小江戸川越のご案内です。
2016年11月4日
酒井忠勝、堀田正盛、松平信綱、柳沢吉保と続くと、何を思い浮かべますか?
いずれも江戸幕府の中核、老中・大老を務めた実力者、幕閣を支えた人物です。社会科の教科書にも出て来ます。この人たちに共通するものがあるのです。それは、今では『小江戸』と呼ばれる埼玉県川越市、江戸時代の川越藩を治めていたことであります。
川越は、武蔵野台地の北端に位置し、荒川と入間川が合流する古くからの交通の要所で、江戸時代には、船を通して江戸まで物資を運んでおりました。現在の川越市は、埼玉県で3番目に人口が多い都市であり、東京都23区内へは16.3%の通勤率です。川越市内には、川越駅、本川越駅、川越市駅があり、JR線、西武線、東武線が通じていて、現在でも依然と
して交通網が発達しています。
今日は、川越に来ました。
川越を小江戸と言い、幕閣の実力者を配したのは、川越は、江戸幕府の北の要であり、武蔵国一の大藩であったからです。親藩譜代の城下町であり、商業や学問が盛んであり、徳川家光誕生の間等、寺院・仏閣・歴史的建造物が多くあり、関東地方の文化財の数では、鎌倉市、日光市に次ぐ都市です。国から、埼玉県唯一の『歴史都市』に認定されているのです。先の老中大老は、いずれも知恵者、学問好きで知られています。
川越市は、現在でも多くの学校がある文教都市でもあります。 私が子どものころ、東京の成り立ちについて学校で教えられ、グループ研究の課題とされた経験があります。そのとき、昔の人たちの努力と言う意味で、太田道灌の江戸城や、玉川兄弟の玉川上水等がテーマにされたことを覚えています。実は太田道灌は、最初に河越城を造りました。戦国時代には、管領上杉氏や小田原を拠点とする北条氏が支配するようになり、江戸幕府開設前の東国一の都市でした。
また、江戸幕府になってからは、歴代藩主は、武蔵野の拠点となるこの地の開発に力を注ぎ、松平信綱の時代に玉川上水、野火止用水が、柳沢
吉保の時代には、現代の新田の開発祖となる土地開発がなされています。領内では狭山茶が生産され、また、開墾地ではサツマイモ作りが行われ、川越は、焼き芋発祥の地とも言われますね。 最近は、海外からのお客様も増えています。小江戸川越とともに、『蔵のまち』のイメージ作りがなされています。市内を運行する路線バスには、『蔵のまち』を経由することが表示されています。
ここに来ると、蔵のまちを通る一本道を、バスは、多くの観光客を避けるようにして、運行されていることに驚きます。危ない!とハッとするときもあります。どこでも言われることですが、観光客のマナーの問題があります。食べ歩きをしているのか、道端にゴミが落ちているところを目にします。折角まちが保存されているのにと思わずにはいられません。
観光客が散策できると言うことは、歩きやすい地形であることを意味します。市内中心部は、ほとんど高低差はなく、市内最大でも50mくらいでしょうか。市内からは、関東平野を取り囲む山々が見えますが、このように平地で住みやすく形成されたのも、江戸時代等に開発が進められたからでしょうか。川越の街は、開発より保存に向けていると思われます。
これは、昨今各地で検討されているこれからのまちづくりの参考にもなるのではないでしょうか。 こんなふうにバスの中から蔵の町並みを見ていましたら、途中下車したくなりました。川越のシンボル『時の鐘』は、現在耐久工事中でした。
そこから歩いて太田道灌の像がある川越市役所を通って、目的地に着きました。いつかこの町並みを、ビールを片手にゆっくり歩いて見たいと思いました。
広島市と札幌市、ここで暮らす方々が相互に観光で行くなら、とても魅力的な都市ですが。
2016年11月2日
広島東洋カープと北海道日本ハムファイターズの対戦となった今年の日本シリーズ、直線距離で1.200キロの広島市と札幌市の間の移動となり、これは過去の日本シリーズで、最長の移動距離になりました。アメリカ大リーグの移動と比較すると、驚くに値しないかもしれませんが、このことにより、様々な問題点が浮かび上がり、また、新たな発見があったとされます。
この『ひとりごと』でも書きましたが、広島東洋カープ球団は、新千歳空港への移動に、約1.000万円かけてJALと契約し、チャーター機を用意しました。ところがもし、広島市のマツダスタジアムで、雨天順延が発生したら、今回は、移動日を設けるシステムのため、キャンセルと新たな移動方法を考案しなければならなかったのです。そして第1戦、かなりの雨模様でした。試合開始時刻をずらすなどして、ギリギリ開始にこぎつけて、関係者は安堵されたとのことでした。雨の試合で、日本ハムファイターズの二刀流、大谷翔平投手が、本来のピッチングができていないことばかりが報道されていた表舞台でした。
この日本シリーズ、全てがナイターでした。唯一午後6時試合開始の札幌ドームでの第6戦、3時間23分の熱戦となりました。翌日は移動日ですが、マツダスタジアムでの練習があるため、午前9時には、新千歳空港を出る必要があり、選手もたいへんですが、報道陣や関係者は、新千歳広島間の直行便が少ないため、朝早くから東京羽田乗り換え等てんやわんやだったようです。NPBのコミッショナー、札幌ではラーメン1杯、広島ではホテルに戻ったら食事するところはなかったなんて『苦労』を言っていました。こうしてみると、日頃移動に慣れているパリーグのチームは、落ち着いていたかもしれません。
パリーグには、札幌市と福岡市を本拠地とするチームがあります。仙台市を本拠地とするチームも、関東圏以外は、空路での移動でしょう。これはシーズン中しょっちゅうあることでしょう。ところで島東洋カープは、シーズン中は、新幹線での移動だそうです。それには、広島空港の位置が関っていると思います。広島空港、かつては広島湾に面した西広島にありました。それが市街地を離れて、ジャンボ機も滑走できる新空港を建設することになり、現在の三原市に移ったのでした。三原は、新幹線停車駅ですが、空港のある場所は、もともと本郷町でした。平成の大合併で、三原市に組み込まれたのですが、ホント山の中です。空港のすぐ近くまで高速道路が来ていますが、それでも広島市街地から1時間近くかかります。不便なのです。
以前セリーグのある球団が、新潟市での地方試合を行い、広島に移動する際に、新潟空港から福岡空港まで行き、新幹線で広島駅まで来たと言う話が残されています。福岡空港からJR博多駅までは2駅5分ですから、私もベストのやり方だと思います。福岡ソフトバンクホークスは、福岡空港を利用しますから、距離はともかく、移動時間を苦にしないでしょう。セリーグは、全球団が『本州』にあります。しかしいちばん西のチーム、広島東洋カープは、かなり不便な位置にあるがゆえに、日頃利用しない空港を使うことになる点で、スタッフ関係者は、苦労があったと想像されるのです。
広島空港は、私は何回も利用しました。着陸寸前まで、山また山で、山にぶつかると思っていたら、滑走路があったと言う感覚です。広島空港を貶めるつもりは毛頭ありません。空港が市街地にあることの功罪は、つとに指摘されるところです。ある人が言っていたのは、ツアー団体客は、広島空港を利用させるべきであり、それはビジネス客の増加を見込まれないからだと言う理由でした。
いつでもなんでも福岡で申し訳ないのですが、福岡の経済が発展するのは、空港が市街地にあることに、少なくない影響があることは否定できないと言われます。プロ野球界では、おそらく広島東洋カープと北海道日本ハムファイターズの対戦が、いちばん移動に気を使う対戦となるでしょう。たとえば、日本シリーズ基金のようなものを設けておき、両チームや関係者を合わせてチャーター機で移動させる、いわば呉越同舟なんていかがでしょうか?返って落ち着きませんか。ハラハラしながら裏方さんたちは、この日本シリーズを支えていたことを知りました。
ここでも広島東洋カープと北海道日本ハムファイターズの関係者の皆さんに、あっぱれと申し上げたいです。
アビスパ福岡は、11月3日、今季最終試合をホームレベルファイブスタジアムで行います。
2016年11月1日
プロ野球日本シリーズが終了した夜、広島マツダスタジアムでは、もう日付が変わるころにも、大きな音がしていました。それは、日本シリーズに興奮した人たちが、騒いでいたのではありません。
ほとんど人がいなくなったスタジアムの練習場で、広島東洋カープの選手たちが、バッテイング練習をしていた音だったのです。さっき日本シリーズは終わったばかり、もう来年まで、プロ野球の公式戦はないのです。『カープ女子』ら、熱心なファンが、静かに眺めていたと言うことです。
なんともまあ、ビックリです。
もう試合はないのです。しかも、さっき今年最後の試合が終わった、広島東洋カープが破れてばかりなのです。それが深夜の練習とは……。悔しさを忘れないことなのか、そうではないようです。来年40歳になるベテラン新井貴浩選手は、こう言います。これはいつもとおりだと。
広島東洋カープの選手、シーズン中はナイターが多いですが、翌日は、午前10時には球場に入って、もう汗を流しています。プロ野球選手は、自動車で通勤、しかも高年俸の選手は、外車等の高級車を乗り回すのが常と言われているのに、カーブの選手は、電車バスで行き来しています。
新井選手によれば、昔はタクシー券があったものの、近頃の若い選手は、それを使うことをせず、電車バスなのだそうです。ベテラン新井貴浩選手をしても、当然と言います。
日本シリーズを制した北海道日本ハムファイターズは、翌日すぐに札幌市に帰りました。ビールかけで遅くまで、また朝からはマスコミに追われお疲れのところ、約1.000人が出迎えた新千歳空港に到着し、そのまま札幌ドームに向かったそうです。栗山英樹監督こう言いました。『調子にのるな!チャラチャラするな!』。そして栗山監督、上京して以前キャスターを務めていたテレビ番組に出演し、改めて感想と決意を披露しました。
優勝した際のインタビューでも言っていたように、日本一になった実感はない、失敗を反省し、修正すべきところ、これからやるべきことを考えていたそうです。ご自身は、いつでも野球のことしか考えることができないとも仰っていました。
日本ハムファイターズも、翌日から練習を始めたそうです。これから来年のキャンプまで、日本一を喜ぶファンらとのイベントもあるでしょうから、このオフシーブンこそ、どのように過ごすかがとても大切と纏められました。広島東洋カープも、北海道日本ハムファイターズも、監督スタッフ選手一体となった素晴らしいチームですね。
だからこそ、史上稀に見るハイレベルの好試合が展開され、普段野球に興味がない私なんかも、引き込まれたのだと思います。
今年サッカーJリーグディビジョン1に所属したアビスパ福岡は、きさらぎ法律事務所として法人後援会に登録され、私福本悟はアビスパサポーターのひとりです。
残念ながらシーズン最下位が決まり、来季は、再びJ2に舞台を移します。J1の壁と言えばそれまでですが、なんとも歯痒い試合ばかり見せられました。
そんなアビスパ福岡ですが、井原正巳監督が言われる言葉は好きです。
『しっかり準備して次に備える』。これは、昨年猛烈な勢いで終盤戦を闘い、昇格プレーオフを制してJ1へ駆け上がった当時から、井原監督が言われていたことです。今年結果が出なかったことは本当に残念ですが、準備無くして勝負はできない、何事も向上しないことを知らしめた言葉です。
今年25年ぶりにセリーグを制覇した広島東洋カープ、先ほど挙げた『練習』や『日常』は、今年になって始められたのではないはずです。かの栗山英樹監督をしても、就任初年度で、パリーグを制覇して臨んだ日本シリーズで、読売巨人軍に負けたとき、球団に進退伺を提出したそうです。
そして翌年はリーグ最下位となり、その後ことごとくクライマックスシリーズで敗退、ようやく5年にして最大11.5ゲーム差あったパリーグを制覇し、日本一となったのです。
『ローマは一日にして成らず』と言われます。準備して、コツコツとやるしかないのでしょう。ですから私は、アビスパ福岡を応援します。広島東洋カープ、北海道日本ハムファイターズの活躍から、アビスパ福岡の選手何か感じ取って、今シーズン最後の試合に臨んで欲しいです。
そして私は、1年でJ1へ復帰、、、、なんて望まみません。
この間井原正巳監督から教えられた『準備』をやり続けて、いつの日にか日本のサッカー界に、『アビスパあり』、あのアビスパが!と言われるような存在になって欲しいと思います。
広島東洋カープありがとう!北海道日本ハムファイターズおめでとう!
北海道日本ハムファイターズ、栗山英樹監督から学ぶ。
2016年10月31日
プロ野球日本シリーズが終わりました。セリーグの覇者広島東洋カープとパリーグの覇者北海道日本ハムファイターズの対戦となった2016年のシリーズ、第6戦で日本ハムが4勝目を挙げ、日本一になりました。
まず両チームの選手スタッフ、さらにチームを支えたファンのみなさんたちへ、良い試合ありがとうと言いたいです。そして広島東洋カープのみなさん、少し残念かもしれせんが、全力プレーで見ていて気持ちよかったです。お疲れ様でした。
さて、日本ハムのみなさん、おめでとうございます。凄かった。全員野球素晴らしいです。お疲れ様でした。 私のように、あまりプロ野球に関心がない人の間でも、今年の日本シリーズは、かなりの盛り上がりを見せたと思います。
それは両チームの力が拮抗していて、勝敗はどう転がるかわからない、本当に名勝負が続いたことが大きいと思います。また、広島東洋カープも、北海道日本ハムファイターズも、かたや黒田投手、かたや二刀流大谷選手が注目を浴びることはありましたが、若い選手やチーム生え抜きの選手が多く、チーム一体感があり、ファンも球場も一緒にやり遂げた感じを受けました。
広島市の市民球団、北海道の期待の星、よく似たバックボーンがあったと感じました。 野球に詳しいわけではありませんし、その瞬間をテレビで見てのは、第6戦の8回の表二死一塁からでしたから、試合の評価に関しては、評論家の意見の引用や、ネット上の厳しい投稿?から私なりの受け取り方になってしまいます。全ゲームを通して勝負は紙一重、どっちに転ぶかわからない緊張感ある好試合が続けられたと思います。
ネット上の投稿では、両監督の経験の差だとの指摘が結構あるようです。しかし、監督2年目でリーグを制覇して日本シリーズに出場させた緒方監督のチーム作りは凄いですし、栗山監督にしても、評論家から転身していきなりリーグ制覇したものの、臨んだ日本シリーズでは、読売巨人軍に跳ね返され、翌年リーグ最下位を低迷するなど、辛苦の数年だったと思います。
この両チームの監督さん、とても好感を持てる方であり、選手も信じてついていけると感じました。 経験と言うことからすると、この先緒方監督には、さらに指揮をとる期間があるでしょう。緒方監督、この先も是非見て見たい監督さんです。さて栗山監督はどうでしょう。この先のことは、ご本人が決められることですが、その異色の経歴は、誰もが知るところであり、栗山英樹氏の人柄が出ているようです。
東京都ご出身で、国立大学を卒業、教員資格をお持ちのところ、ヤクルトスワローズにテストを受けて入団、一軍に定着したものの怪我と病氣のため6年で引退し、スポーツジャーナリストを経て、大学教授にもなられた栗山英樹氏、転機は、北海道夕張郡栗山町の観光大使になられたことにあるかもしれません。
私財を投じて天然芝の野球場『栗の樹ファーム』を2002年に建設開業したことから、北海道と縁ができ、2012年のシーズンから、北海道日本ハムファイターズの監督となったのです。栗山英樹氏、ご自宅はこの『栗の樹ファーム』のすぐ隣のログハウスで、札幌ドームまでは、1時間以上かけて、自動車通勤をなさっているとお聞きします。
日本シリーズには、数々の名場面、勝負を分けた瞬間、流れを読んだプレーや関係者の発言などありました。子どものころに遡って、私もいくつか思い出すことはあります。ただここ数年は、『巨人、大鵬、卵焼き』に反発してきた自分が幾分丸くなり、また、読売巨人軍が、喜ぶべきことなのかはわかりませんが、常勝軍団ではなくなって、次第に野球には関心が無くなりました。
ただ、この日本シリーズの栗山監督の言動を見て、日本シリーズの常連、名監督とされた野村克也氏や森祗晶氏が述べていたことを思い出しました。
それは短期決戦であると同時に、日本シリーズでは4つ勝てば良い、つまり、3つ負けてもよいのだと言うことでした。 野球評論家と言われる方々は、大谷翔平投手が2勝するかどうか、どちらのチームが第1戦を勝つかが、シリーズ制覇のポイントのように言われました。結果は、大谷投手は0勝、初戦の勝者は広島カープでした。2敗して本拠地札幌ドームに戻ることになった栗山監督、こう言われました。
『3つ負けられるシリーズで、先に2つ負けた』。これを聞いたとき、監督もチームも、全然動揺していないなと思いました。4つ勝てばよいのであって、誰で勝つとか、いつ勝つなんて関係ない、また予定が崩れたら、そこは『短期決戦』、7試合の中で、どのように修正していくかが大事と言うのことです。札幌ドームで3連勝して、その勢いのままにと思いきや、第6戦には、もともと2勝が期待されていた大谷翔平選手を出場させませんでした。
これは、相手チームにとっては、7戦までやる気だと受け取ったわけで、第6戦の試合前から、かなりのプレッシャーになっていたのではないでしょうか。同点で迎えた第6戦の8回表の二死満塁の場面、4番バッターの後方ネクストバッターズサークルに、大谷翔平選手を立たせてバットの素振りをさせていたのも、無言のプレッシャーを相手投手に与えたでしょう。
このチーム、大谷翔平選手だけではありません。しかし、野球評論家を含めて、大谷翔平選手に怯えた結末でした。 第6戦試合終了後の監督インタビューも良かったですね。まず勝った感覚がないと述べられた後、広島カープの健闘、カープファンのマナーに感謝を述べておられました。私もカープファンの素晴らしさを思いました。
試合が終わっても、ほとんど席を立つことをせず、日本ハムファイターズの日本一に拍手を送っていました。広島カープ、来年はきっと雪辱するのではと思わせた瞬間でした。やはりスポーツっていいなと思うのです。栗山監督、初年度でリーグ優勝して翌年最下位に、そしてクライマックスシリーズでは、2年続けて敗退しました。今年のレギュラーシーズンでは、首位と11.5ゲーム差あったのをひっくり返して優勝しました。
シーズンを通して、シリーズを通してどうするかをよく研究なさった思います。目先の1勝に拘らず、何が目標なのか、何を獲得したいのか、ブレなかったですね。 目先の1勝ではなく、何を目標にし、何を獲得したいのかの点は、私の仕事にも当てはまります。
よく、相手からこのように言われた、どうするかを論じる方がおられます。それはほとんど意味ないことです。相手のために解決してあげるのではありません。自分は何を目標にし、獲得したいのかが大切です。最初ひとつ言い勝っても、それでおしまい、紛争解決ではありません。相手が動くと気になるのは分からなくありません。しかし、結局は、自分はどうするかなのです。
例えば、7回の裁判期日の中で、何回か嫌な思いをしても、また、相手方に流れが行ったように思えても、最後に予定とおり、希望したとおりの落し処に収まり、解決すればよいのです。私たちは、いつもそのように捉え、計画し、進めております。日本ハムファイターズの選手たちが、栗山英樹監督について行ったように、ぜひとも信頼すべき弁護士に、ついて来て欲しいと思います。
日本ハムファイターズ、2016年プロ野球日本一おめでとうございます。
再び根室本線富良野新得間廃止報道から思う北の国からの思い出。
2016年10月28日
大学生だったころ、何回か東京駅から、『大垣行』普通電車に乗りました。
この電車、当時は153系または165系と言う車両が使用されていて、4人向かい合わせ、いわゆるボックス席でした。あるときは友人と、あるときはひとり旅を楽しみました。東京駅を23時台に出て、名古屋を経て、終点の東海道線大垣駅には、確か翌朝7時前に到着したと記憶しています。
この電車、東京駅を出て横浜駅を通りしばらくの間は、通勤客も乗車しています。小田原駅を過ぎてからは快速運転となり、深夜の時間帯は、停車駅は少なくなります。やはり若者が多く、ほとんどの乗客が、名古屋もしくは終点大垣まで行きます。
鉄道ファン、暇人、変わり者、バカとか言われながらも、この電車を愛する人は少なくありませんでした。
その後指定席の『ムーンライトながら』となり、やがて廃止となりました。
この『大垣行』、当時は、普通列車としては、相当の走行距離を運行されていたことになります。東京と名古屋の間がおよそ360km、新幹線のぞみで約1時間40分の現在では、昔日の感にたえないです。大垣行に乗車したとき、どこまで普通列車で行けるかを実践しようとしたことがありました。
つまり、翌朝7時ころに岐阜県の大垣駅に到着しますので、その後西に進むと、その日のうちにどこまで行けるかです。大学1年生の冬、折から実家の用で、広島県に行くことがありましたので、実践してみました。 東京駅から乗車して、翌朝終点大垣駅に到着すると、隣のホームに、『西明石行』普通電車が入線していました。そのままこれに乗車して、米原、京都、大阪、三ノ宮と通過して、終点兵庫県の西明石駅に到着したのは、午後になっていました。ところがこの先は、うまい具合乗り継ぎ電車がありません。
後続の電車で姫路か網干まで、さらに後続の電車で岡山まで、そこから広島行き直通電車を待つか、糸崎か三原まで先に行って、そこから広島方面の接続電車に乗り換えるか思案を要しました。何れにしても、広島駅到着は、夜遅くなることが時刻表上わかったので、計画を断念したのでした。西明石駅は、山陽新幹線の停車駅、新幹線に乗り換えて広島駅まで行ったのです。
ヤワでだらしないですね。 この経験から、それでは早朝東京駅から乗車して、その日のうちにどこまで行けるか調べてみました。その当時で、確か山口県の下関の手前までは到達することが可能とわかりました。2016年現在で、日本一運行距離が長い普通列車は、山陽本線岡山駅発下関行き369M列車です。岡山駅を16時17分に出て、終点下関駅には23時50分に到着します。384kmを7時間33分かけて運行されます。また、運転時間が最長なのは、根室本線滝川駅発釧路駅行き2427D列車です。
これは函館本線から分岐する滝川駅を9時40分に発車し、富良野、新得、帯広を経由して、終点釧路駅には18時01分に到着します。その運行時間、なんと8時間21分となります。 なぜこんな暇そうな記録を書いたかですって。私が昔鉄道少年であって、地理に詳しい、そして今でも出張地方が少なくなく、時効表を見る機会が多いことはあります。でも最近、JR北海道の富良野新得間が廃止される見通しとの報道を知ったことが大きいです。
先日も、この『ひとりごと』でも書きました。『北の国から』の思い出、それは、私を北海道に誘ったきっかけ、それこそ昔日の思い出なのです。この根室本線富良野新得間の廃止は、確かに輸送密度や営業係数からそうなったのは間違いないでしょう。
ただし、この夏、相次いで北海道を襲った台風により、この区間が壊滅的被害を受けて、現在運行できない状態になっていることが大きいと思います。どんなに早くても、運転再開は来年春以降となり、それに要する復旧費用は、相当な金額となることが見積もられています。
そうなのです。現在は、滝川釧路間の『あの列車』は、全線での運行はなされていないのです。もしこのまま廃線となると、富良野新得間は、現在なされてるバスによる代行運転が、本当の『バス路線』となるのでしょうか。 現在時刻表の上では、日本一運行時間が長い普通列車、滝川釧路間の2427D列車、かつて『北の国から』が放映されていたころは、この区間、長い急行列車が運転されていました。その名は『急行狩勝』。確か釧路か帯広あたりから、新得を経由して富良野へ、そして滝川に抜けて終点は札幌駅だったと思います。
その後も、旭川から美瑛を経由して、富良野から根室本線には入って、確か帯広までだったと思いますが、『快速狩勝』が運行されていたと思います。急行と言い、快速と言っても、単線で駅区間が長いので、決して早くはありません。この急行狩勝』と言えば、『北の国から』で、名シーンがあります。 黒板五郎さんが、純と蛍を連れて富良野麓郷に来たのは、いしだあゆみさん演じる妻令子の不倫がひとつの理由となったわけですが、いよいよ父と母との離婚が決まって、富良野に来た母に対しては、純はともかく、蛍は心を開きません。
ところが、東京に帰るため、母が富良野から乗車した『急行狩勝』に向かって、岩城滉一さん演じる草太兄ちゃんに連れらて、空知川島ノ下あたりで列車を待っていた蛍は、涙を流しながら大きく手を振って、列車とともに走り出す姿がありました。このシーン、我が家の子どもたちも、繰り返し録画を見ていました。純粋だったですね(笑)。
あのときの急行狩勝、ずいぶん長い編成でした。そしてかなりの距離を運転されていたのです。その後私は、折からラベンダーの時期、札幌地裁岩見沢支部に出張する機会があり、富良野に立ち寄りました。
そのときは、『ラベンダーエクスプレス』と言うリゾート車?でしたが、滝川から空知川を望むあの名シーンの場所を通過して、富良野駅に到着しました。幾つになっても、『北の国から』に魅せられ、また、鉄道への郷愁を感じるのでした。地方都市での各駅停車の旅、童心に帰って、いつかやってみたいです。