現内閣の総務大臣は、衆議院予算委員会で、放送局が政治的な公平を欠く放送を繰り返したと判断された場合は、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性に言及しました。
これを受けて、政権に批判的な放送をしただけで業務停止が起こりうるとの野党議員の質問に対しては、「法律は法秩序を守る。法違反があった場合は、罰則規定もあるから、実効性を担保する必要がある」と強調しました。
放送法4条は、放送局の自律性を守る倫理規定とされてきました。例えば、NHKの過剰演出問題を検証した放送倫理•番組向上機構(BPO)は、そもそも総務大臣が、NHKに対して文書により『注意」したこと自体が、「政府が、個々の番組に介入することは許されない」と批判されました。
もともと電波による放送は、民主主義社会を支える国民の知る権利に奉仕する役割があり、公共性と併せて、政治権力に支配されないことが求めれます。現代世界でもその例がないとは言えないのは、権力者によるマスコミ統制です。これは、ナチスによる喧伝が代表例とされます。放送局には、ときの政治に阿ることなく、自立独立し、かつ、自らを律する必要があるのです。
BPOは、NHK過剰演出問題で、「行政からの指導、それも放送行政で許可権限を持つ総務大臣が意見を表明するのは、非常に問題かある」と指摘されたばかりです。それを「放送法の規定を遵守しない場合は、行政指導を行う」と総務大臣が宣言するのでは、放送局は、許可権限を有するときの政府を向いて業務を行うことになりかねない危惧を覚えます。
政治的公平を欠くとはどのようなケースでしょう。総務大臣は、「国論を二分する政治課題で、一方の政治的見解を取り上げず、ことさらに他の見解のみを取り上げて、それを支持する内容の放送を相当時間にわたり繰り返す放送」を挙げました。これで思い出すのは、一昨年の衆議院議員総選挙の前に、あるテレビ番組に生出演した内閣総理大臣が、街かどでは、アベノミクスの効果を感じられない声が放映されたのを見て、「政府の政策を反対ばかりでおかしいんじゃないか」と発言したことです。街かどの声には謙虚に耳を傾けるべきか、一国の宰相たるもの、いちいち批判にとらわれず、悠然と構えるべきか、議論はあり得るでしょう。
でも、テレビ番組の生放映で、首相が、放送局の姿勢を「おかしいんじゃないか 」と批判するのは尋常ではありません。
その発言があった後、まさか与党総裁への提灯持ちではないと思いますが、自民党の副幹事長らが、選挙を前にして、在京テレビ局に『選挙報道の公平中立』を要請ししたことが明らかになりました。
昨年首相は、衆議院予算委員会で、自らの発言を「圧力だと感じる人は世の中にいない」と答弁しました。また、そのすぐ後には、自民党の情報通信戦略調査会が、NHKとテレビ朝日の幹部から『事情聴取』し、「政府は、テレビ局に対する停波の権限がまである」とマフコミを前に公言しております。そして、例の『ギャグ先生』の勉強会に参加した自民党議員から、「マスコミを懲らしめるには、広告料収入がなくなるのが一番」の発言に至ります。
要するに、これまで権力を監視する、権力の介入を受けないとの立場で、放送局の倫理規定とされていた放送法4条の規定は、行政指導ができる根拠だとし、電波法には罰則もあるから、許可権限がある総務大臣が指導すなわち、個々の放送の中身まで調査し、『指導』することが可能となるのです。政府与党を批判する放送をすることは、「一方の政治的見解を取り上げず、他の見解のみをことさらに取り上げてそれを支持する内容」に違いなく、それを相当期間放送したら、政府から『指導』がなされることを意味します。
これが圧力ではなくなんなのでしょう?くだらないと言えばそれまでですが、安保法案に反対する集会で、内閣総理大臣に関する『替え歌』を歌ったことが、そんな連中に公共機関が場所を提供するのは『政治的中立』に反するなんて言われる時代です。
安保法案が国会で審議されているころ、小林節慶應義塾大学名誉教授は、安倍氏の地元山口4区を巡って、誰も安倍晋三内閣総理大臣自由民主党総裁に意見しない、できない状況をして、「アベ家が、キム家になる」と危惧を表明しました。
内閣総理大臣、その意を受けた行政や与党から、放送に関して『注文』があった場合、放送局が、『政治的中立、不偏不党』を維持することは困難でしょう。
民主主義を大上段に構えるまでもなく、耳の痛い意見を聞くことなくして、その人の成長はないと思うのですが。