってきているからです。つまり、福岡は、あんなに魚が豊富で美味いのに、なんでわざわざ遠くまで獲りに行き、地元ではない魚を使った食品を作るのかであります。 これは、福岡市博多区中州が創業の地で、ここに本店を構える株式会社ふくやさんの歴史、すなわち、『ふくやと博多と明太子』を知ると、その感動とともに、「やはり福岡博多のものだ」と納得できるのです。
以前少しこの『ひとりごと』でも触れたことがあったかもしれませんが、『アビスパ福岡J1昇格』が決まったこの機会にお話しさせてください。 福岡博多に明太子が登場したのは昭和24年1月10日です。現在は、1月10日が『明太子の日』とされています。昭和24年1月10日、ふくやの創業者川原俊夫氏が、中州の小さな店舗に、明太子を並べたのでした。川原氏は、戦前朝鮮半島釜山に住んでいて、戦後この地に引き上げてきました。このころの中州は、博多出身者以外を受け容れるおおらかさがあったのだそうです。川原氏は、この地で生活のためいろいろな食品を販売したそうですが、なかなかうまくいきません。
それで川原氏、釜山に居たころに食べていた韓国風に味付けされたたらこの味が忘れられず、あの美味しいたらこを博多の人に食べてもらおう!と考え、原料を手配して昭和24年1月10日、店舗に『明太子』を並べたのです。 『明太子』とは、『明太』すなわち、朝鮮語では『ミョンテ』と言われるスケトウダラの子を意味するそうです。キムチで知られるとおり朝鮮半島韓国では、唐辛子を使う料理が有名ですね。川原氏、釜山ではスケトウダラに唐辛子等を混ぜたこの食品を食べていて、これは博多の人にもぜひ味わって欲しいとの願いから、販売開始から味の追求を続け、何度も作り直し、納得のいく味にたどり着くまで10年、博多の街に『明太子』が広まったのでした。 つまり明太子は、朝鮮半島韓国釜山を源流とし、川原氏が博多の人に、そして日本の食卓に馴染んでもらいたくて製造したまさに『博多の味』なのです。
明太子が広まるに従い、川原氏のもとに明太子の作り方を教えて欲しいとの申し出が多くあり、川原氏は丁寧に教えてあげたのです。また、周囲からは、製法特許を取ることを勧められたときも、川原氏は、「特許なんていらん。いろいろな明太子があったほうがお客さんに喜ばれる」と言って、明太子の普及に務めたと言われます。川原氏の根底には、自分を受け入れてくれた福岡博多に恩返ししたい、博多の人に明太子で喜んでもらいたいの思いがあったのです。
ふくやは、『元祖』を名乗らないことで有名ですね。ふくやの明太子が『味の明太子』と称するのは、ふくやを育んでくれた博多に、ずっと選んでもらえる『いつもの味』であるため、『味の明太子』と言われるのだそうです。博多なくしてふくやなしの思いなのでしょう。 そんな川原俊夫氏の思いが面々と受け継がれた明太子を通して博多に貢献すること、ふくやさんは、様々な活動をされています。そのふくやさんの思いが繋がったのが、2015年アビスパ福岡J1昇格でしょう。
数年前、アビスパ福岡が債務超過でJリーグのライセンサ剥奪の危機に至ったとき、ふくやさんは、アビスパ福岡を救うため、博多の街からプロサッカーの灯りを絶やさぬため、販売した明太子の代金を、全額アビスパ福岡に寄付されました。
これには全国のサッカーファンが感動し、アビスパ福岡は生き返ることができました。
そして2015年12月6日、『大阪冬の長居の歓喜』の後、ふくやさんは、『祝アビスパ福岡J1昇格、おめでとかんかん』となる明太子ツナを特別に販売されています。 こうしてみると、『明太子』は、福岡博多の歴史、発展とともに人々に溶け込み、この地に息づいた食品であり、文化だと思います。
なにも博多湾そして玄界灘の鮮魚だけが福岡の魚ではないと言うことです。アビスパ福岡のJ1昇格を受けて、ふくやさんからのメッセージがありました。「ふくやがあるのも博多のおかげ。
博多のために尽くしたい。」「これからも歩み続けます。博多の味、博多の人とともに」。
これぞ福岡博多の味です。泣けますね。なお、ふくやさんは、福岡空港には出店されていません。ANAFESTの土産物店にて、全日空商事のパッケージに入った『ふくや』マークの小型明太子はありますが。ふくやは、福岡県内には30店舗以上あります。都内にも2店舗あります。元祖を名乗らない福岡博多の味の明太子、どうぞお召しあがりください。
電車を降りるときは、思い出も忘れずに持ち帰りましょう。
2015年12月21日
川崎と立川をつなぐJR東日本の南武線は、かつて奥多摩と臨海地区を結ぶ貨物線としても利用されていました。
東神奈川と八王子を結ぶ横浜線とともに、首都圏では数少ない南北を結ぶ路線でもあります。JRが前身の国鉄時代、『省線電車』と言われるような昔には、山手線や京浜東北線で使用された古い車両が順次回されて、『なんボロ線』なんて陰口を叩かれていたこともあったのです。
東京大田区で大学生時代まで暮らし、司法修習生として福岡に赴任した私は、この間のつまり司法浪人?の数年は、実は南武線沿線に家がありました。このとき思ったのは、南武線は、始発から終点まで乗車する人ってどれくらいいるのかな?と言うことです。
南北をつなぐ路線ですから、途中東西を結ぶ路線と交差すれば、当然乗り換え駅が存在します。立川から南に下ると、分倍河原で京王線、府中本町でJR武蔵野線、稲田堤で京王相模原線、登戸で小田急線、武蔵溝ノ口で東急田園都市線、武蔵小杉で東急東横線、尻手で南武支線(浜川崎線)、そして終点川崎となり、たくさんの乗り換え駅があります。今でも実際南武線に乗車していると、乗り換え駅では多くの乗降があります。乗り換え混雑による危険防止のため、登戸駅や武蔵小杉駅等では、繰り返し工事が行われておりました。
最近南武線沿線は、私学の宝庫とか、中学受験の聖地なんて持て囃されていると聞きます。武蔵小杉駅には湘南新宿ライン横須賀線の駅ができ、東急線は他線との相互乗り入れが伸長し、小田急線も京王線も、便利になりました。南武線沿線に住んでいれば、乗り換え1回で、どこにある学校にも行けると評判なのだそうです。
いっぽう最近の首都圏のマンション販売では、武蔵小杉が著しい高値となっているとの情報です。こうしてみると、南武線は、他線につなぐ役割を担っているように思います。
先に申しましたように、南武線には、首都圏大動脈の路線で活躍した車両が割り当てられることが多いです。南武線は6両編成ですが、ここ数年は、埼京線や横浜線から回ってきた通称205系が主力でした。120両あるこの205系をJR東日本は、本年中にインドネシアの『ジャカルタ首都圏鉄道』に譲渡することを決めたと発表し、先月中ころから、『南武線→海外譲渡』のヘッドマークをつけて運転されていたものです。
私も偶然立川駅で見ました。そして12月6日、205系の最終運転となった車内での車掌さんからのアナウンスが、評判になっているとのことです。
この日の最終電車となった205系の車内に向けて、終点が近づいたとき、車掌さんは、「ただいまご乗車いただいているこの車両は、本日をもちまして南武線から引退し、今後はインドネシアのジャカルタで走り続けることになります。
お降りの際には忘れ物なきよう、また、この電車との思い出もお持ち帰りいただければさいわいです」。これを聞いた乗客からは、『感動!』『泣けた!』等のツイートがなされているようです。
電車内には、ありとあらゆる人がおり、そこにはざまざまな人生があります。電車は、人々の人生、いろいろな思いを乗せて、目的地まで運んでくれるのです。
以前少しの間私が住んでいた家から、かすかに南武線が見えました。アレに乗って、乗り換えて、赤煉瓦の法務省に向かい、司法試験最終合格を知ったのは、今から33年も前の秋の日でありました。205系の引退譲渡を知り、昔を思う師走の夜でした。