北大路欣也氏の『マッサン』
2015年2月16日
NHK朝ドラ『マッサン』は、第18週『幸せをつかむ』で視聴率24.4%をあげ、最高記録となったとのことです。
この週は、マッサンの大切な人の結婚と急死と言う悲喜交々の人生模様が描かれ、いよいよマッサンことニッカウヰスキー創業者竹鶴政孝氏が、ウイスキー造りを始める内容となったものです。
さて、ご存知の通り先週からマッサンに大俳優北大路欣也氏が出演いたしました。
なんと北大路さんの強い要望があったのだそうです。
北大路さんは、1968年放映のNHK大河ドラマ『龍馬がゆく』に主演として抜擢された折、竹鶴氏より声をかけられ、当時25歳の北大路さんは、北海道余市のニッカウヰスキーを訪ね、竹鶴政孝氏より、「君の眼が気に入った」の言葉をもらい、ウイスキー造りの苦労、エリーこと妻リタさんとのこと、仲間たちのこと等暖炉を囲んで静かに語られたひと時が忘れられず、この度『マッサン』の放映が決まったときより、たとえチョイ役でってもなんとか出して欲しいと直訴されたのだそうです。
北大路欣也氏と言えば、戦前からの東映全盛期の名俳優市川右太衛門氏を父に持ち、日本アカデミー賞はじめ数々の賞を受けられ、2007年には勲章も授与された日本を代表する俳優です。
その北大路欣也氏の出世作となった龍馬がゆくに出演が決まった折、竹鶴政孝氏より声をかけられたことをずっと心に刻み、機会あれば竹鶴夫妻のドラマに出たいと思い続けておられたと知り、ましてもマッサンに感動させられました。そう言えば、主人公マッサンを演じる玉山鉄二さんも、京都出身でしたね。
これに似た話は、やはり25歳の五木ひろしさんの思い出話として、聞いたことがあります。
五木ひろしは、抜群の歌唱力を持ちながらなかなかヒット曲に恵まれず、デビュー10年となろうとするころ、『横浜たそがれ』と巡り会いました。五木さんは、まだ横浜たそがれがヒットチャートに上らない時期、全国行脚をする過程で、「今度もダメか」と疲れきって入った札幌すすきの小さなラーメン店で、店主より、「あんた頑張っているね」と声をかけられたことが忘れられないのだと言われました。
そして、やがて横浜たそがれで第一線に出た五木ひろしさんは、押しも押されぬ日本を代表する演歌歌手の地位を築かれています。
男の25歳は、大厄を過ぎた翌年にあたります。
ある中高一貫の男子校では、中学に入学した生徒に、『25歳の自分』を予想して書き出す学習しています。
私の場合、25歳の4月司法修習生となり、25歳の7月福岡に赴任しました。私なりに当時『25歳の決意』はありました。しかし今の自分は………。
北大路欣也氏の『忘れられない思い出』を聞き、『初心忘るべからず』に改めて思い至りました。
本当に、その道の第一人者、尊敬される方は、自分の今日あることを、その大きなボイントとなった出来事を終生忘れることなく、日々精進を続けられているのだと認識させられた次第です。
それにしても、やはり『マッサンは偉い!』。
今、子どもたちに教えたいこと
2015年2月13日
シリアで行方不明となった日本人2名が、武装組織『イスラム国』に捉えられて殺害された悲しい、許し難い事件が起こりました。
亡くなられた方の無念、ご家族の苦悩を思うとき、申し上げる言葉もございません。
今日は、この事件そのものに関するお話をするのではありません。
先週ある都市の小学校で、20代の女性教諭が、5年生社会科の授業において、『イスラム国』がネット上に公開したと言われる殺害場面などが映された画像を児童に見せて論じさせたと言う『事件』についてであります。
事態が発覚したことを受けて、学校長は、不適切であるので指導すると言い、自治体の教育委員会も、『大きな問題』だとして厳正に対処する方針だと表明しました。
国内のメディアも報道しない残虐な画像を、発達途中の児童に見せたことは問題だと言うことです。
この件に関しては、この教諭の行為が、『教育的配慮の点』から、適切か不適切かと問われれば、私も『不適切』だと思います。教育委員会の説明も、その観点からは、同意できるものです。
ただし、教育委員会も認めているように、この教諭が、この画像を用いて子どもたちに考えて欲しいとしたテーマはとても大切であり、決して昨今賑わすわいせつ事件や体罰等の教員の不祥事と同列に捉えてはならないと言いたいです。
まして、このところ流行っている残虐な、また、悪ふざけしたネットに流出するような画像を使った興味本位の行動ではないのだと言うことです。
このときの授業のテーマは、『情報化が進むことによる利点と問題点』であり、東日本大震災後、見る人の心的苦痛を考えて津波の画像を流さない放送局もあったが、報道で支援の輪が拡がった例を出し、「どこまで真実を報道することが良いか」議論させたと言うことです。この教諭は、「報道のあり方を考えさせるとともに、命の大切さに目を向けさせたかった。迷った末に見せたが軽率だった」と反省の弁が明らかにされました。
この『事件』について、報道機関の見出しは、『小5授業でイスラム国遺体画像』『小5授業で遺体写真使用』等です。これだけ見ればなんてバカな!となるでしょう。
でも、この若い教諭の学習に対する姿勢、子どもたちに発するメッセージそのものは、間違っていないと考えます。
この事件で命を落とした後藤健二さんは、今現地世界で起きている真実を知らせるため、自の命を賭したのです。
今、日本の与党政治家から、この行動を『蛮勇』と評価されました。また、未だ『自己責任』の声が聞かれることはまことに悲しいです。
報道機関は、国民の『知る権利』に応える社会的責務があります。
なぜ表現の自由が大切なのか。政府国の都合で情報が隠されることも、政府国の政策に反対し、意見することが封じられることも、絶対に認めることは出来ません。
報道機関は、政府を向いて何を報道するか決めるのではありません。
国民による監視コントロールが効かなくなった政府がどんな道を走るのか、私たちは学んだはずです。
さて、件の教員はどうすべきだったのでしょうか。
何を間違えたのでしょうか?確かに小5の子どもたちに、この教諭が意図するところ、子どもたちに考えて欲しかった本当の問題を、具体例なくして理解させるのは難しいかったと思います。
でも、あの画像を使用しなくても、こんな真面目な信念、教育観を持っている教諭であれば、子どもたちは、教諭の話をしっかり聞いてくれたのではないでしょうか?
教員だって失敗しながら、また、子どもたちに教えられながら学んで行くのではないでしょうか?
この教諭に、またチャンスが与えられますよう、単なる『教員の不祥事』として葬られないよう願っています。
グリーン車とオリンピック
2015年2月11日
『グリーン車』と聞いてどんなことを連想しますか?
優雅な方々は、フルムーンを、出張族は、新幹線に乗車してのビジネスを思うかもしれません。
JR各社に設置されるグリーン車は、昔国鉄時代は、一等車として特別料金で乗車する高嶺の花の感がありました。
もちろん現在のグリーン車も、特別料金ではあります。
首都圏のJR中距離通勤路線では、グリーン車が2両設けられております。最初は 、湘南電車と呼ばれた東海道線に一等車は登場したと思います。
当時東京から大船まで同じ路線を走る横須賀線にも現れ、横須賀線が総武快速線と直結して千葉方面にも、グリーン車は走りました。
その後上野駅を起点とする東北本線上越線、現在の宇都宮線高崎線に、最後は常磐線にも設置され、今では『ホームライナー』ともども座って通勤できるかなり需要が高い車両となっているいるようです。
首都圏のJR線では、ぐるぐる回る山手線と並んで通勤時混雑が激しい路線とされるのは、東京駅から新宿駅を経由して立川、八王子方面高尾駅まで結んでいる中央快速線でしょう。
新宿駅は乗降客日本一で、中央快速線は、『酷電』『痛勤電車』等等等酷評されるようです。
この中央快速線に、この度グリーン車が設置されることがJR東日本から発表されました。
現在10両編成で運行するところ12両編成にして、うち2両をグリーン車にするとのことです。
高尾駅の先は、現在でも一部電車は、中央東線山梨県大月駅まで運行されているので、大月行きをグリーン車付きで運行するとのことです。
そのため駅ホームの改造等に750億円をつぎ込んで工事をし、2020年からグリーン車の登場となるのだそうです。
中央快速線沿線には人口が多く、吉祥寺、国分寺、立川等私鉄からの乗降客もあって、グリーン車の設置を求める声はあったのでしょう。
でも、四谷東京間とか、せいぜい新宿立川間くらいしか利用しない人間からすると、混雑時2分間隔でダイヤが組まれているこの路線に常時グリーン車両が入っていると、返って『不便』と感じるのではと思ってしまいます。
たまたま四谷駅に行くため、新宿駅で飛び乗った車両がグリーンだったら、車内を移動する間に四谷駅に到着するでしょう。
また、東京駅に新幹線等で到着した旅行者が、八王子駅までゆっくり楽に座って行きたいと思っても、『大月行き』はいつ来るかわかりません。
この点は、もし通勤客のグリーン車需要が大きいのだとすると、なかなか来ない車両に、また、混雑が集中して不満や混乱が発生する恐れを感じます。
このように言うと、福本悟は、新しいやり方にはなんでもかんでも反対ではないか!と指摘されそうです。
私も、利用者の目線で考えるべきだと思います。ただ気になるのは、それこそなんでもかんでも2020年の東京オリンピックまでに………。の風潮があるのではと思えてならないことです。
オリンピックは国民あげてのイベント、世界に日本国のメッセージを発する大切な機会です。
しかし、オリンピックが終わっても残るものは残り、残すべきものは残されるのです。オリンピックパラリンピックそのものを成功させる大事と、その先子孫に残すべき大事は、それぞれの意義必要性等を考えて慎重に行うべきではないかと思う次第です。
穏やかな博多湾にて思うこと。
2015年2月10日
新しい年2015年も、はや1か月以上が経過しました。
正月によく聞く曲として『春の海』があると思います。寒い1月なのになんで春なの?と疑問をもたれるかもしれません。
これは『春の海』自体が春の季語であり、旧暦では正月はちょうど立春のころであることから、1月から大寒を経て立春のころまで、あちらこちらで演奏されるのでしょう。
宮城道雄の代表作で、失明する前、子どものころ見た鞆の浦の風景を思い起こした曲とされます。
琴、尺八の二重奏だったのが、後半が洋楽的な旋律になっていることもあり、バイオリンでの演奏を聞いたこともあるのではと思います。
『春の海 ひねもすのたり のたりかな』これは与謝蕪村の句です。
こちらは、季語からして時期ははっきりしているものの、厳冬の荒波の感じはなくて、本当にのんびりのどかな感じがいたします。
ひねもすは終日、のたりはゆっくりゆっくりの動きを意味します。1日中のんびりゆったりしている、穏やかな海の様子が窺われます。
俳句の世界では春と言われても、このところの寒気は凄まじいものがあり、東京でもまた雪です。北国の厳しい天気を気遣うこともなく、『のどかなだな』なんて感じでいるのは、それこそノーテンキと言われるかもしれません。
そう言えば、のどか、のんびり、のほほ〜ん、のっしり、のろのろ、のんき、のろま!等等、『の』がつく言葉は、なんか『NO』と言えない穏やかな感がありますね。
急ぐことが嫌い、体型からして、のたりのたりが似合う私は、やはり穏やかな春の海が好きです。
暖かい春にもなれば、やがて喧騒の夏が海にも近づく感があって、少しずつ水温む時期が「いいな!」と思うのです。 そんな思いで海を見て来ました。博多湾ですが、好天で気持ち良かったです。
子どもたちが浜辺で戯れるすぐ近くには、穏やかな博多湾で採れたての牡蠣を焼く場所がありました。
この時期、福岡県等九州各地で居並ぶ『牡蠣小屋』です。ここでは自分で炭火で牡蠣を焼いて食べます。のどかな春の始まりを感じました。
菅原道真公と梅と太宰府
2015年2月9日
早咲きの梅の便りが、寒さの中聞かれます。梅の見所は全国いくつもありますが、私の場合は、太宰府天満宮となります。
現在の私たちにとって太宰府が有名なのは、菅公すなわち菅原道真によることが大きいのではないでしょうか。
太宰府が歴史に登場するのは7世紀です。大和朝廷がこの地域の政治力を確保するため筑紫太宰なる政庁を置いたことは日本書紀に出ています。
ただ、『太宰府』となり、その重要性に着目されたのは、天智天皇のころ、仏教伝来等の親交があった朝鮮半島百済の再興を目指して唐、新羅連合軍とた戦った白村江で破れた朝廷が、北部九州の防衛網として城を作り、また、『防人』を置いたことでありましょう。
今も太宰府周辺には、『水城』『大野城』等の名が残ります。
この太宰府の地に平安時代都から菅原道真が左遷されて来られました。
菅原道真が朝廷から信頼され、また、人民からの人望を妬んだ藤原氏の策謀とされます。
学問を好み、梅を大切にされた菅原道真公は、この地で都を懐かしみ、生涯を終えたのです。
『東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ』は、あまりにも有名な歌です。
太宰府天満宮が菅公こと、菅原道真公を御祭りするようになったのは、菅公が生涯を遂げて、その遺骸を牛車に乗せて進んだところ、間も無くその牛が付伏して動かなくなったので、これは菅公の思し召しと判断した人びとにより、この地に遺骸を葬り、後に太宰府天満宮となったのだと説明されます。
2月に入ったある天気の良い日、太宰府天満宮に詣でました。
天満宮の本殿横には、『飛び梅』の枝があります。この梅は、早咲きの梅と言われ、菅公を偲んて都からたった1日で太宰府まで飛んで来たとの謂れがあります。
この梅だけは、ほぼ見頃でした。この先3月半ばまで、ピンクの梅が咲き乱れます。
そして、学問の神様も祀られる菅公には、この時期は年間だ最もお忙しい時期であります。太宰府天満宮の境内は、人人人でありました。 受験生だったのは前世紀となってしまいましたが、太宰府天満宮に来ると、今でも厳粛な思いがいたします。