福本悟から見る岡山県、福岡県、そして東京都の不思議な縁
2015年10月23日
今日は、日本弁護士連合会の関係行事に出てみようと思って、開催地岡山市に来ました。その後、依頼者との打ち合わせを兼ねて、私の故郷、大好きな福岡に移動しました。岡山市には、このところ岡山地方裁判所出頭等の出張が続いたのですが、ある特徴に気づきました。それは、いつ行っても晴れていることです。
鉄道少年だった昔、SL蒸気機関車を追って、各地に行きました。東京生まれ東京育ちで、情けないことに?25歳まで実家暮らしだった私が、最初で最後?のひとり暮らしをした福岡市に赴任したのはなぜだ!と言う疑問について、司法研修所の検察教官が、結婚式で、苦し紛れにこんなことを言いました。
それは、あいつ(と言いました)がまだ純情な少年時代、新幹線の博多開業と勝負して、小学校4年時に、東京から博多までの国鉄の駅を全部覚えたなんて、全然法曹には関係ない趣味を持っていたからだとの珍説を披露してくださったのです。
そうです。東海道新幹線は、昭和47年3月に新大阪駅から岡山駅まで伸長しました。そして、昭和50年3月に、岡山駅から終点博多駅まで全線開通したのですが、鉄道少年だった当時、新幹線の終点が博多駅になることを知り、新幹線が無視する?全部の駅を開業までに覚えてしまおう!と純粋な(バカな)動機を持ち、小学校4年までに、全部覚えたのでした。
新幹線の終点が岡山駅までの間は、私が小学校高学年、中学生の時代でした。つまり、フットワークが軽かった——そのころは、今ほど太っておりません——ので、終点岡山駅に降り立つことは、結構ありました。
特に、岡山から倉敷を経て、山陰本線の米子駅まで通じる芸備線は、途中の新見駅近くの布原信号所で、D51型蒸気機関車の3重連が見れる絶好のスポットだったので何回か行きました。そしてSLが無くなったころ、昭和51年3月、ようやく受験時代を終え、大学進学を果たしたので、開業1年経過した岡山駅からの山陽新幹線で、広島駅まで行きました。なぜか終点博多駅まで乗らなかったのが運命だったのですね。
さて、話を最初に戻します。そんな少年時代の思い出がある岡山ですが、雨男の私をしても、いつも好天なのは驚きです。
気になって調べてみましたら、岡山市は、日本の県庁所在地の中で、降水量1mmの日が全国最多だと知りました。それで、1989年から、『晴れの国岡山』を標榜しているのだそうです。雨男の私は、自分の結婚式が雨で、主賓をさせていただいた結婚式全部が雨、そして今月出席が叶った結婚式でも雨、実に迷惑な奴ですが、さすが岡山には勝てませんでした。しかも、岡山と福岡は、福本悟からみると、不思議な関係があるのです。
商人の町博多と武士の町福岡の関係、成り立ちは、このホームページができる前の旧版『よかとこ九州』から、何回かお話しています。福岡ができたのは、関ヶ原で東軍将として武功を挙げた黒田官兵衛の子黒田長政が入国してからです。
黒田長政は黒田家の発祥の地備前福岡から、その地名を取ったのでした。黒田長政の福岡入りの前には、関ヶ原の戦いのキーマンになった小早川秀秋が、現在の福岡市東区の名島に福崎城を構えておりました。そのとき備前、備中等周辺大国を収めていたのが、元は毛利氏の一族宇喜多秀家でした。この宇喜多秀家こそ、関ヶ原での最大の悲劇とのちの世に語られることになりますが、小早川秀秋は、なんと宇喜多秀家が太閤秀吉から5大老宇喜多秀家が賜っていた備前他を、徳川家康から拝領することになるのです。
そしてご承知のとおり、小早川秀秋は、宇喜多秀家の亡霊に取り憑かれてわずか21歳で亡くなったと言われます。
宇喜多秀家は、前田利家の娘を正室にしていた関係と、総崩れになった西軍にあって、最初から最後まで怯むことなく戦い続けたことから、死一等を免じられ、八丈島に流罪となったのでした。
八丈島は、当時絶海の孤島であり、内地の人間として最初に流人とは言えやって来たのは、この宇喜多秀家たといわれていますね。小早川秀秋とは異なり、宇喜多秀家は、八丈島で80年余生きていたとされます。宇喜多秀家が生きた、生きられたことで、以後八丈島は、流罪の地とされ、やがて東京都に組み入れられたのです。
宇喜多秀家は、生まれも今の岡山県です。晴れの多い豊かな土地から、まだ内地の人間が誰も暮らしたことがない八丈島にながされた運命に、どんな思いで生涯を閉じたのでしょう。
また、小早川秀秋から受け継いで新しい都市福岡を築いた黒田長政の感慨もどうだったでしょう。そんな歴史に思い巡らしていたら、山陽新幹線は、小倉駅を出ました。さて、数分で福岡です。
謝っても文句を言う人、謝った後、その補填を求める人
2015年10月22日
三井不動産レジデンシャルが、2006年ころから販売した横浜市都筑区に4棟ある大型マンションで、複数の杭が地盤に達しておらず、これがために建物が傾いていることが判明し、横浜市が調査に入ったとのことです。
問題発覚の経緯は、昨年1棟の外廊下の手すり部分がずれていると通報があって、三井不動産グループが調べたところ、52本ある杭のうち6本が、地盤まで達していないこと、2本がしっかり打ち込まれていないことが判明し、そのため傾いたとなったようです。
なぜこんなことが起きたかと言うと、このマンションの地盤調査や杭打ちを受注した下請会社に外部から出してきた社員が、別のマンションに杭を打ち込んだ際のデータを、転用したからなのだそうです。
当面倒壊の危険はないと発表されていますが、マンション住人の皆様には、たいへんな災難であり、お見舞い申し上げます。データ転用に関与した外部からの社員が在籍していたと言う会社は、建物の補強や改修工事に要する費用を全部負担するとして謝罪しました。
これを受けて販売元の三井不動産レジデンシャルは、住民に対する説明会を行いました。伝え聞くところでは、マンションは、全棟建て替えすること、建て替え完了までの仮住まいの費用はもとより、いわゆるオーナー貸しの所有者には損失補償をし、加えて精神的苦痛に対する補償も行うとのことであります。建て替え完了までには3年程度はかかるようで、相当な損害賠償を要するでしょう。 三井不動産レジデンシャルは、建物を建築したのではなく、ましてデータ転用には、関与したものでもありません。
しかし、例え知らなかったとしても、売主としての瑕疵担保責任があるのです。これは法律により、新築建物の場合は、10年は負担しなければなりません。もちろんデータ転用をしたその人が、民事上不法行為を行ったとして、発生した全損害を賠償しなければならないのは当然です。また、建築した会社は、注文主に対して、請負契約に基づく瑕疵担保責任、債務不履行責任を負担します。
そんなところから、三井不動産レジデンシャルは、不法行為をしたとされる社員が居た下請会社に対して、自社が住人に対して支払う賠償について、これの求償すなわち、支払いの補填を求めると言われております。 事態の深刻さ、被害の大きさからして、関わった会社が責任を問われるのは仕方ないことで、被害者の救済が、確実になされるよう願いたいです。
でも、建築瑕疵や不良物件によるトラブルに関して、少なからず関わった者として、いくつか思うところがあります。 まず、これは僻みなのでしょうが、今回のように、比較的短期に調査がなされて原因が突き止められ、相応の責任の取り方が表明されたケースはあまり聞きません。
これは、いわゆる大手会社が関係した大規模なトラブルであり、あらゆる観点から、その対応を考えたのだと思われます。経験上、まず瑕疵かどうか争い、また、責任と言うか、原因を積極的に調べることはなく、訴訟や調停になって、法的な瑕疵の存在が明らかとされてもなお、賠償額だとか補修の仕方、要は、費用の掛け方について、あーだこーだ言うのが普通です。
今回気になるのは、いち早く対応を発表した売主に対して、報道される範囲で、住民の一部が、社長に詰め寄ったり、資産価値が下がったから補償しろなんて要求していることです。
いつも言いますが、謝ることはお金を支払うことであり、本件では、いち早く損害賠償を含む相応な責任の取り方が述べられています。完全建て替えになる物件であり、もうこんな物件嫌だと思われる住民には、購入価額以上の金額での買い取りも提案されていると言うのに、資産価値が下がった云々を言うことは理解できません。 いちばん不可解なのは、問題が発覚して調査がなされ、比較的早期に原因まで突き止めたのに、なぜ建築時には、誰もデータ転用に気付かなかったのかです。
これもよく言いますが、安全は、無駄の積み重ね、幾重にもチェックがなされなければなりません。たったひとりかどうかわかりませんが、不埒な人間のいい加減な対処が、かくも大事になったのは、例えばネズミが配線を齧ったことで、新幹線が止まるような感じでしょうか。 このデータ転用をした社員、その動機はなんでしょう。ひとりで過酷な業務を担当させられて…、安い賃金でやらされて…とか、不満はなかったでしょうか。
今回は、手すりのズレと言うかたちが出て、不法行為が表面化しましたが、このようなケースは、他にもあるのでは?と思ってしまいます。職場、労働の内容や環境にも 目を凝らす必要があるのではと思います。いろいろなことを考えさせられる一件でした。
死亡宣告されて解剖台に乗せられた人が蘇生したが、その後死亡したとの海外の事例に寄せて。
2015年10月21日
インドのムンバイで、死亡したとされ、解剖台の上に乗せられた男性が、いざ解剖に着手されるときに目を覚まし、慌てた医療スタッフが、この男性を集中治療室に搬送して手を尽くしたけれども、結局亡くなったと言うニュースが、報じられています。
なんでも感染症の疑いで行き倒れていた男性は、警察により病院に搬送され、死亡したと認定されて、死因の特定のために解剖されようとしたそのとき、呼吸が回復したのだそうです。結局亡くなったのは残念ですが、警察と病院は、死亡したとの判断に関しては、互いに責任をなすりつけていたものの、男性が死亡したとの点については意見の一致をみて、争いに終止符を打ったようです。
インドのこのケースは、警察と病院の本音はともかく、結局お亡くなりになり、残念です。
ところが世界では、これに似た『生き返った』ケースは、たまに聞くことがあります。2014年3月、アメリカ合衆国レキシントンで、医師により死亡が宣告されて葬儀場に送られた78歳の男性が、防腐処理される寸前に、突然遺体袋の中で暴れ出して生存が確認された例、同年11月、ポーランドワルシャワで、これも医師により死亡が宣告されて葬儀場の霊安室に、遺体袋の中に入れられて安置された91歳の女性が、突然動き出して生存が確認された例等あるようです。アメリカの場合は脈を、ポーランドの場合は心臓の停止を医師は確認しているので、皆さん生き返ったことに、仰天したようであります。
死んだと思っていた大切な人が生き返ったことは嬉しいでしょう。でも、どうしても死を受け入れられない、たとえ動かなくなっても生きていて欲しい、大切な人の死亡宣告は聞きたくないとの思いはよく聞くことです。
いっぽうで、今この瞬間に助かる命は助けたい!の議論もあるのです。これは、主として臓器移植において論じられる脳死説の論拠にもなっていることです。
よく、心肺停止と言う言葉が聞かれます。人間の死とは何が基準なのか、これは倫理観、宗教観、医学的見地や法的観点等さまざまな立場から議論がなされます。日本の伝統的な捉え方は、呼吸.脈拍の停止、瞳孔拡大の三要素で判定するのが医学的な立場です。
ところが、心臓が停止すると、身体内の臓器が著しく退化していくことから、臓器移植を行うには、心臓停止の前で、かつ、蘇生の可能性が極めて乏しい段階、つまり『脳死』状態のときに必要と言われるのです。アメリカ合衆国等では、法律で、人の死を脳死時としています。
日本では、臓器移植法が成立した際、人の死の基準を定めず、この法律の要件を満たすときに限り、臓器移植が可能としています。当然臓器を摘出されれば、生きて行くことは不可能です。これまでの一般的な人の死の要件を変えたとまでは言えないとしても、現実として、法律により、死を前倒しする『運用』を認めるのは、違和感を持たれる方もあるでしょう。
さらに臓器移植法改正草案では、臓器を摘出される本人が、明確に反対の意思を表示していない場合には、家族の同意のみで臓器提供ができるよう、さらに踏み込んで、『脳死』をもって『人の死』とすることが検討されてもおります。テレビ番組等で、救われる命を知るとき、あくまで臓器移植の場面とは言え、人の死を早めることに、同意する方向に導かれるように思います。
今日、外国での死者?の蘇生例に触れたのは、日本では、厳格であるがゆえに、多額の費用を使って海外での手術を行う例、間に合わず、命が失われる例を見せられるいっぽうで、いわゆる植物状態に陥っても、反応する可能性を信じ、あるいはそこで温もりを持って存在するだけで良いと思って、何年も過ごす家族が居ることも、忘れてはならないと思うからです。
医学的に脳死と判定されても、まだそこに居る、確かに息をしている、身体は温かいではないか、そんな状態の人を、死んだと扱って良いのかと言う問いです。
脳死とされた後、蘇生するかもしれない!なんて言いません。でも、例えば、人を救うためと言う必要性の観点から、人の死を法律で決めて良いのか、法律実務家である私は、疑問を持ちます。もちろん、臓器移植に熱心なあまり、蘇生可能性ある患者に対する適切な医療が危ういとの危惧も聞かれます。でも、単純に、まだ息をしている人が死んだとは受け入れにくいのが、日本人の倫理観宗教観そして、家族観とでも言う伝統のように思うのです。いろいろな考え方があり、見せられる場面場面により、さまざまな考えに至ると思われます。
だからこそ、法律では明確には馴染まない、人ひとりそれぞれの心で、大切な人の死を受け入れるしかないのではと思うのです。死んだ人間が蘇生して仰天は、喜ばしいですが、その陰で、蘇生する可能性が奪われたケースは無かったでしょうか。冒頭のインドのケース、病院と警察の本音がわかる気がします。
電車が遅れたときに、皆さんどうしますか?
2015年10月20日
京浜急行電鉄で、駅に車掌が置き去りにされたまま、電車が発車したトラブルがあったと発表されました。
車掌の置き去りは、たまに聞くことがりますが、今回の『事件』では、置き去りにされた車掌が、約700m離れた次の駅まで走って電車を追いかけ、この電車は、追いついた車掌が乗車して、次の駅を約5分遅れて発車したと言うものです。
『置き去り事故』の原因は、北品川駅でドアを閉め、出発の合図ブザーを押した車掌が、その直後、手にしていたワイヤアレスマイクをホームに落としてしまい、これを拾おうとしてホームに降りたところ、運転士は気づかず、発車してしまったと言うものです。
次の新馬場駅でドアが開かないことに気づいた運転士が、車掌がいない異変を把握しドアを開け、運転司令室に連絡し、車掌を『待っていた』のです。ワイヤレスマイクが落ちた原因は不明ですが、これが報道されたのは『えー』と思えることがあったからでしょう。
まず、京浜急行電鉄の発表では、「後続に遅れはなかった」とされます。都会の私鉄、しかも品川駅近くでなんで?と思いきや、種明かしすれば、この事故?を起こした電車が終電であり、この日、『後続』は無かったのでした。
そして驚いたのは、車掌が先に進んだ電車を、走って追いかけたことです。約700m線路と並行する国道を走ったのですが、なんでも司令室から、『追いかけろ!』と命じられたからなのだそうです。
激走した車掌さん、お疲れ様、お怪我がなくて?良かったです。京浜急行電鉄の車両は、ワンマンカーではありませんが、実際新馬場駅では、運転士がドアを開けたように、必ずしも車掌が居なくても、なんとかなる仕組みだと思います。
実際、後続は無かったのですから、慌てて車掌を走らせる必要があったのか、素人は考えてしまいます。確かにふたり乗務が安全であることは間違いないでしょう。運転士は、本来運転が仕事ですから。品川駅には、非番の車掌さんは、居なかったでしょうか。
もし、この車掌さん、途中で事故にあったり、生き倒れたらどうしましょう。新馬場駅で5分?停車しているとき、その原因を、どのようにお客様に説明したのかわかりませんが、まさか車掌が走って電車を追いかけているから停車するなんて、言ったのでしょうか?
何か結果オーライになったから、発表したのではないか、或いは誰か『真相』をバラしたから明らかにせざるを得なかったのかもしれません。終電ですから、運休にはできないでしょう。
よく、アクシデントが発生したときのプロの対応が問題にされます。危機管理と言う問題かもしれません。なかなか判断は難しいかもしれません。でも私は、例えば電車のダイヤが乱れて、裁判所への出頭が遅れるときでも、走ることはいたしません。あれは、走ることが仕事の鉄道ゆえにあったことなのでしょうか。
久しぶりの鎌倉鶴岡八幡宮にて思うこと
2015年10月19日
10月の三連休の中日に、知人の結婚式に出席がかない、鎌倉の鶴岡八幡宮に詣でました。
鶴岡八幡宮は、応神天皇が祭神ですが、鎌倉武士の守護神、源氏ゆかりの神社として知られていると思います。それは、鎌倉幕府を開いて、初めて武家社会を築いた源頼朝が、前九年の役、後三年の役で源氏の名を知らしめた源頼義、源義家が東国討伐の折、朝廷がある京都の岩清水八幡宮護国寺をこの地に勤請して若宮となし、戦功を挙げた後は、この若宮を修復したことから、源頼朝にあって、平家討伐にあたり、社殿を現在の地に移して施設を整備したのが鶴岡八幡宮のはじまりとされるからです。
この鶴岡八幡宮に向かって、鎌倉駅方面から、段葛と呼ばれる参道があります。
この道は、前は海、後ろは山のこの地では、もともと洪水などで道が通行困難になることを回避するため、一段高い位置に歩道を作ったのが最初ですが、鶴岡八幡宮の位置に、鎌倉幕府の本拠が置かれるようになって、敵に攻め込まれたときの防ぎとなるよう、高く、また、徐々に道幅が狭くなるように作った歴史があるのです。
現在は改修中ですが、鶴岡八幡宮で結婚式を挙げるカップルは、ここを人力車で通行し、鳥居まで来ることができます。 三の鳥居まで続く段葛が終わると、八幡宮の境内になります。北条政子が造らせたと言われる産と死を表す源平池にかかる太鼓橋を渡ると、本殿への石段に入る前にあるのが舞殿です。ここは、源義経の愛妾靜御前が、頼朝政子らの前で、舞をまったとされる建物です。
もっとも、社歴をみると、鎌倉幕府以前に舞殿は、現在の位置にはなかったとされるので、実際靜御前が舞った舞台は、近くにある若宮宮であったとも言われます。さて、この舞殿で、結婚式が行われました。 「吉野山峰の白雪ふみわけて、入りにし人の跡ぞ恋しき しづやしづ、しづのをだまきくりかえし、昔を今になすよしもがな」。
頼朝は、罪人義経を慕う歌だとして激怒しましたが、政子は、かつての石橋山の合戦で、生死不明となった頼朝を案ずる自らと重ね合わせて頼朝を窘め、靜御前に褒美を取らせた話が有名ですね。
NHK大河ドラマではありませんが、男性の主人公には、正妻となる女性よりも歴史的に見て、重要な位置づけにある愛妾がいることがあります。それでもドラマ上では、正妻を中心に描くならわしです。例えば、武田信玄には、正妻三条殿との間の子は歴史の影に隠れ、諏訪御料人との間に生まれた武田勝頼が重要な位置にあっても、諏訪御料人と言われるごとく、正式な名さえ明らかにならないように、愛妾ではなく、三条殿との生涯が描かれます。
徳川家康は、豊臣秀吉と対比されて『後家好み』なんて言われますが、将軍秀忠や松平忠耀、御三家を興した男子は多い中、政争に巻き込まれて亡くなった正妻築山殿こそ、家康の妻として描かれると思います。もっとも、源頼朝は、ある事情で、とても浮気?はできなかったようですが……。 そんな歴史の中で、源義経と靜御前の場合は、極めて珍しいカップルだと思います。言うまでもなく、義経には正妻がおりました。藤原泰衡に攻められた衣川の館で、正妻と女児も、義経とともに最期を遂げております。
この妻子の存在は、数ある義経を描いたドラマでも、あまり触れられません。明治以降、日本の鉄道を引っ張った初期の蒸気機関車は、義経号、弁慶号、そして靜号でした。 現代日本では、当然一夫一婦制です。きさらぎ法律事務所でも、これら関係するご相談と案件が多いです。でも、男と女が地上に遣わされ、そこで愛を育み歴史が造られる、この事実は変わりません。
あの日、靜御前が、義経を慕って舞ったのは、政子が言うまでもなく自然の感情でしょう。日本人には、古くから『判官びいき』と言う言葉があります。その中には、辛い気持ちの中、精一杯義経への愛を訴えた靜御前の姿が重ね合わされたのかもしれません。
恐妻?北条政子さんをして、心を打たれたのですから。 そんな愛情表現の舞台となった鶴岡八幡宮舞殿では、毎日カップルが誕生するのです。靜御前が、護ってくれるような気がしました。ご結婚おめでとうございます。