プロ野球は、セパ交流戦の真っ只中、日頃見られない対戦があり、また、この交流戦を契機に上昇するチーム、反対に降下線を辿るチームなどあり、選手ファンは楽しみな時期だと思います。
さて、野球にはあまり詳しくない私ですが、また、まさかの『珍事』が起きたようです。
横浜スタジアムで行われたDeNAとソフトバンクとの試合で、それは起こりました。ソフトバンクホークスの工藤公康監督は、審判団の判定が出された後、ベンチからルールブックを持参して再度『確認』に行きました。
この日、7回表までスコアーは2対3でホークスが1点ビハインド、2死満塁のチャンスを迎えました。ホークスのバッターが打った打球は、強烈なゴロとなって内野を抜けてセンター前に達し、3塁ランナーに続いて2塁ランナーもホームイン、ホークス逆転‼︎かと思いきや、球審が両手を広げてプレーを止めたのです。実は、バッターが打った打球は、内野手の前に居た2塁塁審に当たったので、その瞬間にボールデッドとなり、プレーは止まるのです。
ホークスの得点は1点止まり、3対3の同点で、ゲームは再開されました。 すなわち、打った打者は、『内野安打』となって1塁に達するので、ボールデッドの結果、満塁の走者は、『ひとつづつ』進塁する理屈となって、3塁ランナーのホームインのみ認められられると言うわけです。
公認野球規則には、『打球がピッチャーを通過してから内野内に位置していた審判員に触れた場合はボールデッドになる』と書かれておりました。
この『珍事』の日、結局ソフトバンクホークスは、横浜DeNAに負けてしまいました。
ソフトバンクにも、DeNAの前身横浜ベイスターズにも在籍していた工藤公康氏が、審判団に抗議ではなく『確認』しに行ったことには伏線があります。
オールドファンなら、「あぁアレだ!」とすぐに思い出しシーンがありますね。それは、工藤公康氏が、西武ライオンズに新人投手として入団した1982年10月28日、西武球場で行われた西武対中日の日本シリーズ第5戦で起きました。 この年の日本シリーズは、先に西武が2勝、その後敵地西武球場で中日が巻き返して2勝を挙げ、この日第5戦もここまで0対0で、両者がっぷり組み合って関係者ファンは、固唾を飲んでいたときのことです。3回表2死2塁で一打先制のチャンスを迎えた中日ドラゴンズは、バッターが打った強烈な打球が、西武一塁手の脇を抜け、外野もしくはファールグラウンドに転々と思いきや、フィールド内に居た西武二塁手の前に転がって来て、さばいた2塁手が、3塁を回った走者に気づいて3塁に投げ、慌てて3塁に帰塁しようとした中日の選手がタッチアウトになって、スリーアウトチェンジとなったあのシーンです。
結局この回の得点が認めれなかった中日は負け、続く第6戦でも負けて、日本一を逃しました。
そしてこの日本シリーズ第6戦、西武ライオンズがこの年の日本一を決めた試合の勝ち投手は、新人の工藤公康選手だったのです。 シリーズの流れを変えたあのシーン、実は一塁手の横を抜けた打球が、ファールグラウンドに立っていた一塁塁審に当たってコースが変わり、折良く西武2塁手の目の前に、打球が転がってきたのでした。
先のソフトバンク監督として、今年工藤公康氏が経験したのと異なり、この日本シリーズのシーンは、打球は野手を越えており、その場合、ボールが審判に当たった場合は『インプレイ』、すなわち、球場に石ころが転がっていたのと同じ扱いになるのです。
これは、『1982年日本シリーズ西武対中日石ころ事件』として、後世に語り継がられている事件でもあります。
ルート上は、単に石ころに打球が当たったに過ぎないのでしょうが 、当時の中日ドラゴンズ近藤貞雄監督が「日本の球場にも、あんな大きな鈍い石ころがあるのか!」と怒ったように、日本シリーズの流れを変えてしまった『珍事』であったと言えるでしょう。
もし、今年ソフトバンクホークスが、良い成績を残せなかった場合、この後失速してしまった場合には、工藤公康監督には、なんとも恨めしい『珍事』となりましょうか?
確かに人生、ひょんなことから流れが変わることはあると思います。
流れが変わったときどうするか、これが大切なのではないでしょうか。工藤公康氏は、そんなこと百も承知、この先の指揮官としての有様に、断然注目いたします。