きさらぎ法律事務所は、弁護士福本悟が執務するところです。
このあたりで、少し法律について、話題を提供させてください。
もちろん、『九州とのご縁』ということで。
さて、法学部に進学した大学生が、日本法制史で最初に学ぶ人物は、佐賀藩出身の江藤新平でしょう。
江藤新平は、幕末ぎりぎり、すなわち、大政奉還直後に、歴史に登場する人物ですが、明治7年(1874年)4月13日、40歳の生涯を遂げるまで、このわずか7年間に、明治新政府の官吏として、また、自由民権運動,司法権の独立,法典の整備・編纂,警察制度の確立等、多くの国の根幹を構築し、民の権利の高揚に努めた賢人です。
江戸城無血開城は、西郷隆盛,勝海舟の会談で決したものですが、実は、江戸こそ、新生日本の中心となるべきと、西郷ら官軍を説得した人物がおります。
それは、江藤新平です。
そして、『江戸』を、『東京』と改称するよう岩倉具視に進言したのも、江藤新平です。
江藤新平がいなければ、江戸は、戦火にまみれ、『東京』と呼ばれることも、日本の首都になることも、なかったのです。
彼の先見性は、司法の分野に発揮されます。
明治5年(1872年)、司法卿(現在の法務大臣)に任命された江藤新平は、いち早く、欧米の三権分立の考え方を披歴し、警察制度の整備・確立,民法等の国の法典の編纂に着手,裁判所を建設し、四民平等を説きました。
ただ、進歩的な江藤の考えは、『司法は行政の一部』と捉える大久保利通ら、政府首脳に煙たがられ、いわゆる征韓論に端を発した明治6年(1873年)の政変で、自由民権運動のため下野した江藤は、非業の死を遂げるのでした。
明治7年(1874年)に勃発した佐賀の乱の首謀者として、政府から追われた江藤は、自ら創立した警察制度の写真手配により、捕縛第1号となって、郷里佐賀に送られます。佐賀には、急遽造られた『佐賀裁判所』があったからです。
江藤新平は、東京で、独立した裁判手続のもと、自らの主張を述べたかったに違いありません。
明治政府は、司法・行政・軍事の全ての権限を集中させ、わずか5日の後、江藤に対し、死刑判決を出させ、即日処刑したのです。
しかも、江藤の法典にはない、『さらし首』の刑でした。
江藤新平が、判決の際、「裁判長、私は、」と言って立ち上がろうとした姿は、よく歴史ドラマに出てくる場面です。
江藤新平は、下野後、憲法草案を起草中だったと言われます。彼の意図した『憲法』は、日の目を浴びることはありませんでした。
江藤新平が生きていれば、いち早く、自由と平等に根差した『憲法』が生まれた可能性があるのでは、と思っています。
それでも、明治22年(1889年)、大日本帝国憲法が発布された折、江藤新平は、大赦令により、賊名が解かれ、大正15年(1916年)、正四位が贈られ、名誉の回復を得ました。
現行民法は、明治29年(1896年)4月27日、法律第89号を初として制定されましたが、私権・契約等、明治初期に、江藤が取り入れた思想を基本として、構成されているものです。
ところで、大久保利通が、なぜ政府へ登庁する際、紀尾井坂を通過するのか(彼の家からは、遠回りになる)について、逸話があるのをご存知でしょうか。
江藤新平没後、弟江藤源作が、仇敵大久保利通を一目見ようと、登庁途中に待ち伏せしたところ、大久保は、その姿に、――江藤新平の亡霊が出たと思って、――仰天し、以来、紀尾井坂経由に変えたというのです。
大久保利通もまた、紀尾井坂で、無念の死を遂げました。
法律に縁を持ち、『東京』で仕事ができること、そして、『九州』を、多くの方にご案内できることは、先人江藤新平に、感謝しなければなりません。