『マサロス』と言う言葉が聞かれるようになりました。
前は、『あまロス』と言う言葉も流行りました。NHK朝ドラが、いよいよ終わりに近づいてまいりました。
マッサンに魅入られて、北海道余市まで行った私も、そんなファンの思いがわからないではありません。バカですね。
でも、イヤだなと思い、あまり見なかった時期がありました。ある意味いちばん大事な時期だったかもしれませんが、それは戦時下です。どんなテレビ映画でも、戦争の時代は辛いし涙が止まりません。そんな場面を見せられて、近ごろの私は、怒りしか湧きません。
そんな私からすると、エリーさんが、特高に連行されようとしたとき、海軍士官が助けてくれたのは、『国民は軍隊に守られている』に受け取られてイヤだなと思いましたし、玉音放送を聞いたエマさんが、もっと早く戦争を止めれば、一馬さんは死ななかったと言うシーンは、早くも遅くも、そもそも戦争なんてやったことが悪いのであって、なんか違うなと感じざるを得ませんでした。
でも、マッサンは偉いです。
海軍統制化に置かれてウイスキー造りが続けられたこと、余裕綽々のアメリカは、終戦後のウイスキー補給の確保から、マッサンの工場をわざと爆撃しなかったこと、そして今度は、貧しい戦後の日本の中で、進駐軍にウイスキーを販売することで成り立っていることに迷い戸惑いながらも、進駐軍に対して、
マッサンは、『悪いのは戦争そのもの』と言い放ったのですから。戦争は、人々の生活人生を変えてしまいます。良い戦争悪い戦争なんてありませんから。
終戦の後のドラマの放映時間は短いです。これまた『戦争なんてなければ』と思わざるを得ません。どんな終わり方をするのでしょうか。私は、マッサンとエリーの夫婦愛を描いたドラマであって欲しいと思います。
きさらぎ法律事務所は、離婚その他男女関係に関する相談とその依頼が多いです。
なんでそうなのかわかりませんが、私自身人生を学ばせてもらったと感じることもございます。
でも、離婚するために結婚した!と考えさせられるケースさえ存在する実情からすると、マッサンエリーの正攻法の夫婦愛には、このような事案に携る者に対して、初心を忘れるなと言われたような気がしました。マサロスになっている場合ではありません。
我が家では、『つくし』を食べます。
つくしは、『土筆』と書かれるように、土から出た筆のように見えますが、正しくは、すぎなが春になって胞子茎を出して胞子を放出したもので、袴と言われる茶色の輪のような葉が、茎を取り巻いているものをさします。食べるときは、この袴を取り除く必要があります。
毎年この時期になると、周辺の人があまり立ちいらない土のある場所には、つくしの姿を見ることができます。
空き地や土手、フェンス越しの雑草が生い茂っているような場所で見かけることが多いです。
天ぷら、佃煮、茶碗蒸しなどいろいろな食べ方があるようですが、我が家では、卵とじにします。
つくしの姿が見えなくなると、春の深まりを感じるのです。
不思議なことに、前年たくさん採ったと思った場所でも、また翌年つくしの姿が見られます。
世の中には、良い意味でも悪い意味でも、毎年同じことが繰り返されることがあります。
守るべきものは守り、変えるべきものは変えることが重要です。
先日ある新聞に、安倍晋三内閣総理大臣が、「首相にも憲法で表現の自由が保障されている」と述べられたことが書かれておりました。
議論のきっかけは、昨年の選挙期間中、首相があるテレビ番組で、アベノミクスに批判的な街頭インタビューばかり出しておかしいんじゃないかと述べた生放送での発言が、その後のテレビ局に、放送の萎縮を齎したのではないかの批判に対してなされた答えがこれでした。
昨年、安倍晋三氏が生出演されて発言した場面は、私も見ていました。そのときは、『一国の総理大臣が、子どもみたいなこと言うな』くらいしか感じませんでした。しかし、このときの正当性に関して、首相は憲法で守られているかに言われたことには、違和感を持ちます。
憲法は、権力者を縛る規範です。権力を持った者によって、国民の権利が侵されたり、個人の尊厳が脅かされることを許さないために憲法があるのです。
あれは、安倍晋三氏が個人として権利を主張した場面ではありません。だいいち安倍晋三氏も自由民主党も、現憲法は改正すべきとの立場だったのでは?
やはり表現の自由を守り続けなければならない、変えてはならないと言うことが、身を持って実感されたと言うことでしょうか。
国民は、表現の自由が侵されるような場面に遭遇したら、つくしのように、繰り返し毎年毎年徹底的に主張し続けるでしょう。
私は、今年も同じ場所に生えたつくしを見て、雑草の強さを感じるとともに、踏まれても諦めず、また同じ訴えを続ける意義を思ったのでした。
日本には、古い昔から語り継がれた昔話、民話、そしておとぎ話があります。
いちばん古い物語は、竹取物語すなわちかぐや姫のお話だったと思います。話自体は美しい幻想的な感じがしますが、意外にも最後が悲しい結末になっている物語が多いことに気づきます。例えば、鶴の恩返し、狐の嫁入りなど、読み手のこころに何ものかを残すのではないでしょうか。
先週岡山に行って来ました。岡山と言えば桃太郎が有名です。
昔真面目なおじいさんおばあさんがおりまして、この老夫婦は子どもがいなかったのですが、ある日おじいさんが、川から流れてくる大きな桃を見つけたところ、中から元気な男の子が生まれ、桃太郎と名付けました。
桃太郎は働き者でしたが、大きくなって人々を苦しめている鬼ヶ島の鬼退治に出かけることになり、このときおじいさんおばあさんから黍団子をもらい、途中イヌ、キジ、サルに黍団子を分け与えて家来にし、見事鬼退治をしておじいさんおばあさんの元に帰ると言う物語であります。
黍団子とは、キビを粉にしてこしらえた団子ですが、ここからキビの団子、すなわち『吉備団子』があったことから吉備の国岡山県が舞台とされたのです。
桃太郎の物語は、さっき申しましたちょっと悲しい終わり方をするおとぎ話とは違って、大きな手柄を立てて無事おじいさんおばあさんの元に帰ってくる点で、英雄伝であり、また善を勧め悪をを懲らしめると言う勧善懲悪の物語です。
日本人が、いつから勧善懲悪の物語を好むようになったかですが、江戸時代の南総里見八犬伝はその典型と言われますし、後世の創作だとされる水戸黄門もこの時代ですから、徳川幕府の政策と言うか文化だったように思います。
でも、またケチをつけるのかと言われそうですが、なんとなく『善玉悪玉』と決めつけること、この簡単な割り振りにはどうかな?の思いがありました。
例えば、黄門様の『この紋所が目に入らぬか!』は権力志向を感じますし、遠山の金さんも、もともとお奉行様です。 その点、桃太郎のお話は良いですね。
あれは、鬼すなわち悪い奴をやっつけたと言うよりも、私は、真面目に暮らすおじいさんおばあさんに大きなご褒美をくださったものと考えます。桃太郎が帰って来てから、3人で平穏に暮らしたと言うこのなんでもない情景がとても良い終わり方だと思っています。
童心に帰った気持ちで、桃太郎の像の前で考えてしまいました。
きさらぎ法律事務所は、事務所内での初回相談は無料です。
相談時間の制限を設けておりません。
なぜそうしているのかは、このホームページの該当箇所に詳しくご説明しておりますので、このひとりごとでは述べません。
ただ結論部分だけ申しますと、相談だけで解決できる問題はない、相談者の方にとってどうすれば不安不満を解消して、問題の解決に進めるのか、到達点を見据えてお話しなければならないからです。
要するに、きさらぎ法律事務所で話をし、質問事項の答えをもらったとしても、事務所を出たらもう満足、解決したとはならないのが実情だからです。
相談の後依頼者となって、解決すなわち到達点までのプロセスを、共にいたしましょうと言う仕組みです。
世の中、本当の問題の解決になり得ないのに、当面をしのぐための問題の先送りが少なからずあると思います。
3.11の記憶が冷めやらぬこの時期、原発最終処理施設がそれです。
仮に今後原発を止めても、絶対に解決しておかなければならないのがそれです。
この放射性物質の処分としては、極めて安定した地層深くに格納するしかないと言われております。
この結論が動かせないことから、原発全廃を決めた国があることは、周知のとおりです。東日本大震災から4年後の夜、ある報道番組で、フィンランドのオルキルオト島に存在する『オンカロ』と言われる格納施設が放映されました。
2020年から100年に渡って埋設処分に利用して閉鎖する、しかし、生物にとって安全が確保されるまでには10万年の年月を要する、従って、それまでオンカロは閉鎖され続けるのだそうです。
日本の福島第一原発の事故に学んで原発ゼロを決めたドイツ、そしてフィンランドの国民は、そのインタビューで、日本が、原発の再稼働に舵を切ったことの驚きとともに、この最終処理施設がないまま原発を稼働し続けていることに、驚きの声が寄せられておりました。
私も、全くそのとおりだと思います。
これは原発の是非以前の問題です。現政権になって、青森県むつ市に、『リサイクル燃料貯蔵』施設が完成し、同じ青森県六ヶ所村の『使用済核燃料』再利用工場を補完するなんて言われおりますが、要は、放射性物質をどうすることも出来ず、『再利用』とか『中間処理』の言葉を使って問題の先送りをしているだけなのです。
それで困ったのか、最近政府与党は、地質学者の意見として、地質学的には、阿武隈山地、北上山地そして根釧台地あたりは、放射性物質の最終処理場として地震等による影響がなく『安全』だと言う見解を出したようです。
しかし、名指しされた自治体は、たまったものではありません。
『風評被害』等を仰てすぐに反対の意見を出しました。そんな状態でありながら、最近では、この福島第一原発の事故による『廃棄物』を移動させる議論が出ているのです。 原発が一旦存在した以上、最終処理施設の問題は避けて通れません。
これを決める、確保しないまま、中間だとか再利用なんて言葉で誤魔化して解決になるのでしょうか?
原発そのものが安全であっても、これは避けて通れません。 福島第一原発は、福島県民のために存在したのではありません。
東京電力が、首都圏の電力供給のために半ば国策として行なったものです。誰だって原発が近くにあること、まして放射性物質の貯蔵施設が近くにあることは嫌です。
こんなとき、法律実務家の間では、『利益のあるところに危険と損失あり』と言う言葉があります。
私たちが託した政府与党が、問題の解決に進まないのでしたら、利益を得ている東京都民が負担すべきと言う結論になるのでは?
東京都内に放射性物質の最終処理施設を造る。そうなったとしても、私は、問題の先送りをしなかった東京都民を讃えたいと思います。
それでこの問題は解決ですから。
今年も3月11日が来ました。私が子どもの頃は、9月1日が防災を意識した日でしたが、1月17日そして3月11日が、これに加わりました。
各地で防災訓練、そして、慰霊の集いがありました。
東日本大震災とこれに続いた福島第一原発の事故は、どれだけの人に苦しみを齎したでしょう。
よく天災と人災が比較されますが、地震津波と原発事故は、同列に扱うことはできません。
ある番組で、震災の被害者としての思いは被災者皆同じ、だが、原発に関しては、同じではないとの指摘がありました。
原発事故によってふるさとを奪われた人の中でも、原発再稼働容認から即時廃炉とすべきの意見があり、まして国のエネルギー政策、特に原子力利用の是非に関しては、様々な意見があるからです。あの日、あのときの政府の対応を徹底的に批判した政党が、絶対的安定多数を得て、原発再稼働を進めているのですから。
被災者間の意見の相違から、対立が起きなければと願います。こんな日本国内の様子を見て、この時期日本を訪問したドイツのメルケル首相は、不思議に思われたかもしれません。
ドイツは、国のエネルギー政策を、原発ゼロに転換したことが知られています。
その理由についてメルケル首相は、「日本で起きた福島第一原発の事故」を挙げました。
どれほど安全性を言ったところで、あの事故により原発の安全神話は崩壊した、ひとたび事故が起きたときどんな被害影響が出るか、ドイツは学んだと仰るのでした。
これ、皆さんどう思われますか?
端的に、メルケル首相は、「なんで日本人はまだ原発やってるの?」と不思議に思われたのではと言う意見を以上に、あるいはメルケル首相に、我々はバカにされたと感じられた方もおられるのではとも思います。
メルケル首相に『バカにされた』と感じた新聞社を見つけました。
「ドイツは過去と向かい合った」として、ナチスの戦争犯罪を憎み追及し、また謝罪したとのあのくだり、『ナチスドイツと日本は違う』のだそうです。
ナチスは、ユダヤ人を組織的に殺戮したが、日本では一部の兵隊が不埒な行動をとったが、組織的に民族を迫害したのではない、メルケル首相は『ナチスと日本を混同している』のだそうです。
これ、本当に市販されているある新聞社の論評ですよ。
確かに日本は、『民族対立』から中国などに『進出』したのではないでしょう。
また、現に『不埒な行動』をしたのは兵士です。組織的ではない、軍がやらかしたのではない……。なるほど。バカにされたと思ったら、こんな反論もあるのですね。
さて、メルケル首相は、こんな反論に対して再反論するでしょうか?
私は、バカな人に対してバカと言っても意味がないと思っています。
メルケル首相は、日本人は、学ぶ力があると思っておられるからこそ、原発再稼働と言う不思議な光景について、意見を述べられたのだと考えます。
私も日本人は、賢明な民族だと信じております。
これ、愛国心?