沖縄県議会議員選挙の結果に関する報道に寄せて。
2016年6月8日
参議院議員通常選挙の前哨戦と言われた沖縄県議会議員選挙が行われ、定数48のうち、与党が、前回選挙時の議席より3人増やして27議席となり、過半数を占めました。
もう、『与党』なる言葉に慣れ、ある意味諦めムードもある本土で暮らす人間は、「またか?」と感じたかもしれません。
「チョット待った!」沖縄県ですよ。
沖縄県で与党と言うのは、翁長雄志知事の県政を支える側を意味します。元自民党員だった翁長雄志氏、普天間飛行場の辺野古沖移転問題を契機に、本土の政権与党とは、反対の立場におられます。
辺野古沖移転絶対反対派が、沖縄県県議会で勢力を伸ばしたのです。 日本国土の1%にも満たない土地に、日本に駐留する75%ものアメリカ軍基地がある沖縄県、基地やアメリカ軍関係者に対する良い感情を持てないとしても、本土の人間が非難することができるでしょうか?
自分の街に突如基地が出来たら……。
素直に『日米同盟』だなんて言って、喜べますか?沖縄で行われる選挙のたび、沖縄の経済振興策が政権与党から持ち出されるのは、もう飽き飽きしたのではないでしょうか。
基地があってもなくても地方創生、地方に活力をではないのですか。多くの国民が生活は楽ではなく、まして自分の老後や将来の付け回しに不安を感じている中、いつも沖縄県が、所得最低の統計があります。その振興策にしても、基地を前提とした、基地に依存する政策ではなかったですか。
政府を讃える大手新聞社は、『翁長知事の喧伝』と書いた箇所がありました。
沖縄県うるま市の20代の女性が、元アメリカ軍海兵隊員で、現在基地内で働く軍属のアメリカ人男性が関与した事件で亡くなった事件に絡んで、翁長雄志氏が、この県議会議員選挙期間中に、献花に訪れたと言うのです。それを言うなら、サミット直前の最悪の時期に……と言って憚らない方々、帰りの航空機の時間をしきりに気にするご多忙の中、わざわざ被害者の告別式に参列して、列に並ばずに黙祷し、ついでに、米軍基地関係幹部に遺憾の意を表明した担当大臣、熊本地震が大震災であったことに最近気づいた安倍晋三内閣総理大臣、衆議院北海道5区補欠選挙の選挙期間の最終日に、わざわざ熊本県入りして膝をついて被災者の手を握って激励する等、これらは宣伝でもなければ喧伝でもないのでしょうか。この新聞社、参議院議員通常選挙沖縄選挙区、相当な『逆風』になるのに、未だ公明党沖縄県連が、『中立』の立場にあることを批判的に掲載していました。
国民のための政治、県民あっての地方自治ではなく、政権与党あっての地方との考えのようです。 それはそれとして、沖縄県議会議員選挙隠しではないかと思われる米軍基地関係者が絡んだ事件の『後始末』を巡る報道が、この選挙後にありました。それは数年前横須賀市で、米軍関係者が起こした強盗殺人事件の被害者遺族が求めた損害賠償に関する米軍の回答です。裁判所では、約6.500万円の損害賠償を命じる判決が確定したところ、アメリカ側は、不法行為者に代わって、この者を将来にわたって免責すれば、4割に相当する賠償金額を支払うと言ってきたそうです。
これは、日米地位協定の中で、公務外で発生した損害賠償に関して、加害者本人に支払能力がない場合、米国が代わって支払いをすることが定めれているところに基づくものでしょう。
それが、免責と4割と言う示談案となったわけです。
確かに公務外であれば、当然に使用者責任が発生するとは言えないかもしれません。米国とその兵士の関係を、暴力団幹部と末端の組員との関係における使用者責任と、法律上同視はできないでしょう。でも、免責を求めるならば、全額賠償責任を果たすのは当然だと思います。
ここでもし被害者側が、アメリカ側からの示談申し入れを受け入れしたら、どうなるんでしょう。
その場合、日本政府が、『差額』を支払うのです。
すなわち、裁判で認めれた金額から、アメリカが支払った『見舞金』との差額は、『日本政府が支払うよう努力する』と1996年に日米間で、地位協定の運用改善がなされて合意されたからです。
防衛省によれば、これまで日本政府が支払ったのは12件、総額4億2.000万円とのことです。要するに、アメリカ兵が、日本で日本人を殺害すると、日本政府が、日本国民から集めた税金で、加害者アメリカに代わってお金を支払っているわけです。
こう言う現実を無視して、あるいは全然問題視せずに、今回の沖縄県で起きた事件に関して、オバマ大統領の来日を控えて、「最悪のタイミングだ」とか、折からの沖縄県議選を前にして、「県議選にも影響する最悪のタイミングだ」とは、、、。
ある自民党関係者は、「下手に手を出したら逆にやられるぞ!と言う風評を広めたい」とも発言しています。
この人たち、本当に国民の代表なのでしょうか?
もうすぐ沖縄戦の終戦の日を迎えます。
郷土愛、愛国心は、まずその地で生きる人を愛し、大切にすることから始まるのではないでしょうか。
私は、人を大切にする、人に寄り添う心を持った愛国者でありたいと思っております。
全然縁もゆかりも無い土地にある裁判所から、呼び出しを受けるのはなぜでしょう?
2016年2月23日
東京で仕事をしていると、出頭する裁判所は、東京地裁、東京家裁が多いです。
いずれも千代田区霞が関にあります。どの裁判所で審理されるかは、管轄と言う問題で、基本は、裁判所法に規定があります。その規定に、理論と実務を当てはめるのが、民事訴訟法であり、刑事訴訟法です。刑事の場合は、『事物管轄』つまり、どの罪名で起訴されたかで、地裁か簡裁かは分かれますが、基本的に犯罪が起きた場所、捜査を担した警察署が送致した検察庁がある裁判所で審理される実務です。
民事の場合は、事案によって、いろいろです。これも地裁か簡裁か、また家裁なのかーー一部高裁が第一審となるものもありますーーの区分はありますが、民事事件では、『土地管轄』により、アレつて思う場所で、裁判が係属することがあります。今日は、神奈川県平塚市に所用があって、湘南電車に揺られてまいりました。車内で管轄のことを考えましたので、私たちの経験から、管轄、特に、『土地管轄』について、お話したいと思います。
きさらぎ法律事務所は、時間を制限しない初回無料相談を実施しております。
これは、私福本悟が、ホームページほか、あらゆるところでお話しており、ご好評を得ていると自負するものです。その延長上に、『出張相談』『訪問相談』も行いますので、私の場合、依頼者が、東京から離れた地域におられて、その関係で、管轄裁判所が地方となることは珍しくありません。ここでお話することは、依頼者の関係で、裁判所が遠方になったのではないケース、『遠方』ではないけれども、依頼者が、普段行き来することが少ない『関係ない土地』にある裁判所に出向くケースについてです。
調停は、相手となった側が、話し合いを行うために裁判所に来やすいようにとの建前で、相手方の住所地が、管轄裁判所とされます。また、民事訴訟の基本中の基本は、被告すなわち訴えの相手方の住所地を管轄としていることです。もっともこちらは、他の要素を利用して、必ずしも被告の住所地ではない地域の裁判所に係属することが多く、後でまとめてお話します。きさらぎ法律事務所弁護士福本悟は、家裁に行くことが多いので、『またか』と思う事態にしばしば見舞われます。
依頼者には、『えっ』のようですが。
常磐線快速電車の終点が、茨城県取手駅となったのは、いつからだったでしょうか。取手市そしてその先の牛久市や、つくばライナーの開通で発展する守谷市の事案は、竜ケ崎の裁判所が担当します。おそらく取手市等にお住まいの方は、竜ケ崎にはほとんど縁がないのではと推測されます。
ご依頼者にこのことをお話しますと『えっ』であります。
東京ディズニーランドのある浦安市のご夫婦が、離婚調停を行う場合、千葉家裁、つまり千葉市に出向かなければなりません。市川市、船橋市、習志野市等にお住まいの方は、おそらく都内にお仕事を持たれていることが多いかと思います。都内、例えば霞が関や新宿に出勤している方が、千葉市に出向いて調停裁判を行うのは、「面倒だな」と仰ることがままございます。
これは、人々の実際の活動に対して、司法の容量が追いついていないことを示すひとつの例かと思います。そうではなく、事案の性質と原告の都合で、被告とされた方には縁がない土地に裁判が係属することがあります。これは、お金の請求に関する事案で、民法の『持参債務』と民事訴訟法の『義務履行地』から求めれた帰結です。お金を借りてお返しするとき、『ありがとうございました』と言ってお持ちし、自分の不注意で損害を与えた方に賠償金をお支払いするとき、『ご迷惑おかけし、すみませんでした』と言ってお持ちするのが通常でしょう。つまり、お金は、相手のところに持って行くものです。この便宜から、銀行送金が使われます。
この義務履行地にも、民事訴訟の土地管轄が認められます。お金を支払ってもらう側、要するに相手にお金を請求する側、つまり『債権者』は、自分の住所地を管轄する裁判所に訴訟を提起するのです。そのため被告、すなわちお金を支払えと求められた側は、自分の住所から遠い地の裁判所から、呼び出しを受けることになります。
これが代理人として弁護士が地方に出るひとつの理由となっているのです。私は、依頼者と弁護士は、地理的よりも心理的な繋がりが大切と思っております。裁判所が遠くても、依頼者と弁護士の距離が近ければ、信頼関係に綻びはありません。ですから私は、「地方の事件だからやらない」はないのです。要は信頼関係です。
今日訪問した平塚市の土地管轄は、横浜地方裁判所小田原支部です。隣の茅ヶ崎市は、横浜地方裁判所、すなわち本庁となります。同じく相模川を隔てた厚木市は小田原、海老名市は横浜となります。この点、横浜地方家庭裁判所川崎支部ははっきりしています。土地管轄は、川崎市のみだからです。しかし、『川崎都民』と言われるごとく、縦に長い川崎市の住民のほとんどは、都内に通勤します。私も一時期川崎市内に住みましたし、息子は、川崎市内の学校に通いました。それが川崎市民が通う裁判所は、JR川崎駅からさらに海に向かった南にあるので、ほとんどの方は、それまで縁がなかったと思われます。
東京は、23区と島嶼部を除く全地域、すなわち、かつて『三多摩地域』と呼ばれた地域の管轄は、東京地方家庭裁判所立川支部となります。私の住所も、立川支部が管轄なのですが、立川市には、弁護士として仕事で行く以外、全く用がありません。ちなみに、東京都町田市は、神奈川県相模原市と県境ですが、町田市民が、立川支部に行くとき、隣町の相模原市を管轄とする横浜地方家庭裁判所相模原支部の最寄駅相模原は、電車で5~10分で到着するのです。
さて、相模川を渡りました。もうすぐ平塚駅です。小田原はさらに先、東京駅からは新幹線、新宿駅からはロマンスカー、何か物見遊山のようですね。でも、これが弁護士のストレスの発散になっているとの意見もあります。
全然知らない土地に行くのは、私たち法律実務家だけではなく、依頼者の皆さんにも、新たな発見となることがあるかと思います。それぞれの街の空気を吸って、またひとつ経験をしていくのです。
ベットの犬を殺傷されたとき、『器物損壊』とされることについて
2015年11月6日
千葉県市原市で、イノシシ狩りをするために、市の要請で集められていた猟犬が、猟師らが目を離した間に民家に立ち入り、ペットとして飼われていたチワワに噛み付いて死亡させた『事件』が報じられています。狩猟犬とチワワでは、勝負になりません。
チワワの冥福と、ご家族には心からのお悔やみを申し上げます。
ベットは家族の一員です。飼い主の自宅で暮らしていたベットが噛み殺されるなんて、想像しただけでショックで哀しくて、ご家族の悲嘆はいかばかりかと思います。
以前お話したかもしれませんが、ベットである動物を死傷させられた場合、動物は、『器物』と扱われて刑法上器物毀棄罪が成立するかどうかです。でも、人間が、故意に猟犬を嗾けたような場合でなければ、猟犬を見失ったことが管理者の過失の認定されても、過失毀棄毀棄罪はないのです。
もちろん、ベットが損壊されたことに、管理が不十分等人間の過失が存在する場合には、猟犬の管理者には、民事上損害賠償責任があります。ただ、この事案の場合、ベットとして暮らした動物は、人間の家族ではないので、その物の価額が損害額となってしまいます。すなわち、チワワの時価が損害額であり、恐ろしい、痛い思いをしたチワワは人間ではありませんから、亡くなったチワワ自体には、加害者側に対して、慰謝料を請求できません。その相続ということもないのです。
それでは、家族であるチワワを殺害された飼い主には、この悲しみに関して、慰謝料を請求できないのでしょうか?家族を奪われたに匹敵する悲しみであることを認め、犬を噛み殺された飼い主への加害者側からの慰謝料の支払いを認めた裁判例はあります。その金額ですが、三桁には届きません。
精神的苦痛に対する損害賠償を慰謝料とも言います。精神的苦痛を金銭評価することは難しいと言うよりも、そんなこと無理、こじつけだとも思われるでしょう。私もその意見を無視できないと思っています。でも、他に方法があるのかです。法律実務上、お金を支払うことが謝ったことだと申しました。しかし、精神的苦痛は、人それぞれ、法律や裁判で決めることに馴染むのかと言うことです。
慰謝料に関する判決は、精神的苦痛を慰謝するとすれば、⚪️⚪️円を下らないとか、本件では、一切の事情を考慮して、慰謝料としては金⚪️⚪️円をもって相当とするのような判示となります。
そして、慰謝料が一円単位になることはありません。総額十万円代のときは、1万円単位が出るとしても、百万円単位のときは、せいぜい十万円代まででしょう。私自身は、判決では百万円、二百万円……であり、150万円なんて経験ありません。まして151万円なんて……。
慰謝料額の基準は、あって無いようなもの、いや、無いようで、実はあるのだと我々法曹実務家は理解しています。
そのことの是非を言うのではありません。私は、年中行事だと評しますが、自分の配偶者の不倫相手に慰謝料を請求するケースでは、大抵300万か500万です。蛇足ですが、このケース、既に夫婦の婚姻関係は破綻していたとの主張が出されるのも年中行事です。私は、いずれもやりませんが。なんで?と関心を持たれましたら、このホームページの『離婚、男女問題』のコーナーをご覧ください。
慰謝料額は少ないとの印象が持たれると思います。ある裁判例で、注文したカツ丼にゴキブリが入っていた事案でのお客さんに対する慰謝料は、5.000円と言うのが知られています。また、これは常にきさらぎ法律事務所にいらっしゃる方に申し上げるのですが、男女に関する問題で、もし慰謝料を支払わなければならないのだとすると、『1本』すなわち最低100万円だと申し上げます。これは実際ある裁判官が仰ったことです。本やネットの情報とは違うのです。
精神的苦しみは癒されることはない、しかし、ずっと引きずりたくないとき、慰謝料の支払いというかたちで収まりをつけるのだと思っています。これは、ひとつのセレモニーかもしれません。それでなんとか区切り、節目とできるか、気持ちの整理ができるか、それが弁護士と依頼者の信頼関係であります。
さて、冒頭のチワワの例、報道された範囲で、私が気に入らないのは、市役所は、亡くなったチワワを早く火葬して欲しいと言ったとか、家族、法律上は器物なのでしょうが、これを突然を失ったなんの落ち度もない市民に対する言い方なのかであります。早く処置したいと言う役所仕事が見えますね。あるいは、『証拠』を隠したいのかもしれません。
被害者家族が心を落ち着けて、節目となるようなお悔やみ?くらい言って欲しかったです。
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裁判官の仕事は、判決言い渡しまでではないのですか?
2015年11月2日
昔裁判官を志した法曹界の先輩が、『裁判官は弁明せず』を言われました。
民事事件で、原告被告双方の主張を聞く限り、全く正反対の事実を述べておりますし、刑事事件では、ときに有罪か無罪か判断を示さなければならない立場に裁判官は身を置きます。私は、責任の重みを言いたいのだと受け取っています。
また、裁判官は、寡黙で喋らないイメージがあるのではと思われます。
裁判官の身分は、憲法で保障されています。これは、裁判官は、あらゆる圧力を受けることがないよう、法律と良心に従い、独立して職務を行う必要があるからです。よく法廷で、裁判官が入廷すると『起立!』となりますが、あれは裁判官が偉いのではなくて、法廷の厳粛、法廷ではなんぴともここで行われてようとするところを邪魔しないことの約束みたいなものとお考えください。
私は学生時代、特に刑事法に関心があり、そのころは検察官を志していたこともあって、よく刑事裁判を傍聴しました。ですから、司法修習生になったときには、何と無く法廷の雰囲気は分かっていたつもりです。当時は実務修習の前に、司法研修所での前期修習と言う講義が中心の修習がありました。そのとき、刑事裁判教官が、テレビでも放映されたある日の東京地裁でのある場面について、我々修習生の意見を求めたことがあります。
それは、ある刑事事件で、被告人に対して無罪を言い渡した後、担当した裁判長が、被告人とされた方に対して、『疑わしいが証拠の関係からこのような判決になった…。これから気をつけて生活するように…。』と述べたことについてです。 私は、あれはないよと思いました。確かに疑わしきは罰せずであり、この法廷にいる被告人が犯人かどうかではなく、検察官が主張した事実、すなわち起訴状に記載された犯罪とされる事実が、証拠上合理的な疑いを払拭する程度認めれるかどうかを判断するのが刑事裁判ではあります。
でも、日本の社会では、やっぱり疑わしい、あの人は危ないなんて受け取られるのが現実です。余計なことを言うものだと思いました。裁判官、この元被告人が社会に受け入れられなかったら、責任取れますか。それに、この話を聞いたときは、有罪にできなかった悔しさ?が裁判官にはあるのかと感じたと、刑事裁判教官には申し上げました。 その後『裁判官の言い訳』はあまり気にならなくなりました。ちょっと気になったのは10年くらい前だったでしょうか、九州のある裁判所で言い渡された死刑判決を担当した裁判官の言葉です。
有罪すなわち、検察官の主張した事実が全てそのとおり認めれるのであれば、死刑判決はやむを得ないと言われた事案だったとされますが、判決言い渡しの後、裁判長は涙を流し、『控訴してください』と述べたのです。これはちょっと先の東京地裁の例とは違うように思いました。法律と良心に従い職務遂行した結果は、こうなるのは当然であり、判断に誤りも悔しさもない、しかし裁判官だって人間なのです。人ひとりの命の重みを思えば、可能な限りチャンスを活かして欲しいとの願いだったのではないでしょうか。でも、やはり、私は、言って欲しくなかったです。 さて、これはつい最近の事例です。
妻に逃げられた男性が、当時4歳くらいの子どもを家に放置して死亡させたとして殺人罪で起訴された裁判員裁判がありました。食事を与えず、別の女性の家に出入りし、たまに家に帰ってもゴミ屋敷さながらで、そんな中に子どもを放置し続けて、この子が亡くなっても手当を受けて7年経過して、遺体が発見されたというものです。裁判員裁判の結果は、ほぼ検察官の主張事実を認め、懲役20年の求刑のところ、懲役19年を言い渡したのでした。
おそらくこの事実認定と量刑は、裁判員裁判であることも考えれば想定されたものです。私は、しばしば裁判員制度になり、死刑判決が増えたことと、量刑が重くなったことを指摘しています。これが市民感覚と言われるものなので、制度が正しいとされる以上当然のことです。しかし、私は、職業裁判官は、『市民感覚』なるものを裁判外で出してはいけないと考えます。この事案、被告人には汲むべき事情に乏しいでしょうし、唯一救える立場にある父親に放置されて絶命したお子さんを思うと、私だって涙はでます。で
も、判決言い渡しの後、裁判官は、それをやってはダメなのです。だって、被告人からすると、判決が終わっても、そこに居て喋った人は裁判官なのですから。 この刑事裁判の裁判長、判決を言い渡した後、被告人に対して、お子さんを思うと涙を禁じ得ないに続けて、『これは事故のようなものと言われたときには耳を疑いました』と述べたのです。
それはそうだと思います。だからこそ、このような判決になったのでしょう。『事故のようなもの』との被告人の主張は、裁判員との合議を重ねて充分審理されているはずです。判決後、あんたの言っていることなんか、人間性の欠片もなく、全く信じていないとダメ押ししたわけです。もし、こんなことを言いたいのであれば、判決理由中で述べるべきです。裁判長が、裁判が終わったら、『一般市民の感覚』で、壇上で自己の思いの丈を吐き出した感があります。
裁判官は弁明もせず、一般市民としての感想も、述べて欲しくありません。被告人からすると、やはり裁判官なのですから。
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裁判官の仕事は、判決言い渡しまでではないのですか?
2015年10月29日
昔裁判官を志した法曹界の先輩が、『裁判官は弁明せず』を言われました。
民事事件で、原告被告双方の主張を聞く限り、全く正反対の事実を述べておりますし、刑事事件では、ときに有罪か無罪か判断を示さなければならない立場に裁判官は身を置きます。私は、責任の重みを言いたいのだと受け取っています。
また、裁判官は、寡黙で喋らないイメージがあるのではと思われます。裁判官の身分は、憲法で保障されています。
これは、裁判官は、あらゆる圧力を受けることがないよう、法律と良心に従い、独立して職務を行う必要があるからです。よく法廷で、裁判官が入廷すると『起立!』となりますが、あれは裁判官が偉いのではなくて、法廷の厳粛、法廷ではなんぴともここで行われてようとするところを邪魔しないことの約束みたいなものとお考えください。
私は学生時代、特に刑事法に関心があり、そのころは検察官を志していたこともあって、よく刑事裁判を傍聴しました。
ですから、司法修習生になったときには、何と無く法廷の雰囲気は分かっていたつもりです。当時は実務修習の前に、司法研修所での前期修習と言う講義が中心の修習がありました。そのとき、刑事裁判教官が、テレビでも放映されたある日の東京地裁でのある場面について、我々修習生の意見を求めたことがあります。
それは、ある刑事事件で、被告人に対して無罪を言い渡した後、担当した裁判長が、被告人とされた方に対して、『疑わしいが証拠の関係からこのような判決になった…。これから気をつけて生活するように…。』と述べたことについてです。
私は、あれはないよと思いました。確かに疑わしきは罰せずであり、この法廷にいる被告人が犯人かどうかではなく、検察官が主張した事実、すなわち起訴状に記載された犯罪とされる事実が、証拠上合理的な疑いを払拭する程度認めれるかどうかを判断するのが刑事裁判ではあります。
でも、日本の社会では、やっぱり疑わしい、あの人は危ないなんて受け取られるのが現実です。余計なことを言うものだと思いました。裁判官、この元被告人が社会に受け入れられなかったら、責任取れますか。
それに、この話を聞いたときは、有罪にできなかった悔しさ?が裁判官にはあるのかと感じたと、刑事裁判教官には申し上げました。
その後『裁判官の言い訳』はあまり気にならなくなりました。ちょっと気になったのは10年くらい前だったでしょうか、九州のある裁判所で言い渡された死刑判決を担当した裁判官の言葉です。有罪すなわち、検察官の主張した事実が全てそのとおり認めれるのであれば、死刑判決はやむを得ないと言われた事案だったとされますが、判決言い渡しの後、裁判長は涙を流し、『控訴してください』と述べたのです。
これはちょっと先の東京地裁の例とは違うように思いました。法律と良心に従い職務遂行した結果は、こうなるのは当然であり、判断に誤りも悔しさもない、しかし裁判官だって人間なのです。人ひとりの命の重みを思えば、可能な限りチャンスを活かして欲しいとの願いだったのではないでしょうか。でも、やはり、私は、言って欲しくなかったです。
さて、これはつい最近の事例です。妻に逃げられた男性が、当時4歳くらいの子どもを家に放置して死亡させたとして殺人罪で起訴された裁判員裁判がありました。
食事を与えず、別の女性の家に出入りし、たまに家に帰ってもゴミ屋敷さながらで、そんな中に子どもを放置し続けて、この子が亡くなっても手当を受けて7年経過して、遺体が発見されたというものです。裁判員裁判の結果は、ほぼ検察官の主張事実を認め、懲役20年の求刑のところ、懲役19年を言い渡したのでした。
おそらくこの事実認定と量刑は、裁判員裁判であることも考えれば想定されたものです。私は、しばしば裁判員制度になり、死刑判決が増えたことと、量刑が重くなったことを指摘しています。これが市民感覚と言われるものなので、制度が正しいとされる以上当然のことです。
しかし、私は、職業裁判官は、『市民感覚』なるものを裁判外で出してはいけないと考えます。この事案、被告人には汲むべき事情に乏しいでしょうし、唯一救える立場にある父親に放置されて絶命したお子さんを思うと、私だって涙はでます。でも、判決言い渡しの後、裁判官は、それをやってはダメなのです。だって、被告人からすると、判決が終わっても、そこに居て喋った人は裁判官なのですから。
この刑事裁判の裁判長、判決を言い渡した後、被告人に対して、お子さんを思うと涙を禁じ得ないに続けて、『これは事故のようなものと言われたときには耳を疑いました』と述べたのです。それはそうだと思います。
だからこそ、このような判決になったのでしょう。
『事故のようなもの』との被告人の主張は、裁判員との合議を重ねて充分審理されているはずです。判決後、あんたの言っていることなんか、人間性の欠片もなく、全く信じていないとダメ押ししたわけです。もし、こんなことを言いたいのであれば、判決理由中で述べるべきです。裁判長が、裁判が終わったら、『一般市民の感覚』で、壇上で自己の思いの丈を吐き出した感があります。
裁判官は弁明もせず、一般市民としての感想も、述べて欲しくありません。被告人からすると、やはり裁判官なのですから。
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