たかがトイレ、されどトイレ

2015年2月2日

私にとって福岡の定番となっているのは、屋台『しんきろう』と西鉄グランドホテルです。

 

いずれも福岡の中心天神地区にあります。福岡市内で見かける西鉄バスは、ほぼ例外なく行き先経由地に『天神』が表示されています。福岡市役所も、もちろん天神にあります。

 

この福岡都心の『名物』が消えようしています。

 

街の真ん中、人通りの多い場所に長く設置されていた公衆トイレの撤去がこれです。

 

福岡市天神2丁目の通称国対道路沿いの歩道に、迫り出すように設置されていた『天神2丁目公衆便所』が、40年間の役目を終え、今年『廃止』されることがほぼ確実になったと言うことです。

 

福岡市民ならば、おそらくこのトイレの存在を知らない方はおられないのではないでしょうか?

国対道路『天神警固神社三越前』のバス停から、渡辺通4丁目交差点に向かって歩けば、イヤでも?目に付く公衆トイレがあります。写真 2

 

このトイレの特徴は、歩道に設置されていることもあって、通行の邪魔となっているとの指摘は当然としても、要するに、外から丸見えなのです。

公衆トイレは、防犯上の理由から、扉は付けられない簡易な造りで有ることは避けられず、それが『環境問題』にも発展しかねないところ、こうして40年以上も、ど~んと街を見守っていたのです。

 

この公衆トイレ、歴史的には、天神警固神社三越前のバス停から、渡辺通4丁目交差点に向う場所には、福岡の風物詩ともなっている屋台が複数営業していて、この方々用に、公衆トイレが必要だったようであります。

私自身も、未だ『しんきろう』の大将を知る前、この場所に出ていた屋台の酔客となり、このトイレには、お世話になりました。

しかし、司法修習生だった32年前には400件とも言われた屋台は、その後営業権譲渡禁止等の時代の流れにより、現在は150件くらいまで減ってしまいました。

その流れなのか、もう、天神警固神社三越前バス停周辺の屋台はなくなりました。なんと、渡辺通大丸前の『しんきろう』の近隣に移動してきた屋台もあります。

そんなことも、天神2丁目公衆便所が、時代に取り残され、無用となったとの判断に至ったのでしょうか?

 

このトイレは、私が32年前に福岡に赴任したときから存在する数少ないかたちです。

25歳の福本悟に戻ることが許される思い出の場所でもあります。人間生きている限り、トイレにお世話にならないことはありません。

天神2丁目公衆便所は、移りゆく福岡の街をず~っと見てきたのです。

 

たかがトイレ、されどトイレ、長い間お疲れ様ありがとうと言いたいです。

 

明太子の日

2015年1月10日
 1月10日は、『明太子の日』です。知る人ぞ知るではありますが、昭和24年のこの日、現在は福岡市中州を本社とする株式会社ふくやが、初めて『辛子明太』を店頭に並べて販売したことに因んだのだそうです。

今では福岡みやげの定番となった辛子明太ですが、ふくや創業者初代川原俊夫氏が、戦後満洲から福岡に引き揚げた後、子どものころ、韓国釜山で暮らしたときに食べた味が忘れられず、独自のやり方で研究を重ね、これを日本の食卓でも食べられるよう、遂に販売にこぎ着けたということです。初代は、皆に食べて欲しいとの思いでしたから、周囲の人たちに作り方を教え、これが広まって、「明太子を販売したい」と言う事業者が出れば、丁寧に伝授したと言われます。商標登録せず、特許も取得せず、ただ食べてもらいたい思いだったと述懐されました。ですから、福岡市内に数ある明太子販売業者の中で、ふくやは、『元祖』を名乗らないのです。

福岡で暮らしたことがあり、福岡大好き人間の私は、もともとあまり辛子明太は食しませんでした。それは、唐辛子が苦手と言う理由もありましたが、三方が海に面し、博多湾の先玄界灘は屈指の漁場である福岡県の名産が、スケソウダラの卵を使った加工品というのは勿体無い、「な~んだ、やっぱり魚は北海道だな」と言われるのではないかと思われるのは、悔しい思いがあったからです。

随分狭い了見でした。初代川原社長は、利益や権利、名声?なんか関係なく、ただこんな美味しい食品は、広くみなさんに食べて欲しい思いだったわけです。一昨年、福岡市をホームタウンとするサッカーJリーグ第2ステージに属する『アビスパ福岡』が、資金難で、Jリーグからの強制脱会の危機が報じられた折、株式会社ふくやは、明太子のギフトセットの売上代金全額を、アビスパ福岡に寄付する支援活動をされました。その結果、用意した2296セットは瞬く間に完売となり、約900万円と見込まれた売上金は、全てアビスパ福岡に渡されたのです。危機を脱したアビスパ福岡は、今年は、元日本代表主将を務めた井原正巳氏を監督に迎え、次のステップに進むことができました。

このころから、私は、ふくやの明太子をよく食べるようになったのです。全て直営方式のふくやの明太ですが、きさらぎ法律事務所は、通販の会員になり、大切な方々に、ふくやの明太子を食していただいております。因みに、きさらぎ法律事務所は、『アビスパ福岡』の法人後援会『ソシオ』に所属してもおります。

最近、日韓の交流、あり方について、あちらこちらで議論がなされおります。今では、日本全国の食卓に欠かせない明太子は、満洲そして釜山を経由して、素晴らしい先人の努力によりもたらされたものだと知る人は少なくなったのでしょう。いっぽうでは、インスタントラーメンは、日本から韓国にもたらされた歴史があります。『歴史は忘れてはならない』と言うことでしょうか。

 

黒田如水が願った人々の幸せ

2014年12月25日

12月14日に行われた行事のため、1週間遅れたNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』の最終回が放映されました。関ヶ原の戦いの最中、九州をほぼ平定した黒田如水は、黒田家当主黒田長政の活躍で、関ヶ原の戦いがわずか1日で決着したことから、これで戦乱の世は終焉を迎えたとし、筑前52万石の大名となった黒田長政による築城と町づくりを、博多の南太宰府の地で、静かに見守る生活に入ったそうです。

写真 1

 

そして黒田如水は、菅公こと菅原道真を祀る太宰府天満宮の境内を、隠棲の場として選びました、それは当代一の文化人でもあった黒田如水は、和歌連歌の神様とも崇敬された菅公に学び、連歌会を開いて太宰府天満宮に奉納し、長く続いた戦火のため荒廃した天満宮の復興に努められたのです。

 

黒田長政が築城した城は福岡城と称され、『博多』と呼ばれていた一帯のうち武家の町は『福岡』となりました。

 

前藩主小早川秀秋の時代、福崎と言われていた地を、藩主黒田長政が『福岡』と改めたのは、黒田家発祥の地備前福岡を起源とするものと言われております。それはそのとおりだと思います。

 

写真 3

ところで、戦乱の世を全て知り尽くした黒田如水は、晩年これからの日の本の中心となり、発展するのはこの福岡であると感じ、それを願ったという研究の結果が、最近になって発表されているようです。黒田如水は、太閤の博多町割りを実行し、朝鮮半島に渡り、茶人千利休らとの交友から明、高山右近らキリシタンを通じて遥か異国の文化に触れて、ここ九州の入り口でもある福岡は、アジア、そして世界の入り口であると感じられたのだろうと言うものであります。

 

「松梅や  末長かれと  みどりたつ  山よりつづく  さとはふく岡」

写真 2

晩年黒田如水が、太宰府から詠んだ歌です。これは、菅公が愛した梅と、逞しく伸びる松の木に囲まれた緑豊かな太宰府の地より、山々を経てやがて開かれる土地で暮らす人々の幸せを願い、詠んだ歌とされます。綿々と『ふく』が続く岡であって欲しい、ここから『福岡』が誕生したとされます。

 

さて、あるいは戦後日本の岐路ともなりうる先の衆議院議員総選挙の直前、私は太宰府天満宮、そして福岡城跡を訪ねました。12月14日、現代日本での『決戦』も終わりました。

 

こらからの日本が、決して戦争に巻き込まれぬよう、まして戦争参加するような国にならぬよう、戦乱の世を生き抜き、人々の幸せを願った黒田官兵衛、如水円清が晩年を過ごした福岡から、決意を新たにした次第です。

 

別れても好きな人

2014年12月24日

『空港』と聞いたら、何が思い浮かびますか?

 

空港を舞台にした歌、特に演歌は多いと思います。

 

アジアの歌姫テレサテンさんの『空港』、デュエットの名曲『北空港』、伝説の美少女A?中森明菜さんの『北ウイング』、誰かさんのカラオケの定番前川清さんの古い曲『さよならの彼方に』等等、たくさんあるでしょう、

 

空港をテーマにした歌は、『別れ』が定番の感がありますね。

 

でも、別れが似合わない空港があります。

 

福岡空港です。

その23写真 3

北島三郎さんの古い曲に、

 

『ひとの妻とも知らないで、おれは来たんだ博多の町へ……』がありました。

 

『博多のひと』です。『はるばる来たぜ函館へ……』の威勢の良いサブちゃんとは違う魅力?がありますね。

 

男女の別れがテーマではありません。男が女を追い掛けて来ました。

福岡空港は、「世界一市街地に近い便利な空港」と言われます。

博多駅まで地下鉄2駅、福岡市の中心天神まで15分です。

福岡空港の年間発着数は15万回を超え、約2分17秒に1回、離発着があるのです、

 

この密度は、羽田空港、成田空港を凌いで日本一です。

市街地にあるため、離発着が事実上7時から22時までとしているため、実際は、世界一と言われているのです。

これを言うだけで、暗い、別れのイメージを払拭するのではないでしょうか?

 

福岡博多は、『のぼせもん』が多いと言われます。芸能人を多数輩出してことでも知られいます。

 

昨年の五木ひろしさんのヒット曲、『博多アラモード』も、福岡空港から始まっています。

 

『初めて、ここに急いで飛んで来たのさ。お前が、迎えてくれたエアポート』

ここから、福岡博多での愛の物語が始まります。中州、天神西と続きます。その23写真 1

博多をテーマにした演歌は売れないというジンクスがあるのだそうです。

福岡博多は、演歌の定番、男女の別れには似合わないからだと思います。

 

そう言えば、○○年前、福岡県出身の人気歌手が、結婚確実と噂されながら、「今度生まれ変わって会えたら、結婚しようね」と言って別れた

ことが思い出されます。

 

このかたがた、それぞれ○回離婚結婚を経験されているようです。

 

今は、別れたら次の人のように見えますが、なかなかどうして、もしかして、将来やはり『別れても好きな人』だったことを証明する日が来るかしれないと、甚だ不謹慎なことを考えるのは、私だけでしようか?

 

屋台は辞めないどこまでも

2014年12月23日

福岡博多の屋台の話を始めたら、収拾がつかなくなります。

 

25歳から27歳までの約1年4ヶ月、初めて東京を離れて『修習』のため赴した福岡は、私の故郷です。

 

厚かましくも、あちらこちらで、福岡を宣伝していたことから、『東京福岡県人会』に入会させていただきました。

福岡博多の屋台については、ブログカテゴリーの『よかとこ九州』に、何回かに分けて、屋台に関する福本なりの情報、意見を書きしたので、もう言いません。

 

今日は、20年以上通い続ける屋台『しんきろう』の大将(福岡博多では、店主のととを『大将』と言います)から、嬉しい話を聞く聞くことができたので、このことについてお話します。

その22写真 4

 

先月になりますが、日本テレビ系列が放映する『ケンミンシヨウ』という番組で、紹介されたことです。

屋台は、福岡の風物詩ですが、福岡の真ん中天神で営業しながら、全然商売っけない(失礼!)『しんきろう』が、天神の屋台を紹介するため、仕方なく?テレビに出てしまったらしいのです。要すに大将は、職人プロを地て行くような人で、自らをアピールするようなことはいたしません。しかし、人は、見ていたのですね。

 

よく言われますが、出たい人より出したい人なのです。

その22写真 3

 

 

 

ちょっと待って

 

何処かの世界からは、そう単純に割り切れなかったよとの声が聞こえてきそうです。

第○なんとか内閣は、なりたいひとはたくさんいたけれども、なった人はすぐに、何人か辞めてしまいましたよね?

時と場合によっは、「出したい人」も、人様の役に立たないことがあるんです。

 

それじゃ、出たい、なりたいと言っている人も、出てください、なってくださいと言われ

 

 

た人も、その当人が所属する団体が?なお、救われないということなのでしょうか?

 

でも、なんでそんな団体が、あるのでしょうか?

 

さあ、それは人間界のように、選挙という制度がないからではないのでしょうか?

 

だって人間界は、必ず争点ごとに選挙をしますから、、。

 

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