12月14日に行われた行事のため、1週間遅れたNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』の最終回が放映されました。関ヶ原の戦いの最中、九州をほぼ平定した黒田如水は、黒田家当主黒田長政の活躍で、関ヶ原の戦いがわずか1日で決着したことから、これで戦乱の世は終焉を迎えたとし、筑前52万石の大名となった黒田長政による築城と町づくりを、博多の南太宰府の地で、静かに見守る生活に入ったそうです。
そして黒田如水は、菅公こと菅原道真を祀る太宰府天満宮の境内を、隠棲の場として選びました、それは当代一の文化人でもあった黒田如水は、和歌連歌の神様とも崇敬された菅公に学び、連歌会を開いて太宰府天満宮に奉納し、長く続いた戦火のため荒廃した天満宮の復興に努められたのです。
黒田長政が築城した城は福岡城と称され、『博多』と呼ばれていた一帯のうち武家の町は『福岡』となりました。
前藩主小早川秀秋の時代、福崎と言われていた地を、藩主黒田長政が『福岡』と改めたのは、黒田家発祥の地備前福岡を起源とするものと言われております。それはそのとおりだと思います。
ところで、戦乱の世を全て知り尽くした黒田如水は、晩年これからの日の本の中心となり、発展するのはこの福岡であると感じ、それを願ったという研究の結果が、最近になって発表されているようです。黒田如水は、太閤の博多町割りを実行し、朝鮮半島に渡り、茶人千利休らとの交友から明、高山右近らキリシタンを通じて遥か異国の文化に触れて、ここ九州の入り口でもある福岡は、アジア、そして世界の入り口であると感じられたのだろうと言うものであります。
「松梅や 末長かれと みどりたつ 山よりつづく さとはふく岡」
晩年黒田如水が、太宰府から詠んだ歌です。これは、菅公が愛した梅と、逞しく伸びる松の木に囲まれた緑豊かな太宰府の地より、山々を経てやがて開かれる土地で暮らす人々の幸せを願い、詠んだ歌とされます。綿々と『ふく』が続く岡であって欲しい、ここから『福岡』が誕生したとされます。
さて、あるいは戦後日本の岐路ともなりうる先の衆議院議員総選挙の直前、私は太宰府天満宮、そして福岡城跡を訪ねました。12月14日、現代日本での『決戦』も終わりました。
こらからの日本が、決して戦争に巻き込まれぬよう、まして戦争参加するような国にならぬよう、戦乱の世を生き抜き、人々の幸せを願った黒田官兵衛、如水円清が晩年を過ごした福岡から、決意を新たにした次第です。