きさらぎ法律事務所にいらっしゃる方は、何かしらの法律問題を抱えておられます。 まず、不安で不安で、どうしたら良いかわからないとも仰います。私は時間をかけてお話を伺い、ご依頼者になられた方には到達点、着地点を定めます。その中で、何よりも大切なのは、安心安全を得ることだと申し上げます。特に離婚や男女問題、親族相続等の案件に携わりますと、たとえお金が入ったからと言って、相手となった方とは、もう関わりたくないと願うでしょう。 日本人は、宗教意識の雑多性が見られるとはよく言われるところです。 それが顕著に出るのが初詣かもしれません。新年になると、神社やお寺にお詣りに行き、手を合わせ、また、手を叩いてお願いをします。我が家の宗派は、浄土真宗本願寺派ですが、初詣は、神社に行きました。私が年に2回は詣でる福岡市博多区にある櫛田神社は、博多の総鎮守ですが、『博多祇園山笠』のフィナーレ『追い山』は、櫛田神社を出発した後、東長寺、聖福寺の博多の伝統的寺院を回って、博多の町を走ります。神社と寺院、『宗教』であることは同じです。 皆さん寺院やお寺で手を合わせるとき、家内安全、心願成就、商売繁盛等を祈願します。ある宗教法人の通信誌に、宗教の目的が書かれておりました、仏教を広めたお釈迦様についてです。 お釈迦様は、今から約2.600年前、インドのある王族の子として生まれ、本名は、ゴータマ シッダッタと言われ、何不自由なく暮らしていたところ、ある日お城の外に出て、病人、貧しい人、行き倒れた人等を目にし、人間はいずれあの様になって死んで行くのだと知り、誰にも避けることができない老いや死の現実は、たいへんなショックでした。それから毎日、お釈迦様は、不安で不安で仕方ない日を送ります。こうしてお釈迦様は29歳のとき、王家を出て出家したのです。 出家し、苦行を続けても、お釈迦様の老いや死に対する不安は拭えません。難行苦行のため、骨と皮だけになられても、なおお釈迦様は、悟りを開くことはできません。身を清めようとして川に入りますが、川から這い上がる力がなく、通りかかったスジャータと言う女の子から、乳粥をもらってやっと這い上がって、菩提樹のもとにたどり着くお話は、よく知られておりますね。 こうしてお釈迦様は肉体の修行をやめ、菩提樹の下で瞑想に入ります。そして7日め、お釈迦様はこう仰ったのです。「全てわかった。もう、不安はない」と。 お釈迦様は、何のために悟りを開かれたのか? それは不安を解消し、安らかなこころ、すなわち『安心』を手に入れるためだったのです。 宗教とは、安心して命を全うすること、すなわち『安心立命』に他ならないと言うお話でありました。 私は、宗教家ではございませんが、このお釈迦様のお話、ピタッと入ります。私も初詣や行き先で、寺社仏閣を訪れて、手を合わせることがあります。いろいろお頼みしますが、むしろこうして毎日生きていられることをありがたいと念じます。年にいちどある場所で、お祓いを受けるのですが、例えば、車が衝突しそうになったとき、電車や航空機が遅れて、大事な用件が済ませなくなりそうになったとき等、「やはりお祈りして良かった。お祓いの効果だ」と感じます。これは気持ちの問題ですが、お祈りお頼みしているから守られている、玉は当たらない、自分が搭乗した航空機は事故に遭わないといつも思っています。人は安心のため祈ります。 私がきさらぎ法律事務所で、あなたの安心安全のためお仕事させてくださいと申しますと、やはり実感が伴わないとお見受けする方がおられます。 それは法律的な回答ではありませんし、そんなの当たり前と思われるのでしょう。そんなとき、よく私は宗教家ではありません、ここから先は、私の専門外、能力を超えるところと申し上げ、ご依頼を受けられないことがあります。私たちは、実際の社会の中で発生した事実に対して、法解釈を通して安心安全を目指します。 もちろん、ひとつの結果が出て、それがご依頼者の安心安全をもたらしたかどうかは、その方の気持ち受け取り方です。ただ、葛藤を抱えていては、安らかな気持ちになり得ないとは申し上げます。私たちの仕事の入り口は、しっかりお話をお聞きして葛藤を鎮めること、まずはきさらぎ法律事務所弁護士福本悟に依頼したことで、安心安全へのスタートとしていただくことなのです。 こうして私も、ときにご住職から説法をお受けして、まずは自分のこころが安らかなることを意識するのです。 最後までお読みいただき、ありがとうございました。