『名将』と言う言葉があります。辞書を引くと、優れた武将と出てきます。戦国一の名将は誰かとか、名将の戦術を知ろうとか、優れた先人に学ぼうとする人や企業は、いつの世でもいるのです。だだ、最近は、『名将』は、勝負事の指揮を取る人に当てはめることが多く聞かれます。例えばスポーツ界の監督です。これは、自分に勝ち、相手と闘うからでしょう。
名将の意味や定義もいろいろです。例えば、勝負事に勝ち続けることが名将なのか、あっと言わせるやり方で一矢報いることだとか、また、弱いチームを強くすることも、近頃『名将』として論じられています。名将は、どうして作られるのか、どのようにすれば名将になれるのか、いろいろ言われています。ただ、自分で自分を名将だと思う人はいないと思われ、名将がどうかは、他人の評価によるものでありましょう。
かつてプロ野球読売巨人軍を9連覇に導いた川上哲治元監督は、結果を見れば名将でしょう。また、今年圧倒的な強さで連覇した福岡ソフトバンクホークスの工藤公康監督も、監督としては初年度で、大きなプレッシャーがかかる中、結果を出されたのですからその器と評価されるかもしれません。ただ、あれだけの戦力、勝って当たり前との意見もあると思います。
この観点から言えば、名将とは、弱い、あまり結果が出ていない、あるいは充分な戦力はないチームや個人について、予想を超える結果をもたらす手腕を意味することになりましょうか。期待されていない、誰もがまさか?なのにこの結果はなんだ!コレでしょう。私の身近にそんな人がおります。ネット社会では、もう『名将』の名がつけられています。この『ひとりごと』で何回も登場したアビスパ福岡の井原正巳監督です。
アビスパ福岡は、サッカーJリーグディビジョン2に所属し、2012年にJ1から降格して18位、14位、16位で過去3年のシーズンを終え、今年の開幕前でも、J1への昇格プレーオフに出場できる6位以内に順位を予想した専門家は、1人もおりませんでした。井原監督の胸の内はわかりませんが、おそらくアビスパ福岡関係者でも、J1への自動昇格した2位チームと同じ勝ち点82を挙げて3位になるとは思っていなかったのではないでしょうか。高校までサッカーをやっていた息子たちが、口を揃えて言っているサッカーは監督で決まる』がわかる気がしました。
井原正巳氏は、元日本代表の主将ですが、現役引退後は、それこそ『名将』とうたわれたネルシーニョ監督のもと、長年にわたってコーチとして下積みと研鑽を続け、初めての監督就任が、今年のアビスパ福岡でありました。まさに満を持した登板であります。ともすれば、熱いだの気持ちだとかが持て囃されるスポーツ界の指導者として、その内面の思いは別として、井原監督は、終始冷静で、また、紳士なのです。いつか『男は顔!』なんて言ったことがあるかもしれませんが、サッカーに関心がなかった人たちも、井原アビスパに魅せられているようです。今年アビスパ福岡は、Jリーグ中前年度比観客数の増加率トップでありました。
もちろん、チームが強くなり、観客数が増加するのは、資金面を含めた経営努力が必要です。川森社長、野見山前社長は、関東のアウェイゲームにもいらっしゃいます。まさに現場フロントサポーター一体となった『チームアビスパ』です。それも井原正巳氏の人柄手腕だと言えます。井原イズムが選手に浸透しており、今年チームに加入した選手は皆力を発揮しており、怪我人の代わりに出場する選手も、しっかり結果を出しています。サポーターも、いらいらすることは少なく、皆井原アビスパを信じております。
井原正巳氏が、どのようにして1年立たないうちにも名将と言われるようになったのか、それはわかりません。だだ、組織を率いる人は、それに関わる全ての人を思い、そこからの信頼を得ることが不可欠だと知らされます。この先の結末はどうでも良いとは言いませんが、アビスパ福岡を取り巻く全ての人が、井原監督を信じ、結果を受け入れることは間違いありません。そこで福本悟流の『名将』とは、寡黙の中にも芯をとおし、関わる全ての人から信頼を得ること、結果は後からついてくることだとなりましょうか。
かつて日本代表として、始めてワールドカップに出場した主将井原正巳氏を懐かしむ方々、どうぞアビスパ福岡の試合をご覧ください。この『ひとりごと』がアップされるころには、井原アビスパの2015年は全て終了しているかしれまんが、今年の集大成の試合をあと2つ行う権利を井原正巳氏が、アビスパ福岡にもたらしてくれました。名将にありがとうを言いたいです。
購読している新聞に、子どものころ住んでいた東京都大田区の歴史が掲載されていたので、懐かしい思いで、これをご紹介します。みなさん、大田区と言えば何を想像しますか?羽田空港、田園調布、中小企業、蒲田行進曲、大森貝塚、平和島ボート、桜坂、巨人軍グランド等等、世代や興味により、いろいろだと思います。
私が通学した小学校中学校は、高台にあり、近くを新幹線が通っていて、坂を下ると多摩川はすぐそばと言う環境にありました。子どものころから、多摩川には、よく遊び行きました。そして、私が歴史好きになったのは、多摩川がきっかけだったかもしれません。
小学校4年時に、クラブ活動と言う科目ができました。これは今で言う文化系サークルの走りです。それ以前から鉄道ファンで、地図を見るのが好きだったことも影響していたと思うのですが、私が所属したのは『郷土研究クラブ』です。通称『狂犬』と言われましたが、おとなしい男の子ばかりで、私はクラブ長でした。
この郷土研究クラブの5年時に、多摩川にまつわる歴史を調べ、史跡を散策して、大田区にその結果を投稿したことがあります。チョット恥ずかしい物ですが、ひとり暮らしをしていた母が、有老に入所するため、実家を整理したところ、なんと48年前の冊子が出てきました。母は、大切に保存していたのです。これは、今日の某新聞の東京版に出ていた記事と重なります。少しお付き合いを。
時は南北朝時代です。建武の新政に尽力した足利尊氏、新田義貞は、後醍醐天皇側か武家側かに分かれて戦うことになり、天皇すなわち南朝側の新田義貞は敗れ、京都に足利尊氏は、室町幕府を開きました。そして源頼朝以来の武士団が居る鎌倉をしっかり抑えるため、弟の足利直義を差し向けて、鎌倉府を設けました。新田義貞は、もと上州、群馬県を中心に勢力を築いており、鎌倉府ができたころは、新田義貞の子新田義興が力をつけておりました。新田の家を興す願いのもと、名付けたと言われております。
この新田義興、父の無念を晴らすために、上州から鎌倉を目掛けて進軍し、武蔵と相模の境となる多摩川まで来ました。今でも多摩川は、東京都と神奈川県の境です。この多摩川を渡ってしまうと、鎌倉側は窮地に陥る危険性があり、足利側は一計を案じて新田義興を殺害したのです。今で言う大田区の矢口渡あたりの出来事でした。
すなわち、鎧兜に身を固めた新田義興が、多摩川を渡るために使用する小舟の船頭を買収して、船に穴をあけておき、川の中ほどに来たときに、詰め物をしていた穴をあけ、船を沈めると言うものです。この船頭、とんべいと言いますが、とんべいさん、足利側との約束通り栓を抜いて、自らは川に飛び込み、謀られたと知った新田義興は、助からないと悟り、「無念!」の一言を残し、自害して果てたのでした。
それからです。多摩川は、毎年洪水に見舞われ、新田義興の殺害に協力したとんべいさんは、自己の行為を悔いて、新田義興の供養を続けましたが、結局発狂して亡くなりました。また、新田義興の亡霊が出ると噂され、このあたりでは、疫病で多くの子どもが亡くなりました。それで地元の人たちは、新田義興の霊を供うために神社を造り、また、とんべいさんを哀れに思って、地蔵も造ったそうです。また、足利氏より、新田義興の旧領を貰った江戸遠江守が、矢口渡の渡しにきたとき、激しい雷雨となって、空から新田義興の亡霊が現れ、遠江守目掛けて矢を放ち、7日間苦しんで遠江守は悶死したとも言われております。
その後も雷を伴う風雨が続き、とんべい地蔵さんは、その度に溶けてしまって顔が消え、多摩川の洪水も止みません。そんな数年が続いたある雷雨の日、溢れ出た多摩川から、ひとつの観音様がこの地に流れ着いたのです。金色に見えたこの観音像を、地元の人たちが手厚く祀ったところ、雷は止み、翌年から多摩川の洪水も、新田義興の亡霊も、現れなくなったと言うものです。この観音様をして『雷止観音』と言うようになったと言う歴史物語であります。この観音様が流れ着いたのは下丸子にある光明寺前の池で、度重なる多摩川の洪水で、池になったとも言われます。そしてこの『雷止観音』は、沼部の密蔵院に安置されております。このお寺様こそ、私が通学した学区域にあるのです。
江戸時代には、平賀源内が、別のペンネームをもって『神霊矢口渡』と言う本を描き、人形浄瑠璃にもなり、この辺りは、歴史に名を残すことになりました。今は蒲田から多摩川駅まで、東急多摩川線が通っています。蒲田、矢口渡、武蔵新田、下丸子、鵜の木、沼部、そして多摩川です。この短い路線には、新田義興を巡る歴史と伝説が多く残っております。確か小学校3年のとき、社会科の副教材で、『私たちの大田区』と言う本が配布され、この地域に興味を持った記憶があります。
人々が、その地域に住むのは、全くの偶然であることがほとんどです。でも、何かの縁があって、住んだ我が街の歴史を知ると、その街の一員になった気がいたします。小学校時代の思い出が、この歳になって目にした新聞により、懐かしさが込み上げて来ました。みなさんも、今住んでいる街の歴史を調べ、学ぶことをお勧めします。あのころ、純粋だったなと思います。