福岡市の屋台が、劇的に変わるようです。でも、素直に喜べないのはなぜでしょう。

2017年1月3日

私が好きな福岡、その夜の夜の彩りとなっている屋台が大きく変わるようです。私が福岡市で暮らしてした昭和58年には、福岡市内には、250とも300とも言われる屋台が出ていました。

 

今では中洲、天神周辺と長浜にほぼ集まっている屋台ですが、あのころは荒江とか平尾、そして博多駅の裏のほうにもにもあったと思います。今ではその数150件を切ったと言われます。

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屋台は通行の邪魔、不衛生で臭い、タダ同然で商売している、また、ぽったくりがあるとか、そもそも入りにくいとか批判があることも知っています。それで数年前には、屋台は1代限りとの条例?ができて、ますます屋台の数が消えました。一方で生活のため、また、常連さんや屋台の灯を消すな!の願いから、いわゆる『名義貸し』をして、営業が続けられている屋台もありました。

そのような中で、福岡市の長となった高島宗一郎氏は、屋台を残すと言う方向で、数年間調査検討を加え、昨年秋に、屋台の営業の公募を行いました。これは違法営業とされていた屋台28軒が、今年3月で廃業するのに伴い、新たに屋台営業に参入する道をひらいて活性化させ、福岡市の屋台文化を守っていく、観光資源とする意図があると論評されていました。

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私は、何が違法営業に当たるのか知りません。屋台で生計を立てていた人にとっては、屋台の営業そのものが1つの財産権です。それが1代限りと言うのは、法的にはおかしいことだと考えます。財産は、相続されます。相続が起きなくても、年齢その他の事情で、途中で屋台から手を引く人もいるでしょう。

 

そんな人にだって将来・老後の生活はあります。『あそこにあった屋台、無くなったの?』とガッカリするファンもおられるでしょう。世の中には事の是非は別として、名義貸しもしくはそれに類する、脱法行為とも評価される営業は存在します。私も仕事柄スナックや、クラブの営業、賃貸借で何度もこの種形態を見ています。高島市長ではありませんが、1代限りとすれば、当然屋台はいずれ消滅します。 だとすると、今回の公募制喜ぶべきことでしょうか?まず賛成する立場として、これまで屋台経営に参入したくてもできなかった人たちにとって、いわば寡占状態でもあった屋台の営業ができる道が開かれたと言うことでしょう。

 

また、1代限りは撤廃され、直系血族に限り1回だけの承継が可能となったことは、ひとつ前進と言えましょうか。そしてこれまで条例では、違反に対する罰則がなかったことで、違法屋台が存続して、福岡の屋台のイメージ悪化に繋がったとの声を受け、屋台の営業ルールを厳格にし、違反を繰り返し、警告に従わない屋台はいずれ市によって営業が取り消しされることも明記されました。

 

さらに屋台が混雑する、狭いことが屋台営業の限界ともなっていることを認め、屋台のサイズや営業時間に関しても、柔軟に対応する余地を残したとされます。 このように言うと、『良いじゃない』と感じますが、福岡市民ではない私が言うのはなんだ!と批判されそうですが、素直に良いことだと言い切るものではありません。

まず、折角1代限りを外したのですから、少なくとも法定相続は認めるべきです。つまり屋台主の配偶者、子、そして孫です。もし営業を継続しない屋台があれば、市が間に入って公募を含む『営業譲渡』を認めるべきです。特に今回公募参入する屋台は、基本的に3年間の営業期間であり、仮に審査を通って『延長』が認めれても最長で10年までです。この屋台は、10年だけの命なのです。

 

私は既得権と言う言葉は好きではありませんが、今回公募で営業が認められた屋台は、その順位に従って3月に廃業する屋台のある地域から、好きな場所を選ぶことができるそうです。屋台は、屋台文化は、一朝一夕に出来上がったものではありません。そこにあった屋台がなくなった、その場所に出店した屋台に行こう!となるでしょうか。屋台どうし仲間意識がありました。それは自分たちはあるいは市民から批判されている、いつも監視されている、だからみんなで緊張感のもと、頑張って行こうと言うものだったのではないでしょうか。

 

そこに『ボン』と公募で認められて営業が開始されて来た新規店舗、他の屋台と、市民と、屋台文化にうまく溶け込めるとよいのですが。 私が高島市長の政策に素直に賛意を表せられないのは、これはもしかして屋台間に競争をさせようとの原理ありではないかと考えてしまうところにあります。屋台文化を継続と言いながら、3年とか10年で終わりと言うのは、屋台を営業する個人の目線に立った考えではありません。『期間』が過ぎたら次の人と言うのは、屋台そのものの消滅は食い止められるかもしれませんが、まさに屋台はビジネスの1つ、それのみに転換されるのではと思われます。10年で交代することがわかっていて、屋台を営業するのは、屋台は経済政策の1つと捉える資本力のある法人とかになってしまうでしょう。

良い屋台を残す姿勢がスタートにあれば、10年等初めから期間を決める意味わかりません。ここに競争に強いものが入って欲しいが見え隠れします。 今回の条例を受けて、現に営業中の屋台も、公募に応じたようであります。もっとも、市の説明では、3月に廃業しなければならない『違法営業屋台』も、公募制に応募できるとのことでしたから、これに生き残りをかけていた屋台もあったでしょう。現在名義貸し屋台を営業している方の中には、数年間ある屋台で真面目に修行し、ある屋台の営業主が、年齢等によりもう営業できないとなったとき、これを引き継いで、名義貸しにより営業をしている方がおります。

 

この屋台を知るファン、そして真面目に修行していた現在の営業主を知る人たちは、この方が引き継いでこの屋台の灯が消えなかったことを単純に喜んでいるはずです。この例に限らず、名義貸し屋台の店主は、比較的若い人が多いようです。今回の公募制で書類選考で理由と告げられず落選したある屋台、東京の新聞にも掲載されていました。彼らは露頭に迷うでしょう。知っていたのだから自己責任で片付けて良いでしょうか? 福岡市屋台基本条例の中には、市長は、屋台営業が、まちににぎわいや人々の交流の場を創出し、観光資源を発揮すると認めるときは、屋台営業候補者の公募を行うと記されています。名義貸しかどうか、あるいは競争力に耐えうるかどうかはともかくも、今回落選した方が、これに合致しないと判定される理由はわかりません。

 

 

私は観光客だとは認識していませんが、屋台を競争により消滅を回避させる政策には、素直に賛成することはできません。

 

広島市と札幌市、ここで暮らす方々が相互に観光で行くなら、とても魅力的な都市ですが。

2016年11月2日
広島東洋カープと北海道日本ハムファイターズの対戦となった今年の日本シリーズ、直線距離で1.200キロの広島市と札幌市の間の移動となり、これは過去の日本シリーズで、最長の移動距離になりました。アメリカ大リーグの移動と比較すると、驚くに値しないかもしれませんが、このことにより、様々な問題点が浮かび上がり、また、新たな発見があったとされます。


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この『ひとりごと』でも書きましたが、広島東洋カープ球団は、新千歳空港への移動に、約1.000万円かけてJALと契約し、チャーター機を用意しました。ところがもし、広島市のマツダスタジアムで、雨天順延が発生したら、今回は、移動日を設けるシステムのため、キャンセルと新たな移動方法を考案しなければならなかったのです。そして第1戦、かなりの雨模様でした。試合開始時刻をずらすなどして、ギリギリ開始にこぎつけて、関係者は安堵されたとのことでした。雨の試合で、日本ハムファイターズの二刀流、大谷翔平投手が、本来のピッチングができていないことばかりが報道されていた表舞台でした。

この日本シリーズ、全てがナイターでした。唯一午後6時試合開始の札幌ドームでの第6戦、3時間23分の熱戦となりました。翌日は移動日ですが、マツダスタジアムでの練習があるため、午前9時には、新千歳空港を出る必要があり、選手もたいへんですが、報道陣や関係者は、新千歳広島間の直行便が少ないため、朝早くから東京羽田乗り換え等てんやわんやだったようです。NPBのコミッショナー、札幌ではラーメン1杯、広島ではホテルに戻ったら食事するところはなかったなんて『苦労』を言っていました。こうしてみると、日頃移動に慣れているパリーグのチームは、落ち着いていたかもしれません。


パリーグには、札幌市と福岡市を本拠地とするチームがあります。仙台市を本拠地とするチームも、関東圏以外は、空路での移動でしょう。これはシーズン中しょっちゅうあることでしょう。ところで島東洋カープは、シーズン中は、新幹線での移動だそうです。それには、広島空港の位置が関っていると思います。広島空港、かつては広島湾に面した西広島にありました。それが市街地を離れて、ジャンボ機も滑走できる新空港を建設することになり、現在の三原市に移ったのでした。三原は、新幹線停車駅ですが、空港のある場所は、もともと本郷町でした。平成の大合併で、三原市に組み込まれたのですが、ホント山の中です。空港のすぐ近くまで高速道路が来ていますが、それでも広島市街地から1時間近くかかります。不便なのです。


以前セリーグのある球団が、新潟市での地方試合を行い、広島に移動する際に、新潟空港から福岡空港まで行き、新幹線で広島駅まで来たと言う話が残されています。福岡空港からJR博多駅までは2駅5分ですから、私もベストのやり方だと思います。福岡ソフトバンクホークスは、福岡空港を利用しますから、距離はともかく、移動時間を苦にしないでしょう。セリーグは、全球団が『本州』にあります。しかしいちばん西のチーム、広島東洋カープは、かなり不便な位置にあるがゆえに、日頃利用しない空港を使うことになる点で、スタッフ関係者は、苦労があったと想像されるのです。


広島空港は、私は何回も利用しました。着陸寸前まで、山また山で、山にぶつかると思っていたら、滑走路があったと言う感覚です。広島空港を貶めるつもりは毛頭ありません。空港が市街地にあることの功罪は、つとに指摘されるところです。ある人が言っていたのは、ツアー団体客は、広島空港を利用させるべきであり、それはビジネス客の増加を見込まれないからだと言う理由でした。


いつでもなんでも福岡で申し訳ないのですが、福岡の経済が発展するのは、空港が市街地にあることに、少なくない影響があることは否定できないと言われます。プロ野球界では、おそらく広島東洋カープと北海道日本ハムファイターズの対戦が、いちばん移動に気を使う対戦となるでしょう。たとえば、日本シリーズ基金のようなものを設けておき、両チームや関係者を合わせてチャーター機で移動させる、いわば呉越同舟なんていかがでしょうか?返って落ち着きませんか。ハラハラしながら裏方さんたちは、この日本シリーズを支えていたことを知りました。


ここでも広島東洋カープと北海道日本ハムファイターズの関係者の皆さんに、あっぱれと申し上げたいです。

 

福本悟が最も気になる7月15日が今年もやってまいりました。

2016年7月14日
7月15日は、博多祇園山笠の最終日、クライマックスである追い山が行われる日です。7月15日と聞いてこれを直ぐに挙げる人は、福岡博多に関係する人、また、『山のぼせ』と言われる人たちです。

博多で大きな盛り上がりを見せていたこの日、1960年7月15日は、岸信介内閣が、総辞職した日でもあります。60年安保に反対するデモ隊が国会に乱入し、当時東京大学に在学中の女子学生が亡くなったあの事件です。

あれから56年、岸信介氏の孫安倍晋三氏は、磐石な政権を確立し、憲法改正を成し得る力を獲得しました。岸信介氏の念願、自らがA級戦犯とされた先の大戦の総括をし、『戦後レジームからの脱却』の到達点日本国憲法の破棄は、安倍晋三氏によりもはや達成目前のところまで来ました。1960年当時は、学生や組合等の組織による抵抗がその大半でした。しかし昨年あたりから声を上げ、まとまりを見せた市民連合、そしてこれに押されてひとつになった野党連合等どこ吹く風、安倍晋三氏には向かうところ敵なしの様相です。

昔と今とを結びつける何かがあるのでしょうか。同じ7月15日に、引き継がれたものがあるようです。1949年7月15日、いわゆる三鷹事件が起きました。これは無人電車が暴走して死傷者が出た事件で、同じころに起きた下山事件、松川事件とともに当時の国鉄に絡んだ謎で、共産党関係者に嫌疑がかけられましたが、いずれも無罪もしくは迷宮入りしています。三鷹事件は、後に被告人の無罪が確定するのですが、1983年7月15日には、いわゆる免田事件で、免田栄氏が、再審を行った熊本地裁八代支部で、死刑となった確定判決を取り消し、無罪判決を受けた日でもあります。

なんか明るくないことばかりではないかと指摘されそうです。

でも、元気を貰える話題もあります。今ちょっとした時の人となっている小池百合子前衆議院議員は、1952年のこの日、お生まれになりました。読売巨人軍と阪神タイガースの前身となる東京巨人軍と大阪タイガースが初対戦したのは、1936年のことでした。また、スポーツ選手で7月15日生まれの方は、結構おられるようです。


『アビスパ福岡』を応援する私は、いくらかサッカー選手を知っているつもりですが、元日本代表の主将柱谷哲二氏、現在の日本代表武藤嘉紀氏は、この日誕生日です。私と同世代、学生時代の箱根駅伝、そして福岡で司法修習中の私に、福岡国際マラソンで強烈なインパクトを残した瀬古利彦氏もまた、7月15日生まれだそうです。医学的に根拠があるのかどうか知りませんが、夏に生まれた子どもは、体力があると言った人がおりました。
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7月15日は、ほとんど日本国内は梅雨の最中、特に大雨となるときでもあります。今年もまたその傾向が続きそうです。既に梅雨前線と湿った空気の影響で、九州には活発な雨雲がかかっています。長崎県対馬市では、50年ぶりと言う大雨記録を塗り替えてしまったようです。

引き続き北部九州では、大雨の警戒が必要です。博多祇園山笠はいつも雨、特に追い山ではほとんど雨の記憶です。でも、勢い水と言う水を沿道からぶっかけられますから、雨かどうかはあまり関係ないのです。

このところ鬱陶しい、あまり嬉しくない話題が多いと感じるのは梅雨だからでしょうか。

でも、どなたかが仰っていました。夜明け前がいちばん暗い。これから日本の夜明けを迎えることを信じたいです。その兆しは、ほんの少し、微かに現れていると思います。鹿児島県では、脱原発知事が生まれました。これは川内原発の再稼働を決めた政治に対する抵抗です。辺野古沖移設問題に翻弄される沖縄県では、先の参議院議員選挙で、沖縄県選出の沖縄北方担当大臣は落選しました。また、岩手、宮城、福島では、与党は議席を獲得できませんでした。


言うまでもなくこの3県は、東日本大震災で大きな被害を受け、復興が望まれる地域です。これは、政治の世界が、苦しい方々の痛みがわかっていない、何が〇〇〇ミクスだ!でしょう。そしてまた、我々日本人は、本当に辛い思いをしている方々、弱者と言われる方々に、目を向けてきたのか問われることだ思います。自分がそんな状態に至らない限り、他人事であってはなりません。このことを気づかせた参議院議員選挙でもありました。夜明け前と思いたいです。

私は、雨上がりの街が好きです。


実のところ完璧な雨男なので、なにをいうか!ではあります。雨は嫌なものを流してくれます。雨上がりの街は、潤いを増して元気を齎します。7月15日博多祇園山笠の追い山が終わると、暑~い夏がやってきます。首都圏では水不足が心配されています。水がなければ生きていけません。

しかし水も時には人間にとって脅威となります。雨と水、そして潤いを国民にと願い、過去の、日本の7月15日を想うひとりごとであります。

 

今年のパワースポット宇佐神宮をご案内します。

2016年7月13日
今年伊勢志摩サミットが行われました。

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サミット開催国として議長を務める安倍晋三内閣総理大臣は、これに先立ち、伊勢神宮を参拝されました。伊勢神宮は、日本の皇室の氏神とされ、古代は、天皇家のみが参拝を許されるなど、明治から戦前までは、全ての神社の上に立つ社格外の神社とされ、戦後佐藤栄作氏以降の内閣総理大臣は、正月仕事始めにここを詣でる慣わしです。その伊勢神宮、昨年式年遷宮が20年ぶりになされました。神様がお移りになり、パワースポットとなりました。その翌年から、『おかげ年』と言って、特別な恩恵を神様から
授けていただけると言われますね。

今年のパワースポットとして注目されているのは、宇佐神宮です。実は宇佐神宮、昨年74年ぶりに『本殿遷座祭』という特別な神事が行われました。つまり遷宮が行われたことを意味し、本殿の取り壊しこそしないものの、塗り替えや修繕が行われ、外観もきれいに直されたのでした。それと昨年は、10年に一度の勅使祭も行われています。これは、天皇の使いが派遣されて行われる祭祀で、パワーが漲っているのです。
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宇佐神宮は、伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟として、皇室からも崇敬される神社です。

また、全国に4万社ある八幡宮の総本宮です。宗廟とは、ご先祖様を祭る場所の意味ですが、伊勢神宮が、天照大神を祭るように、宇佐神宮も、天皇家に繋がる神様を祀っているのです。宇佐神宮のご祭神は3体おられ、一の御殿には八幡大神、二の御殿には比売大神、三の御殿には神功皇后を祭神として、上宮と下宮の両方に祀られているのです。伊勢神宮ならば、内宮と下宮です。 八幡大神は、応神天皇の御霊ともされています。

史実としては、確実に実在する天皇は、応神天皇以降とされる学説が有力ですが、母神功皇后が、応神天皇を胎内に宿した状態で、筑紫国から朝鮮半島に渡って新羅を降伏させたとの逸話から、弓矢にたけた神様で、勝負事賭け事にご利益があると言われます。比売大神は、以前この『ひとりごと』でもお話したかと思いますが、福岡県にある宗像大社の三女神の三柱とされ、縁結びや安産の神とされます。神功皇后は、先のとおり応神天皇を宿して戦ったとされるように、女性を守る神として、崇めれているのです。 宇佐神宮の特徴は、全国では出雲大社とここだけとされる参拝方式があります。

それは、二礼、四拍手、一礼です。一の御殿からお詣りし、必ず上宮下宮両方に参拝しなければならないのです。神功皇后、応神天皇そして宗像三女神もまた、大陸と大きな関わりを持ちました。応神天皇は、大陸文化を広めて国を治めたとされ、神格化された天皇です。八幡大神から、武士の世界では、八幡大菩薩すなわち神仏晋合の崇拝が行われるようになっていくのですが、この宇佐神宮が、その発祥の地とも言われているのです。 

さて、パワーアップした宇佐神宮、私は、ある事に気付きました。先のとおり昨年は、天皇の勅使が見えられたものですが、昨年から今年にかけて、合計4回お見えになっています。皇室のこ祭神として、古くから続いているそれはひとつの儀式なのかもしれません。 でも、お優しい今上陛下は、国民の幸せのため、強い思いを込めれて、日本の神々に拝み奉ったのではないでしょうか。憚りながら、そんなふうに考えてしまいました。

 昨年陛下は、終戦の日でも、天皇誕生日でも、国民を思い、明らかに日本の舵取りの進む方向に、危惧の念をお持ちであることがわかるお言葉を、述べられておりました。私たちは、天皇陛下の御心を報じ奉り、為政者が憲法を守り、国民のための政治を行うよう、強く監視しなければなりません。

伊勢神宮と同様、昨年大きな節目を迎えた宇佐神宮、私は、パワーをいただくとともに、実在が確認された最初の天皇とされる応神天皇を祀られるこの地に、日本に生まれた者として、一度は来てみたいと思っていたのです。それは、平和が続くことを願ってであります。 

伊勢神宮は、天照大神がご祭神で、日本の歴史、神話のスタートの地であります。今年そこに行かずして、宇佐神宮に来たのは、誰かさんがサミットの前に参拝したからだなんて、ケチな了見ではありません。第二の宗廟宇佐神宮、こちらもパワー溢れるご利益豊かな日本のご祭神であります。さて、ここで何を祈願して来たかですって。

それはヒミツです。

真田幸村も、五代友厚も、出身地とは違う場所で活躍し、慕われています。

2016年6月27日
人気が続くNHK大河ドラマ『真田丸』は、天下統一を果たした豊臣秀吉の近くにいる真田幸村こと信繁を描いております。

織田信長を苦しめた石山本願寺があったとされる土地に築造されたのが大阪城です。豊臣秀吉は、大阪を中心に政務を摂ることになります。大阪は、御所のある京都、そして商都堺にも近いことも、この場所を大きな街にした理由になるのでしょう。

大阪城と言えば豊臣秀吉を思い出すでしょう。

ちなみに、私は、大阪城天守閣には、入ったことはありません。大阪家庭裁判所からは、歩いてすぐの位置にあるので、敷地内を通行したことはあります。でも、豊臣秀吉が好きではないからなのか、お城には、上がっていないのです。井伊直弼の彦根城、松平容保の会津鶴ヶ城には、上がっています。関東の人間ですが、徳川幕府贔屓ではありません。ちなみに、『大阪城ホール』には何回か行きました。コブクロのライブです。

『真田丸』とは、真田幸村が、大阪城攻防戦の折築いた出城です。関ヶ原を契機に、いったん大阪からも、表舞台からも離れる真田幸村ですが、豊臣秀頼に恩義を感じ、また、父真田昌幸以来の宿敵徳川家康を倒すため、大坂の陣に参陣します。信州上田とともに、大阪は、真田幸村ファンには、ぜひ訪ねてみたい場所です。真田幸村が、出身地とともに、活躍の場、大阪の人となったように、大阪で活躍した人と言えば、すぐに名が挙がる方がいるでしょう。記憶に新しいNHK朝ドラ『あさが来た』の『五代様』こと五代友厚さんです。

五代友厚さん、五代さまは、江戸末期から明治中期を生きた元薩摩藩士で、維新後は実業家、大阪経済を立て直した大阪経済人の重鎮のひとりとされます。五代さまは、薩摩藩時代、つまり幕末までと、大阪時代、つまり明治維新後と、活躍の場、その役割功績は、分けて考えるでしょう。

10代で、藩主名君島津斉彬公より、世界地図の模写をさせられ、ついで当時国内では、いちばん世界に近いと言われた長崎に出向いて海軍伝習所に入所、上海留学時には、高杉晋作と出会い、そのころから開国論に転じました。生麦事件に端を発した薩英戦争では敵視されてしばらく薩摩を離れ、慶応元年に、薩摩藩遣英使節としてイギリスに出発、欧州諸国を見て学び、これが後の五代さまの礎になったことは間違いありません。

帰国後は、倒幕運動に加わり、大久保利通の信任厚く、参与事務外国掛となって大阪に赴任したことが、五代友厚大阪物語の始まりとなります。

その後の五代さまの大阪での活躍、尽力と、大阪の人々から向けられた敬慕の念等は、『あさが来た』で、もうわかりきっています。ここでは、省略します。大阪証券取引所、大阪商工会議所、大阪商船や南海電気鉄道の設立にも影響を与えました。

先日鹿児島出張の機会に、鹿児島市内の朝日通りにある五代友厚像を写メしました。そして、今日の大阪出張を利用して、大阪市内に3つあると言われる五代さまの銅像のうち2つを、写メしてまいりました。
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ひとつは、大阪取引所前に聳え立つ高さ7.6メートルの銅像です。大阪の街、巨大な商業都市を見据えるスケールでした。五代友厚が、大阪の人々に愛されていたことがわかるというものです。もう一つ、それはすぐ近く、土佐堀川を挟んだ対岸は、中之島を挟んで大阪の裁判所になるある証券会社の入り口にありました。こちらは、ヨーロッパに行ったころの20代の五代さまらしく、イケメンですね。あと一つは、大阪商工会議所前にあるそうですが、時間がなくて行きませんでした。でも、なんで五代さまを追いかけるのか、自分でもやっていることが、理解できていません。

五代友厚も、真田幸村と同じ、出身地ではない場所で花を咲かせ、慕われていたのです。先日の真田丸、徳川家康の力を恐れた豊臣秀吉が、家康には、三河を返上させ、旧北条領となる関東へ追いやったところがさりげなく出ていました。

曰く、「江戸もよいところ」。こうして江戸が、やがて東京ができました。「なにわのことは夢のまた夢」だった秀吉のころ栄えた大阪、その後徳川の世となり、明治には、東京遷都となって、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」の大阪経済を立て直し、今日の大阪を作ったのは、五代友厚でした。その土地に根付いた人により、街の発展はなされるとは限らないと知る契機となりました。

さて、東京。その土地の恩人って誰?考えたことなかったです。太田道灌、徳川家康、西郷隆盛と勝海舟、最近では、石原慎太郎氏や舛添要一氏となるんでしょうか?五代さまの前で、つまらないことを?を考えてしまいました。
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