日曜日の夜8時から、大河ドラマ「軍師官兵衛」があります。
黒田官兵衛考高は、筑前福岡52万石の藩祖黒田長政の父で、豊臣秀吉の天下取りを成し遂げさせた人物と言われます。
ドラマでは、いよいよ黒田如水登場となりました。
歴史好きな私にとって、黒田官兵衛を語るとき、興味があるのは、豊臣秀吉の軍師と称された人物が、関ヶ原では長政ともども東軍に付き、この戦いの間に九州の西軍関係者を放逐して『平定』したこと、徳川家康からの褒美を一切固辞して福岡太宰府の草庵で暮らしたことでありしました。
この辺り、大河ドラマでは、暴君となっていく秀吉への落胆と、これのご機嫌取りに終始する官僚石田三成との確執として描かれています。
秀吉は、自分が亡き後天下を取る器は、黒田官兵衛だとして恐れておりましたし、徳川家康が、豊臣秀吉亡き後、直ぐに自分の養女を、前妻と離縁させてまで黒田長政に嫁がせたのも、黒田官兵衛の力を恐れていたからだとされます。
関ヶ原で随一の武功をあげた黒田長政の手を取って、「この恩を忘れてはならぬこと、徳川家代々にきっと申し伝えさせる」と徳川家康は言いました。
これを聞いた父官兵衛が、子長政に対し、「このとき(家康が、長政の手を取ったとき)片手はどうしたか」と問うたと言うのは、黒田官兵衛を惜しんだ後世の創作だと思いますが、黒田家と徳川幕府の浅からぬ縁を物語るものだと思います。
会津藩には、有名な家訓がありますね。例の保科正之による徳川宗家に対する忠勤がそれです。
外様大名である筑前福岡藩は、幕末期最後まで、佐幕色が強かったのは、関ヶ原の武功と筑前福岡52万石の成り立ちが、少なからず影響があるのではないかと思うのは、私だけでしょうか?
平野国臣、真木和泉、野村望東尼など、福岡には、人物はおりました。
さて、決して表に出ず、黒子に徹するがゆえに、黒田官兵衛は、秀吉からも、家康からも恐れられていたのです。
しかし、当の官兵衛本人は、天下取りの野望など、持っていなかったのではないでしょうか。
「俺が俺が」と出たがり屋は、ある意味底が浅いもので、すぐに力量がバレてしまう,上辺だけの付き合いをしていれば、事足ります。
黒田官兵衛の中には、天下泰平,もう戦乱の世の中は終わらせるという、一貫した意図・目的がありました。
関ヶ原での対応、その後の隠居など、やり遂げた充実感があったのではないでしょうか。
決して豊臣を見限り、徳川に味方せよなんて、底が浅いはずがありません。
福岡藩は、徳川幕府と心中する必要はなかったのです。倒幕が、天下泰平をもたらすのだとすれば。
もちろん、黒田長政公や歴代の藩主を批判したいのではありません。
ただ、いつの時代も、賢人の行動の奥にある、見えにくい思いを理解することは難しいのだと感じます。
福岡市には、「如水庵」と言う和菓子つくりのお店があります。
黒田家14代藩公から、黒田家の藤巴の紋所を賜ったことが由来だそうです。
ここの大福は、いちご、こもも、ミニとまと、いよかん、ぶどう、栗、柿など、季節に合わせた逸品が詰められています。
春夏秋冬を超え、隠れたところで、決して外に力量を見せることなく、庶民の安全・天下泰平のため奮闘してきた黒田官兵衛の思いが、大福の皮の中に、隠れて詰められているようです。
「大福」、すなわち、「大きな福」は、このとおり福岡市に、多くの幸せをもたらしているのです。