雨の中の五代友厚像の下で考えてみました。

2016年2月25日
昨年は、『まさロス』と言う言葉が流行りました。マッサン?ではなくて、福山雅治さんです。

そして今年早々、『五代さまロス』です。NHK朝ドラ『あさがきた』で、ディーンフジオカさん演じる五代友厚氏が画面から消えたからです。ところが主人公白岡あさの夢の中に、『五代さま』が現れたのです。

五代さまが朝ドラに『再登場』した翌日、私は鹿児島市に来ました。写真

五代友厚は、薩摩藩出身の武士でしたが、明治維新後実業家として、特に大阪経済の恩人と言われております。この辺り、『あさがきた』をご覧になっている方ひはお分かりのことです。大阪証券取引所の前に大阪経済の恩人として、また、大阪経済の顔として凛々しい銅像があるそうです。こちら鹿児島市には、中心街からほんの少し入った公園の入口に、銅像はありました。地元の人もあまり知らないようで、雨だったせいもあり、私以外足を止めた人間はなかったです。


出身地と別の場所が、その人にとって、縁深い土地とされることがあります。例えば、豊臣秀吉は、現在の愛知県出身ですが、天下統一した後、大阪城にあり、秀吉と言えば大阪のイメージがあります。でも、東京で生活する私は、江戸幕府を開いた徳川家康は、東京のイメージはありません。それは江戸から東京となったからでしょうか。


五代友厚と同じ薩摩藩出身の黒田清隆は、例の官営物払下げ事件で思い出されるように、北海道札幌にはなくてはならない人となっています。この点、西郷隆盛、『せごどん』は、城山の西郷さんと言われるごとく、根っからの薩摩鹿児島の人ですね。

山梨県人のうち4分の3の方は、尊敬する人物として武田信玄をあげると聞いたことがあります(何かの統計を取ったわけではないようで、真偽はわかりません)。甲斐信濃の盟主で、信玄公亡き後武田家が滅亡したこともインパクトが強いのかもしれません。


武田信玄の好敵手上杉謙信の上杉家は、謙信公の後を継いだ上杉景勝の代に、米沢に移りましたから、上杉家と言えば、新潟よりも米沢の印象でしょうか。もともと上杉家は、関東管領の名家でしたし。

私の世代は、プロ野球は巨人が強かったこともあり、東京の早稲田実業高校から、読売巨人軍に入った王貞治氏は、どう考えても東京の人でした。ところが20代の息子たちに言わせると、王貞治氏は、福岡の人なのです。


世界のホームラン王王貞治氏は、1994年にダイエーホークスの監督になって以来、チームが福岡ソフトバンクホークスに変わり、自身が球団会長に就任した現在も、『福岡』が本拠地です。確かに、もう、20年以上経ったのかの思いです。王会長のお気持ちはわかりませんが、東京生まれで福岡がふるさとと言って憚らぬ私にとって、王貞治氏が福岡に定着?したことは、とても嬉しいことなのです。

五代友厚氏は、鹿児島県出身で、最後は東京で療養生活をされましたが、大阪の顔なのです。人間どの場所ボディションにいるときが最も力を発揮できるか、自分とその場所に何を残せたかが重要な気がいたします。


そういう意味では、『五代さま』は、まさしく大阪時代が輝いていたことは疑う人はおられないのではないでしょうか。鹿児島市の公園にある五代友厚像は、大阪の方向を向いています。きっと大阪に心を残しておられたのでしょう。飛んでいけ!と願っておられるかのように。