山笠まで、我慢できずに…

2010年6月14日
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いつも『よかとこ九州』をご覧いただき、また、『きさらぎ法律事務所』をご愛顧くださり、誠に有難うございます。

このところ『よかとこ九州』は、いささか重い,硬いお話となってしまったようです。

現在6月、もうすぐ、『博多祇園山笠』が始まる7月1日が到来します。

もちろん、7月1日の『飾り山』の登場から、7月15日午前4時59分、櫛田神社から出発する『追い山』までの間のいずれかの日に、福岡に参ります。旬の食べ物も、待ち遠しいのです。

でも、待ち切れず、先日、柳橋連合市場から、旬の鮮魚を送ってもらいました。毎回、仲西商店さんには、お世話になっています。

白身のこち,地物のあじ等に加え、『よかとこ九州』でもご案内した『あげまき』もありました。

海水に浸したまま送ってもらえますので、到着して開封したときは、もちろん、貝は生きています。

砂も出していますので、すぐに焼いて食べました。グラム単価の買い物ですが、1個の単価は、100円台です。

それと、今年最初の『唐津のうに』も食べました。
絶品ですね。言葉は要りません。

どうぞ九州,福岡へ、旬の鮮魚をお試しにお越しください。

歴史のたられば 九州編 3

2010年6月12日
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きさらぎ法律事務所は、弁護士福本悟が執務するところです。

このあたりで、少し法律について、話題を提供させてください。

もちろん、『九州とのご縁』ということで。

さて、法学部に進学した大学生が、日本法制史で最初に学ぶ人物は、佐賀藩出身の江藤新平でしょう。

江藤新平は、幕末ぎりぎり、すなわち、大政奉還直後に、歴史に登場する人物ですが、明治7年(1874年)4月13日、40歳の生涯を遂げるまで、このわずか7年間に、明治新政府の官吏として、また、自由民権運動,司法権の独立,法典の整備・編纂,警察制度の確立等、多くの国の根幹を構築し、民の権利の高揚に努めた賢人です。

江戸城無血開城は、西郷隆盛,勝海舟の会談で決したものですが、実は、江戸こそ、新生日本の中心となるべきと、西郷ら官軍を説得した人物がおります。

それは、江藤新平です。

そして、『江戸』を、『東京』と改称するよう岩倉具視に進言したのも、江藤新平です。

江藤新平がいなければ、江戸は、戦火にまみれ、『東京』と呼ばれることも、日本の首都になることも、なかったのです。

彼の先見性は、司法の分野に発揮されます。

明治5年(1872年)、司法卿(現在の法務大臣)に任命された江藤新平は、いち早く、欧米の三権分立の考え方を披歴し、警察制度の整備・確立,民法等の国の法典の編纂に着手,裁判所を建設し、四民平等を説きました。

ただ、進歩的な江藤の考えは、『司法は行政の一部』と捉える大久保利通ら、政府首脳に煙たがられ、いわゆる征韓論に端を発した明治6年(1873年)の政変で、自由民権運動のため下野した江藤は、非業の死を遂げるのでした。

明治7年(1874年)に勃発した佐賀の乱の首謀者として、政府から追われた江藤は、自ら創立した警察制度の写真手配により、捕縛第1号となって、郷里佐賀に送られます。佐賀には、急遽造られた『佐賀裁判所』があったからです。

江藤新平は、東京で、独立した裁判手続のもと、自らの主張を述べたかったに違いありません。

明治政府は、司法・行政・軍事の全ての権限を集中させ、わずか5日の後、江藤に対し、死刑判決を出させ、即日処刑したのです。

しかも、江藤の法典にはない、『さらし首』の刑でした。

江藤新平が、判決の際、「裁判長、私は、」と言って立ち上がろうとした姿は、よく歴史ドラマに出てくる場面です。

江藤新平は、下野後、憲法草案を起草中だったと言われます。彼の意図した『憲法』は、日の目を浴びることはありませんでした。

江藤新平が生きていれば、いち早く、自由と平等に根差した『憲法』が生まれた可能性があるのでは、と思っています。

それでも、明治22年(1889年)、大日本帝国憲法が発布された折、江藤新平は、大赦令により、賊名が解かれ、大正15年(1916年)、正四位が贈られ、名誉の回復を得ました。

現行民法は、明治29年(1896年)4月27日、法律第89号を初として制定されましたが、私権・契約等、明治初期に、江藤が取り入れた思想を基本として、構成されているものです。

ところで、大久保利通が、なぜ政府へ登庁する際、紀尾井坂を通過するのか(彼の家からは、遠回りになる)について、逸話があるのをご存知でしょうか。

江藤新平没後、弟江藤源作が、仇敵大久保利通を一目見ようと、登庁途中に待ち伏せしたところ、大久保は、その姿に、――江藤新平の亡霊が出たと思って、――仰天し、以来、紀尾井坂経由に変えたというのです。

大久保利通もまた、紀尾井坂で、無念の死を遂げました。

法律に縁を持ち、『東京』で仕事ができること、そして、『九州』を、多くの方にご案内できることは、先人江藤新平に、感謝しなければなりません。

歴史のたられば 九州編 2

2010年6月7日
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『我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば 煙は薄し 桜島山』

鹿児島の象徴、桜島を詠ったこの作者は、幕末の勤王の志士,筑前(福岡)藩士平野國臣です。

天下分け目の関ヶ原で、東軍に味方して功をなした黒田家は、基本的に左幕派で、幕末維新では、福岡は、パッとしない(失礼!)感がありました。

しかし、高杉晋作を庇護した野村望東尼とともに、平野國臣こそ、維新の三傑の一人、西郷隆盛の命を救った,すなわち、明治維新の影の功労者なのです。

平野國臣は、漢学,国学に長け、剣豪でもある一方で、風流を好む詩人・歌人でありました。

西郷隆盛が、大恩ある島津斉彬公が急死して、国父,副城公島津久光に疎まれ、二度にわたって流刑に処せられたことは、よく知られております。

その1回目の島流しの原因となったのは、斉彬の命を受け、京で朝廷工作をした折、世話になった勤王僧月照を、捕縛から免れさせ、薩摩へ連れ帰った『事件』がこれです。

安政5(1858)年11月、西郷は、薩摩へ帰還する際、筑前福岡で、平野國臣に月照を託し、自らは先に帰国し、薩摩藩として、月照の庇護を求めました。

平野國臣は、変装して月照を連れ、関所をくぐり抜け、なんとか薩摩入りし、西郷と再会を果たします。

西郷が、いかに平野を信頼していたか、また、平野が、いかに義侠心厚い人物であったかを示すエピソードです。

ところが、藩主が変わり、薩論が変わった薩摩では、西郷の願いを聞き入れないどころか、月照を殺すよう、西郷に示唆したのです。

信を貫き、人を愛する西郷は、月照を殺すことなどできません。

前途を絶望した西郷は、平野と月照を連れて、月夜の錦江湾に船を出し、月照を抱えて、入水自殺を敢行したのです。

このとき、風流人平野は、西郷の真意を知っていたのか、船上で、哀しい笛を奏でたとされています。

しかし、平野國臣は、西郷らを死なせるわけにはいかないのです。

やがて二人を助け上げ、救命措置を執り続けた結果、西郷隆盛だけは、蘇生したのです。

そして、西郷隆盛は、『死んだ』ことにして、奄美大島へ、流刑となりました。

すなわち、もし、あの日、平野國臣が、その場にいなかったら、そして、懸命な救命措置を執らなかったならば、西郷隆盛は、死んでいたのです。

せごどんが、歴史の表舞台に顕れないどころか、明治維新そのものが成ったのか、どうでありましょう。

平野國臣は、その後も、左幕色強い福岡藩から追われ、公武合体を進める島津久光にも嫌われて薩摩入りもできず、このとき歌ったのが、冒頭の『燃ゆる思ひ』の詩とされます。

結局、平野國臣は、文久3(1863)年8月18日に起きた政変により、活動の場がなくなり、同年10月、生野の乱を起こしたとして、幕府によって捕縛され、京の六角獄舎につながれ、罪状定まらぬまま、元治元年(1864年)7月、いわゆる禁門の変を発端にして、京都所司代の命により、獄中で、斬殺されたのです。

享年37歳、志半ばの早すぎる生涯でした。

さて、明治3年、福岡藩主黒田長薄氏により、京都霊山護国神社に御霊を祀られ、明治24(1891)年、政府より、正四位が贈られ、ここに、志士平野國臣は、その偉業を称えられ、名誉の回復を得たものでした。

西郷隆盛が、明治政府に対し、『政府に質す筋 これあり』として、蜂起を決意した際、私学校の生徒らを連れて、鹿児島市城山より、桜島を臨んだ際、

『平野國臣どんは、まっこと良き歌を詠った』

と、弟子らに語ったと言われています。

志を持つ人間は、途半ばであっても、後世に名を残すことでしょう。

平野國臣といえば、『桜島の歌』で、有名です。

と同時に、あるいはそれ以上に、『西郷を蘇生させた人』,『この人なくして、明治はなかった』ことを知っていただきたいものです。

長くなりましたが、これこそ、九州が生んだメガトン級の『たられば』と思われます。

福岡市中央区地行(現:今川1丁目)の彼の生誕地には、ひっそりと、『平野神社』が建立されております。


《平野神社解説》

《平野神社入口》

『君が代の 安けかりせば かねてより 身は花守と なりてんものを』

平野神社境内に、『皇太子殿下御降誕祈念』の石碑を見つけました。


《『皇太子殿下御降誕祈念』の石碑》

《石碑(平野國臣歌)》

現在の日本,九州,福岡を、平野國臣先生は、どのように思っておられるでしょうか。