スペインで開催されていたフィギュアスケートグランプリファイナルで、羽生弓弦選手が、330点超えのスコアを出し、3大会連続優勝しました。 その数日前に、自らが出した320点台を更新する世界記録でした。異次元、無限大等と評価され、どこまで伸ばすのか、圧巻の演技でありました。演技後自己記録、すなわち世界記録を更新したことがわかると、羽生弓弦選手自身も泣いておられました。 かつて羽生選手が尊敬するロシアのプルシェンコ選手が250点台を、そして長年日本男子フィギュア界を率いていた高橋大輔選手が260点台を、ソチオリンピックでは、羽生選手のライバルと言われたパトリックチャン選手がその前年にあわや300点に届くかと言う数字を出したときには、人類未踏なんて声さえ上がったのがもう、別世界のことのようです。まだまだ伸びる羽生選手ですが、ここまで来るのも、想像を絶する努力があったはずです。 平成23年3月11日発生した東日本大震災では、羽生選手の地元宮城県は大きな被害を受け、羽生選手が練習するリンクも破壊され、羽生弓弦さん自身も、数日避難所生活を余儀無くされました。彼は、このとき16歳の高校生、現実を受け容れることができず、フィギュアスケートを辞めようと思ったそうです。 そんな彼の心を動かしたのは、復興のため頑張る人々、そして羽生弓弦選手を応援する多くの声援だったそうです。そんな人々の姿を見て、背中を押され、再びリンクに立つことができたと言われます。彼もまた、恩返しを言われます。自分の責任ではないところで挫折を味わい、そして立ち上がるのは、並大抵のことではありません。強くなったのでしょう。 話は少し戻ります。ソチオリンピックスキー団体男子ジャンプ陣に銀メダルをもたらした葛西紀明選手は、『レジェンド』と評されます。この大会では、葛西選手個人も、銀メダルを獲得しました。40歳を越え、まだまだ衰えを知りません。 彼もまた、大きな挫折から復活したのです。少年時代から天才ジャンパーの名をほしいままにしていた葛西紀明選手、日本国中が湧いた冬季長野オリンピックの男子団体ジャンプでは、彼は補欠に回ってジャンプ台には立てず、金メダルの4人を下で見ていたのです。「失敗しろ!」と願って。 その翌年、私は、ワールドカップ札幌大会大倉山ジャンプ場で、スキーを担いで俯きながら、ひとり歩く葛西紀明選手を見ました。前年のオリンピックの感動をもう一度の観客が大勢集まり、世界の名だたるジャンパーが躍動する姿に多くの人たちが歓声をあげていました。そんなとき、よい結果を出せなかった葛西選手を見つけた観客が、「あっ、葛西だ葛西だ。」「もう、ダメなんじゃない?」と指をさしつつ会話していました。 私は、「ひどいこと言うな!」とは思ったものの、その後のレジェンド葛西紀明を予想などできません。単に勝負の世界は厳しい、常にトップクラスを維持することはどんなにか難しいのだろうと思ったに留まります。 その後葛西選手は、肉親を亡くし、所属チームを離れ、ひとりで闘ったのです。でも、葛西紀明選手は、ソチオリンピック後、多くの人に支えられたと言われました。本当は、悔しいこと、辛いこと、やめたいと思ったこともあったでしょう。でも葛西選手は、言いました。あの日、あの白馬の雪の中、下で見ていたあの瞬間に誓った、あれがあったからやり続けられたと。 人間は、何かの瞬間、きっかけで、大きく変わることがあります。『日本中が泣いた』浅田真央選手のソチオリンピックフリーの演技は、その前に行われたショートプログラムで力を出せなかった浅田選手に対して、佐藤信夫コーチが、「コートで倒れたら助けに行く!」の一言が後押ししたとの後日談です。 また、今年サッカーJリーグ第2ディビジョンから、昇格プレーオフを制してJ1への昇格を決めた『アビスパ福岡』は、開幕三連敗で最下位に沈んだとき、今年就任した井原正巳監督は、「これ以上下はないから」と言ったそうです。 葛西紀明選手も羽生弓弦選手も、あるきっかけで変わり、他人が真似をできないような努力を続けて今日があります。 そしてこれに満足せず、その先に挑戦しているのです。私は、今年休養から復帰して、先日のグランプリファイナルでは、おそらく満足いく演技ができなかったと思われている浅田真央選手が、胃腸炎のアクシデントに見舞われながらも演じきったことは凄いと感じるものですが、どうぞ浅田真央さん、ご自分の思うところ信じるところに従って、道を進んでいただきたいと願うものです。 浅田真央さんくらいの極められた方に対しては、外野が「がんばれ!」は無用でしょう。そんなこと考えされられるウインタースポーツの時期になりました。