歴史のたられば 九州編 2

2010年6月7日
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『我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば 煙は薄し 桜島山』

鹿児島の象徴、桜島を詠ったこの作者は、幕末の勤王の志士,筑前(福岡)藩士平野國臣です。

天下分け目の関ヶ原で、東軍に味方して功をなした黒田家は、基本的に左幕派で、幕末維新では、福岡は、パッとしない(失礼!)感がありました。

しかし、高杉晋作を庇護した野村望東尼とともに、平野國臣こそ、維新の三傑の一人、西郷隆盛の命を救った,すなわち、明治維新の影の功労者なのです。

平野國臣は、漢学,国学に長け、剣豪でもある一方で、風流を好む詩人・歌人でありました。

西郷隆盛が、大恩ある島津斉彬公が急死して、国父,副城公島津久光に疎まれ、二度にわたって流刑に処せられたことは、よく知られております。

その1回目の島流しの原因となったのは、斉彬の命を受け、京で朝廷工作をした折、世話になった勤王僧月照を、捕縛から免れさせ、薩摩へ連れ帰った『事件』がこれです。

安政5(1858)年11月、西郷は、薩摩へ帰還する際、筑前福岡で、平野國臣に月照を託し、自らは先に帰国し、薩摩藩として、月照の庇護を求めました。

平野國臣は、変装して月照を連れ、関所をくぐり抜け、なんとか薩摩入りし、西郷と再会を果たします。

西郷が、いかに平野を信頼していたか、また、平野が、いかに義侠心厚い人物であったかを示すエピソードです。

ところが、藩主が変わり、薩論が変わった薩摩では、西郷の願いを聞き入れないどころか、月照を殺すよう、西郷に示唆したのです。

信を貫き、人を愛する西郷は、月照を殺すことなどできません。

前途を絶望した西郷は、平野と月照を連れて、月夜の錦江湾に船を出し、月照を抱えて、入水自殺を敢行したのです。

このとき、風流人平野は、西郷の真意を知っていたのか、船上で、哀しい笛を奏でたとされています。

しかし、平野國臣は、西郷らを死なせるわけにはいかないのです。

やがて二人を助け上げ、救命措置を執り続けた結果、西郷隆盛だけは、蘇生したのです。

そして、西郷隆盛は、『死んだ』ことにして、奄美大島へ、流刑となりました。

すなわち、もし、あの日、平野國臣が、その場にいなかったら、そして、懸命な救命措置を執らなかったならば、西郷隆盛は、死んでいたのです。

せごどんが、歴史の表舞台に顕れないどころか、明治維新そのものが成ったのか、どうでありましょう。

平野國臣は、その後も、左幕色強い福岡藩から追われ、公武合体を進める島津久光にも嫌われて薩摩入りもできず、このとき歌ったのが、冒頭の『燃ゆる思ひ』の詩とされます。

結局、平野國臣は、文久3(1863)年8月18日に起きた政変により、活動の場がなくなり、同年10月、生野の乱を起こしたとして、幕府によって捕縛され、京の六角獄舎につながれ、罪状定まらぬまま、元治元年(1864年)7月、いわゆる禁門の変を発端にして、京都所司代の命により、獄中で、斬殺されたのです。

享年37歳、志半ばの早すぎる生涯でした。

さて、明治3年、福岡藩主黒田長薄氏により、京都霊山護国神社に御霊を祀られ、明治24(1891)年、政府より、正四位が贈られ、ここに、志士平野國臣は、その偉業を称えられ、名誉の回復を得たものでした。

西郷隆盛が、明治政府に対し、『政府に質す筋 これあり』として、蜂起を決意した際、私学校の生徒らを連れて、鹿児島市城山より、桜島を臨んだ際、

『平野國臣どんは、まっこと良き歌を詠った』

と、弟子らに語ったと言われています。

志を持つ人間は、途半ばであっても、後世に名を残すことでしょう。

平野國臣といえば、『桜島の歌』で、有名です。

と同時に、あるいはそれ以上に、『西郷を蘇生させた人』,『この人なくして、明治はなかった』ことを知っていただきたいものです。

長くなりましたが、これこそ、九州が生んだメガトン級の『たられば』と思われます。

福岡市中央区地行(現:今川1丁目)の彼の生誕地には、ひっそりと、『平野神社』が建立されております。


《平野神社解説》

《平野神社入口》

『君が代の 安けかりせば かねてより 身は花守と なりてんものを』

平野神社境内に、『皇太子殿下御降誕祈念』の石碑を見つけました。


《『皇太子殿下御降誕祈念』の石碑》

《石碑(平野國臣歌)》

現在の日本,九州,福岡を、平野國臣先生は、どのように思っておられるでしょうか。