購読している新聞に、子どものころ住んでいた東京都大田区の歴史が掲載されていたので、懐かしい思いで、これをご紹介します。みなさん、大田区と言えば何を想像しますか?羽田空港、田園調布、中小企業、蒲田行進曲、大森貝塚、平和島ボート、桜坂、巨人軍グランド等等、世代や興味により、いろいろだと思います。 私が通学した小学校中学校は、高台にあり、近くを新幹線が通っていて、坂を下ると多摩川はすぐそばと言う環境にありました。子どものころから、多摩川には、よく遊び行きました。そして、私が歴史好きになったのは、多摩川がきっかけだったかもしれません。 小学校4年時に、クラブ活動と言う科目ができました。これは今で言う文化系サークルの走りです。それ以前から鉄道ファンで、地図を見るのが好きだったことも影響していたと思うのですが、私が所属したのは『郷土研究クラブ』です。通称『狂犬』と言われましたが、おとなしい男の子ばかりで、私はクラブ長でした。 この郷土研究クラブの5年時に、多摩川にまつわる歴史を調べ、史跡を散策して、大田区にその結果を投稿したことがあります。チョット恥ずかしい物ですが、ひとり暮らしをしていた母が、有老に入所するため、実家を整理したところ、なんと48年前の冊子が出てきました。母は、大切に保存していたのです。これは、今日の某新聞の東京版に出ていた記事と重なります。少しお付き合いを。 時は南北朝時代です。建武の新政に尽力した足利尊氏、新田義貞は、後醍醐天皇側か武家側かに分かれて戦うことになり、天皇すなわち南朝側の新田義貞は敗れ、京都に足利尊氏は、室町幕府を開きました。そして源頼朝以来の武士団が居る鎌倉をしっかり抑えるため、弟の足利直義を差し向けて、鎌倉府を設けました。新田義貞は、もと上州、群馬県を中心に勢力を築いており、鎌倉府ができたころは、新田義貞の子新田義興が力をつけておりました。新田の家を興す願いのもと、名付けたと言われております。 この新田義興、父の無念を晴らすために、上州から鎌倉を目掛けて進軍し、武蔵と相模の境となる多摩川まで来ました。今でも多摩川は、東京都と神奈川県の境です。この多摩川を渡ってしまうと、鎌倉側は窮地に陥る危険性があり、足利側は一計を案じて新田義興を殺害したのです。今で言う大田区の矢口渡あたりの出来事でした。 すなわち、鎧兜に身を固めた新田義興が、多摩川を渡るために使用する小舟の船頭を買収して、船に穴をあけておき、川の中ほどに来たときに、詰め物をしていた穴をあけ、船を沈めると言うものです。この船頭、とんべいと言いますが、とんべいさん、足利側との約束通り栓を抜いて、自らは川に飛び込み、謀られたと知った新田義興は、助からないと悟り、「無念!」の一言を残し、自害して果てたのでした。 それからです。多摩川は、毎年洪水に見舞われ、新田義興の殺害に協力したとんべいさんは、自己の行為を悔いて、新田義興の供養を続けましたが、結局発狂して亡くなりました。また、新田義興の亡霊が出ると噂され、このあたりでは、疫病で多くの子どもが亡くなりました。それで地元の人たちは、新田義興の霊を供うために神社を造り、また、とんべいさんを哀れに思って、地蔵も造ったそうです。また、足利氏より、新田義興の旧領を貰った江戸遠江守が、矢口渡の渡しにきたとき、激しい雷雨となって、空から新田義興の亡霊が現れ、遠江守目掛けて矢を放ち、7日間苦しんで遠江守は悶死したとも言われております。 その後も雷を伴う風雨が続き、とんべい地蔵さんは、その度に溶けてしまって顔が消え、多摩川の洪水も止みません。そんな数年が続いたある雷雨の日、溢れ出た多摩川から、ひとつの観音様がこの地に流れ着いたのです。金色に見えたこの観音像を、地元の人たちが手厚く祀ったところ、雷は止み、翌年から多摩川の洪水も、新田義興の亡霊も、現れなくなったと言うものです。この観音様をして『雷止観音』と言うようになったと言う歴史物語であります。この観音様が流れ着いたのは下丸子にある光明寺前の池で、度重なる多摩川の洪水で、池になったとも言われます。そしてこの『雷止観音』は、沼部の密蔵院に安置されております。このお寺様こそ、私が通学した学区域にあるのです。 江戸時代には、平賀源内が、別のペンネームをもって『神霊矢口渡』と言う本を描き、人形浄瑠璃にもなり、この辺りは、歴史に名を残すことになりました。今は蒲田から多摩川駅まで、東急多摩川線が通っています。蒲田、矢口渡、武蔵新田、下丸子、鵜の木、沼部、そして多摩川です。この短い路線には、新田義興を巡る歴史と伝説が多く残っております。確か小学校3年のとき、社会科の副教材で、『私たちの大田区』と言う本が配布され、この地域に興味を持った記憶があります。 人々が、その地域に住むのは、全くの偶然であることがほとんどです。でも、何かの縁があって、住んだ我が街の歴史を知ると、その街の一員になった気がいたします。小学校時代の思い出が、この歳になって目にした新聞により、懐かしさが込み上げて来ました。みなさんも、今住んでいる街の歴史を調べ、学ぶことをお勧めします。あのころ、純粋だったなと思います。