私たちの仕事は、人の話をよく聞くが基本です。
何気無く『聞く』と書いてしまいますが、『聴く』の文字もあります。『聴く』は、耳を傾け、注意して聴き取るの意味のようです。
あるいはこちらの『聴く』が、弁護士業務には用いられるべきかもしれません。「広く国民の意見を聴く」も、こちらの『聴く』のようであります。 『聞く』と『聴く』があることを意識できたのは、『コブクロ』の小渕健太郎さんのお話を聞いたことによります。『音楽を聞く』の場合は、『聴く』が使われます。先の『聴く』の意味からして、『音楽を聴く』となるのは何と無くわかります。
小渕さん、『聴く』の意味は、「耳を取ると十四の心が残る。音楽は、心で聴くもの。聴いた人の心のどこかに残るもの。そんな曲を作りたい」と。 以前にもお話しましたが、小渕健太郎さんの言葉は、本当に人の心を打つものがあります。学校の先生など、よく小渕語録をパクっていると聞きます。 この小渕健太郎さん、あるときこんなことを仰っていました。「人間弱いときと強いときがある。自分は、弱いときが好きだ」と。弱い人間は、辛さ、悲しさを抱えているから頑張ろう!と思える。
そして、弱い人の気持ちもわかる。強い人間は、人の話を聞き入れない。ときに自惚れ、傲慢になる。人間弱いときのほうが、謙虚で目標を持てるのだと言われます。 最近とても気になることがあります。批判する意見に対して「偏っている」と一蹴し、また、封じようとする動向です。
私は、よく覚えています。一昨年、ある報道番組に生出演した安倍晋三内閣総理大臣は、放映された『街の声』が、安倍内閣の経済政策を評価しない声ばかりだとして、「おかしいんじゃないか」と露骨に不機嫌となり、後日自民党は、総選挙に関する報道番組の内容にまで踏み込んで、『公平中立』を求める文書を各局に出したことを、その後自治体や公共施設で行われる平和や民主主義等、戦後日本国憲法のもと、私たちが普遍の原理、根本規範とされて守ってきた思想や価値観の表明まで、「政治的に偏っている」として自主規制と言うかたちによる抑制を受けた例があります。
勘違いしてはいけないのは、『特定の政党や政治団体に関わるものであってはならない』こととは、政権や政府与党の主張や政策を批判的に捉えることと同じではないことです。
ちなみに、私は、ハッキリ言って民主党は好きではありません(この『ひとりごと』をご愛読されている方は、「そんなの分かっている!」と言われるでしょう)が、例の安保保障関連法案を巡る議論に関しては、民主党議員が、政府与党より正しいと思っています。なんか政府与党に批判的な見解を示した人間は、全て野党を支持しているとでも思われているのでしょうか?要するに、政府与党に反対し、批判する意見には、偏っているとの『レッテル』を貼って、聞く耳持たぬどころか、「あんたはおかしい」としてこれを排撃する風潮が蔓延っているのです。
対立する問題点を明確にして議論し合うことは、民主主義の根幹です。それを「偏っている」と切り捨て、黙らせようとするのは、言論の抑圧に繋がりかねない恐怖があります。 『放送法遵守を求める視聴者の会』と称する団体は、昨年秋大手新聞社2社の紙面に広告を出しました。
それは安保法制を批判的に報道する番組のキャスターの発言が、政治的公平等を定めた放送法4条に反するのして、従来の総務大臣見解を問うものです。これを受けて総務大臣は、放送法4条は、放送局が自らを律する倫理規範であって、公平中立とは、番組全体を見て判断されるべきとの従来の立場を検証する委員会を設けることを明らかにしたのです。
新聞社が何を広告するかは、報道表現の自由ですが、マスメディアの発言が公平性を欠くかの論調を張る広告主の意向に沿うような時代になったことに先ず驚きました。件の団体は、政府与党に批判的な論調を張ったキャスターの発言が、公平中立ではないと言っているのであって、その発言が、特定政党への支持や反対をするためになされていたとでも言うのでしょうか?私も問題の報道番組、そしてこのキャスターの発言は聞いていますが、繰り返し申し上げるとおり、これにより特定政党を支持しているのではないのです。 今政府与党、安倍晋三内閣総理大臣は、本当に強いです。
国会論戦を聞いていても、まともに答えていませんね。別に野党なんか相手にしなくても、政権の基盤に綻びが出ることなどあり得ないです。誰も、与党内からも、『反対!』は言えなくなった感があります。
自分に批判的な意見や提言は、全て偏っているで片付けるのは、話を聴いたことにはならない、すなわち、十四の心は残らないようであります。