6月,九州は潤い、輝きます。

2010年5月29日
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冬期、東京・九州間の航空機の飛行時間は、行きと帰りで20~30分違いがあります。

これは、日本列島上空の偏西風,つまり寒帯前線ジェット気流と亜熱帯ジェット気流が合流し、ジェット機の巡航高度付近を、非常に強い西風となって、吹き流れるからだと説明されます。

もっとも、九州から東京に帰るときも、最近の羽田空港の過密状況から、結局、搭乗時間は、あまり変わらなくなってはおりますが。

九州は、これから梅雨に入り、やがて夏を迎えます。

この梅雨の時期も、また、航空機内で感じることがあります。

『前線』,すなわち、北からの寒気と、南からの暖気がぶつかる場所が、この時期、北緯30°から40°の位置に停滞することで、まさに、東京から西に向う航空路に重なります。

よく、機内で、「本日は、前線の影響で、航路上揺れることが予想されます」とアナウンスされるのがこの例です(もっとも、続けて、「大きく揺れることがありましても、飛行の安全には全く問題はございませんので、ご安心ください」と言われます)。

ほぼ真西に向かい、山間部の上空を経由する福岡,長崎便は、よく揺れると感じます。そして、この前線付近では、上昇気流が起こり、下は、強い雨となっています。

梅雨も後期となって、南からの高気圧が強くなり、前線を押し上げると、福岡空港,長崎空港では、短時間に集中豪雨が発生し、しばしば航空機の運航に、影響が出るのではないかと思います。

7月といえば山笠,毎年脚を踏み入れる福岡では、何回か雨のため、航空機のダイヤが乱れた経験があります。

しかし、梅雨前線が、玄界灘を越えたとき到着する雨上がりの福岡の街は、潤いを増し、輝いています。

特に、福岡空港へ、南側から侵入する際には、街の中心天神付近を通過するので、空(機内)から見た夜景は、とてもきれいです。

雨は、万物に恵を、人々に潤いを与えます。

梅雨前線を飛び越えて、潤いを増す九州に、どうぞお越しください。

これも鯛? あれも鯛? 皆よかたい

2010年5月22日
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初めて九州で生活した際、動く魚を食べました。

これが活き造りで、九州では当り前,全然驚くに値しないことは、その後のいろいろな魚と知り合って、納得できました。

白身の代表『鯛』は、基本中の基本ということです。

ツボ鯛(つぼだい)をご存知ですか。九州,特に、福岡の居酒屋では定番です。

ツボ鯛を初めて食べたのは、十数年前、藤崎の『磯貝』でした。ツボ鯛みそ焼きは、あれから、あっという間にポピュラーな食べ物となったようです。福岡市内の定食屋では、ツボ鯛西京焼定食が、ランチタイムに出ています。

『鯛』と言えば、めでたいお魚で、尾頭付き,特に、活き造りに慣れてくると、「ツボ鯛は、何で顔がないの?」と思ってしまいます。

ツボ鯛は、深海に生息する希少な魚であって、市場に出るまでに鮮度を保つ必要から、漁師さんが、内臓や頭を落して、塩漬けにするのだというのが、柳橋連合市場で聞いた話です。

それからツボ鯛は、実は『鯛』ではなく、スズキ目カワビシャ科に属するのだそうです。

お頭が付くと、『鯛』と誤解されるからという説もあります。

ツボ鯛は、千葉県から南で獲れますが、最近は、南太平洋,ミッドウェイ沖に漁場が発見されたそうで、日本国のあちらこちらの市場に入るようです。
新千歳空港の土産物店に出ていたのは、さすがに驚きましたが…。

「『磯貝』で初めて見た」からと言って、九州,福岡の産物と、断定してはならないようです。

ツボ鯛とは反対に、その名前からして、とても『鯛』とは思えない『鯛』があります。それが、『あぶってかも』です。

『あぶってかも』は、スズメダイ科の10センチくらいの小さな魚で、これを食べる地域は、北部九州,おそらく福岡県民だけではないかと思われます。

『あぶってかも』は、産卵に入るこれから夏までが旬です。そのまま塩を振って、焼いて食べます。

なぜ『あぶってかも』なのか。

昔、博多湾にスズメダイの大群が押し寄せ、出漁に困った漁師さんが、すくっては塩漬けにし、炙って食べたのが始まりで、博多では、『バリバリかもう』を『かも』と、短く発言することから、『あぶってかも』の名が付いたと言われます。

また、スズメダイを焼く(炙る)と、鴨の味がしたからという説もあります。

『あぶってかも』は、昔話が嘘のように、今では大量には獲れない高級魚です。

鱗も骨も、そのまま焼くので、とても硬く、もともと小さい魚ですから、ほとんど食べるところはありません。

ところが、これが脂が乗って、実に美味しいのです。

近時は、博多の高級料亭御用達と聞きますが、櫛田神社近くの『馳走屋 黒川』では、山笠のころ、食べることができます。

今年もまた、『あぶってかも』の入荷を期待して、柳橋連合市場に出向くことになりそうです。

九州,特に、福岡の『鯛』は、皆よかたい!! 

九州の坂のお話です。

2010年5月15日
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福本悟は、東京都大田区に20年暮らしましたが、通学した公立小・中学校の学区域内に、『桜坂』がありました。

この桜坂が脚光を浴びたのは、福山雅治さんの名曲『桜坂』の舞台になったからではないでしょうか。

もっとも、確かに福山さんは、この『桜坂』の近くにお住まいだったと語られましたが、実は、福山さんの郷里長崎県の『桜坂』を唱ったのではないかとも言われております。

また、私が1年4ヶ月住んでいた福岡市にも、『桜坂』があります。こちらは、『坂』というよりも、高級感ただよう一つの街並と言ったほうが正しいかもしれません。

福山さんの郷里長崎県で有名な坂は、『オランダ坂』でしょう。

長崎市東山手町にある切り通しで、文久2年(1862年)、この地に、英国聖公会会堂が建設された場所です。

時は幕末,開国して、長崎の居留地から多くの西洋人が、この地を通行するようになったということです。

ところが、鎖国時代の影響が残る長崎では、出島に住むオランダ人と皆同じに見えたようで、外国人を称して、全て『オランダ人』,ここから、『オランダ坂』の名が生まれたものです。

そして、明治維新を迎えました。

『維新』と『九州』と続くとき、九州の坂として誰もが思い浮かべるのは、『田原坂』でしょう。

田原坂は、熊本県植木町にある西南戦争最大の激戦地で、雨降りしきる二週間におよぶ闘いで、政府軍、薩軍併せて1万人の戦死者を出した場所です。

この地が激戦地となったのは、北西から南東に向かって、一の坂,二の坂,三の坂となだらかにつらなる坂道が、1~2㎞続き、谷干城がこもる熊本城を目指す政府軍と、これを阻止する薩軍の生命戦だったからだと言われます。

この戦いで敗走した西郷隆盛率いる薩軍は、半年後、郷里鹿児島市の城山岩崎谷で自決し、ここに、日本国最後の内戦は、終結したのでした。

維新の偉業を成し遂げた男たちが、超えなければならないもう一つの『坂』があったのです。

さて、少し重々しい感じになりました。

日本人に最も愛された人、西郷隆盛公を輩出した鹿児島県出身の力士に、南海の黒豹こと、『若嶋津関』がおりました。

私が福岡市に住んでいたころ、若嶋津は、九州場所のヒーローでした。

大関若嶋津、現在の松ケ根親方の奥様は、同郷の元歌手高田みづえさんであることをご存知でしょうか。

最近、久し振りにテレビ放映されたお姿を見ました。すっかり『おかみさん』になっておられます。

高田みづえさんのヒット曲と言えば、『 硝子(ガラス) 坂』ですね。

九州の坂は、いつまでも、キラキラと光っています。

歴史のたられば 九州編 1

2010年5月2日
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25歳の4月、初めて東京を離れ、ブルートレイン『あさかぜ1号』で、九州入りして降り立った駅は、『博多駅』でした。

27歳になった11月、東京に戻る際、利用したのは『福岡空港』でした。

『博多』と『福岡』はどう違うの?

話し出したら、よそもんでは収拾がつかなくなりますので、この説明は、福博の方にお願いすることといたします。

さて、「・・・だったら」「・・・であれば」との関係で興味を持ったのは、那珂川を隔てて存在する『町人の町 博多』と、『武家の町 福岡』を、明治22年4月1日公布された『市制及び町村制』により、市として一体化する際に、『市名をどちらにするか』の議論の決着の仕方です。

明治23年2月、議会では、博多派が、福岡派を上廻っておりました(15対12とも、17対13とも言われております)。

ところが、運命の投票では、なぜか同数となり、議長の1票で、『福岡市』に決定されたということです。

この採決の日、博多派の議員が、議場に入らず(入れず?)、同数になってしまったというのです。

議長は、壇上を降り、一議員として、投票しました。議長は、『福岡』でした。

議長が福岡派でなければ・・・、博多派の議員が、あと一人だけ議場に入っていれば・・・。

以来、『福岡市』は、『博多市』に改変されることはありません。

ただ、福岡市が政令指定都市になった後、『博多区』ができました。

そして、JRの駅も、空港も、博多区内に存在することは、なお『博多』を印象付ける感があります。

私の周りの人間も、『福岡』ではなく、『博多』と呼ぶ者が、少なくありません。

でも、人情が厚い福博の方々には、もし、『博多市』になっていれば、JRの駅を、『福岡駅』にしたのでは?と、思ったりもします。

その場合、西鉄『福岡天神』駅は、どうなったでしょうか。これも、『たられば』の世界です。

そして、『福岡祇園山笠』。

これは、ないですかね。

山笠があるけん、博多たい。

一票の重みは、今も昔も忘れてはならないということでしょう。