先月の話ですが、千葉県の佐倉に行ってきました。
佐倉市は、千葉県の北部、千葉市と成田市の中間に位置し、人口約17万人、就労人口の20パーセント以上が、東京都内に通勤するというベッドタウン化した中核都市です。古くから交通の要所で、ここから銚子に行くJR線は、成田、佐原廻りと、成東、八日市場廻りに分かれます。
歴史好きな人間からすると、佐倉は、江戸幕府との関係が濃密な感があります。
江戸幕府の骨格を固めた土井利勝、ペリー来航時の堀田正睦など、幕閣の中心で働いた人物を輩出しております。順天堂を開いた佐藤泰然や、後の彰義隊や会津戦争でも大きな役割を果たした医師松本良順も、佐倉の人でした。
老中堀田氏は、蘭学や西洋医学を奨励したことが、佐倉の風土となり、教育界にも逸材が出ているのかもしれません。
女子教育の先駆者と称される佐藤志津、津田梅子もまた佐倉出身です。
津田梅子女史が、明治政府の初の女子留学生として、大山(山川)捨松らとともに渡航し、後に津田塾大学を設立したことは有名です。
津田梅子女史の父親、津田仙のことは、あまり知られていないのではないでしょうか?
私が、津田仙に興味を覚えた理由は、最後に述べますが、優れた農学者であり、青山学院大学の前身を設立し、また、東京帝国大学の中村正直、同志社の新島襄とともに、キリスト教界の三傑とうたわれたあの時代に、いち早く自由と平等を説いた偉人であります。
たびたび津田仙の人物を惜しんだ明治政府より、官位や役職を提供されながら辞職を繰り返し、その過程で、ウイーンのアカシアによる初めての都心に街路樹、アメリカからのトウモロコシによる日本発となる通信販売など、そのかたちにとらわれぬ斬新な行動は、田中正造の足尾鉱毒事件への応援などと合いまって、死後内村鑑三や新渡戸稲造らをして『大平民』の称号を与えられたものであります。
この方、まさしく『大平民』と称されるにふさわしい方だと思います。
その最後もまた立派でした。終点に着いた列車の座席で、微動だにせず、まっすぐピ~ンとした姿勢で、息を引き取っていたということです。
なぜ、福本悟が津田仙に興味を持ったか?
この大平民、偉人は、常日頃、
人間は、最後がきれいでなければならぬ、そのためには禁酒しなければならない
と、言い続けておられたのです。
まさしく、そのとおりの生き様でした。
そして、私には、絶対できない生き方です。
佐倉には、どうしてこんなに清廉な傑物が生まれるのでしょ?
「それは、いわゆるひとつの‥‥‥。」
風土と申しますか「メークドラマでしょうね。」
佐倉出身の昭和のスター、あの方の声が聞こえてきそうです。