九州の坂のお話です。

2010年5月15日
テーマ 

福本悟は、東京都大田区に20年暮らしましたが、通学した公立小・中学校の学区域内に、『桜坂』がありました。

この桜坂が脚光を浴びたのは、福山雅治さんの名曲『桜坂』の舞台になったからではないでしょうか。

もっとも、確かに福山さんは、この『桜坂』の近くにお住まいだったと語られましたが、実は、福山さんの郷里長崎県の『桜坂』を唱ったのではないかとも言われております。

また、私が1年4ヶ月住んでいた福岡市にも、『桜坂』があります。こちらは、『坂』というよりも、高級感ただよう一つの街並と言ったほうが正しいかもしれません。

福山さんの郷里長崎県で有名な坂は、『オランダ坂』でしょう。

長崎市東山手町にある切り通しで、文久2年(1862年)、この地に、英国聖公会会堂が建設された場所です。

時は幕末,開国して、長崎の居留地から多くの西洋人が、この地を通行するようになったということです。

ところが、鎖国時代の影響が残る長崎では、出島に住むオランダ人と皆同じに見えたようで、外国人を称して、全て『オランダ人』,ここから、『オランダ坂』の名が生まれたものです。

そして、明治維新を迎えました。

『維新』と『九州』と続くとき、九州の坂として誰もが思い浮かべるのは、『田原坂』でしょう。

田原坂は、熊本県植木町にある西南戦争最大の激戦地で、雨降りしきる二週間におよぶ闘いで、政府軍、薩軍併せて1万人の戦死者を出した場所です。

この地が激戦地となったのは、北西から南東に向かって、一の坂,二の坂,三の坂となだらかにつらなる坂道が、1~2㎞続き、谷干城がこもる熊本城を目指す政府軍と、これを阻止する薩軍の生命戦だったからだと言われます。

この戦いで敗走した西郷隆盛率いる薩軍は、半年後、郷里鹿児島市の城山岩崎谷で自決し、ここに、日本国最後の内戦は、終結したのでした。

維新の偉業を成し遂げた男たちが、超えなければならないもう一つの『坂』があったのです。

さて、少し重々しい感じになりました。

日本人に最も愛された人、西郷隆盛公を輩出した鹿児島県出身の力士に、南海の黒豹こと、『若嶋津関』がおりました。

私が福岡市に住んでいたころ、若嶋津は、九州場所のヒーローでした。

大関若嶋津、現在の松ケ根親方の奥様は、同郷の元歌手高田みづえさんであることをご存知でしょうか。

最近、久し振りにテレビ放映されたお姿を見ました。すっかり『おかみさん』になっておられます。

高田みづえさんのヒット曲と言えば、『 硝子(ガラス) 坂』ですね。

九州の坂は、いつまでも、キラキラと光っています。