ある県で発覚した選挙期間中警察署による団体建物に向けて隠しカメラが設置された件に関する福本悟の見解です。

2016年8月5日
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先月行われた参議院議員選挙で、野党候補を支援した労働組合が使用する建物に出入りする人々を、警察が、数日間密かに撮影していたことについて、一部報道機関で報じられています。

 

 

まず、これがほとんど問題視されないことが、とても恐ろしいと思います。

 

選挙後この事実が明らかにされ、県警は、無断で私有地に立ち入ったことはお詫びしたと発表したそうですが、問題の本質は、そんなところにはありませんね。

 

政治活動に使われる可能性がある場所を、公権力が何のために、誰のために監視するのでしょうか?思想や信条に基づいて、市民それぞれが活動している姿が密かに監視されていた、これが何を意味するのか、県警のお偉方が知らぬわけがありません。

 

事の発端は、『被害』を受けた労組の関係者から、私有地に設置され、この労組の建物への出入りの状況を撮影している箱型の隠しカメラを発見したことが、最寄りの警察署に被害の申告がなされたことにありました。このカメラ、建物に出入りする人物が、はっきり判別される映像だったわけですが、なんと『犯人』は、被害を申告された当の警察署だったというシャレにもならない結末です。

 

被害者は、選挙の応援が、いずれかの陣営に監視されているのでは?と県警に相談したわけですが、やった張本人に相談していたわけです。 県警は、個別の被疑事案で、特定の対象者の動向を把握するためと答えたらしいですが、何の捜査で、何でこんなところ!に被疑者?が出入りする可能性があると判断されたのでしょう。

 

でも、実際は、建物に出入りする全ての人々の姿が、制限なく記録されていたわけで、全く県警の説明は説得力ないですね。しかも、カメラをどこにどう設置するか、県警の担当者が打ち合わせしているところもちゃっかり収録されていたとかで、お笑いのネタにでもなるのではとも思われます。

 

 

先の参議院議員選挙、この県は、僅か数千票や差で、現職の野党議員が当選しました。

 

また、比例代表に立候補したある野党党首のお膝元の県でもあり、この政党は、当の党首が落選して議席を失いましたが、いずれも野党側にとってはとても大切な選挙区、県であり、これは半面与党としては。何としても切れ崩したい牙城だったはずです。

 

私は、たまたま参議院議員選挙の投票日の前日にこの県に入って1泊し、投票日に出発した経験をしました。この地は、投票日前日には、今回改造された安倍内閣の閣僚を固辞した自民党有力者や、来月の党の代表選に立候補を表明した野党第1党の女性議員等が、選挙戦最後の訴えを行った激選区です。

 

県警の狙い、直接誰が指示したわけではないとしても、ある方向を向いてなされたことは、隠しようがないです。 ある県やある市の首長を務めた安倍晋三自民党総裁とは、たいへん仲が良いことで知られている政界を引退した御方は、首長に在任中から、公務員批判の世論受けを背景に、徹底的に労働組合を敵視しました。

 

そのやり過ぎは、司法の場でも指摘されましたが、公務員批判を利用した自己に対する批判者を徹底的に排撃する、要は反対者を抹殺し、好きなように政権運営を行う意図があるのです。独裁は悪いことではないなんて、堂々と公言していますし。 簡単な言葉で反対勢力を作って大衆受けするやり方は、いつの世でも行われます。この点労働組合は、世論から敵視されやすい存在だと思います。

 

労働者は仕事をしないで、政治活動を行うのか!とわかりやすいキャッチフレーズを作れば、多くの人は賛同するでしょう。 確かに単なる圧力団体となって、自分たちの利権目当てに動いている団体がないとは言いません。労組組合という団体が、主義信条を認めれ、一定の範囲で政治活動を行うことは、憲法で認められることです。

 

これを敵視する、ダメだというならば、多くの企業が政治献金をするのはどうなのでしょう。献金する目的ははっきりしていますね。裁判所は、企業法人の政党への政治献金は、法人の思想信条の自由であり、選挙権がないとは言え、法人団体の政治活動の自由を認めています。お金で政治を動かす、金で社会を支配するなんて批判をしてはいけないのです。

 

それからすれば、金がない?労組が集まって会議を行い、その後例えば街頭に出て、ビラを撒いて選挙戦の手伝いをするなんて、ライオンに蚊がとまる程度の可愛いもんじゃありませんか。 どんな政党を指示する、選挙のときどんな応援をするかは、全く自由です。

 

選挙権のある個人は、投票について、私的にも公的にも責任を問われないことは、日本国憲法に明記されています。与党を応援するいくつもの団体がありますが、そこに隠しカメラが設置されたことはあるのでしょうか。日本国憲法をなし崩し的に変えてしまおうという流れができているというか、そんな流れや風に乗り遅れないようにとの空気が、至るところで感じられます。

 

本当に恐ろしいことだと思います。

 

こんな意見も封じられるかもしれない世の中に進んでいるのは誰の登場、誰の責任なんでしょう。そんなことを言えるのも、今だけかもしれません。国民は、気づかなければりません。

 

天皇陛下の生前退位のお気持ちの表明さえ、批判する大きな団体の会長に就任されている方は、実にくだらない声であっても、気に入らない言動は許さない姿勢なのですから。マスコミの役割も、考えて欲しいです。

 

北陸新幹線で碓氷峠を超えるとき、昔日の思いが湧き出るのです。

2016年8月4日
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碓氷峠軽井沢と言えば、今年発生した悲しいスキーツアーバスの事故を忘れることはできません。

その昔鉄道少年だった私は、信越本線横川軽井沢間の勾配のための機関車連携と、停車時刻を利用して、乗客が殺到する横川の釜めしを思い出します。
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また、この『ひとりごと』でもお話ししたことがある森村誠一氏の『人間の証明』の舞台『霧積温泉』は、この辺りにあります。北陸新幹線開業により、信越本線横川軽井沢間は廃止され、横川の釜めしも、百貨店の駅弁大会やドライブインで見かける世の中になりました。でも、新幹線で通過するとき、なぜか私は、感慨深いのです。

碓氷峠は、群馬県と長野県の間にある峠です。新幹線の名前にもなっている浅間山は、軽井沢や草津からもその勇姿が望める高い山であり、長野県側は、その裾野となっているので、軽井沢から見た碓氷峠は、さほど難所ではないかもしれません。

しかし、横川から向かうと、800メートルを登ることになり、ここは『片峠』と呼ばれる江戸時代からの交通の難所でありました。そうです。鉄道が開通する前から、中山道の要所であり、横川地区は、『坂本』と言う宿場町であり、ここには関所も設けられていたそうです。この群馬県側からの急勾配ゆえに、峠を越えた長野県側では、車のスピードの出し過ぎに、注意を要します。あの悲しい事故が思い出されます。

鉄道が開通しても、碓氷峠は難所に変わりはありません。横川軽井沢間は、いわゆるアブト式と言う方法により、急勾配を上がります。そのため横川駅では、昔はED42型と言う機関車の車輪の下に歯車をつけた機関車を連結して、軽井沢まで48分かけて碓氷峠を超えました。

その後EF63型が開発されてスピードアップして、17分で結ぶことになりました。それでも機関車連結があるため、『峠の釜めし』がゲットできたのです。

私は、学生時代悪友と何回かこの峠を越えました。もちろん電車です。その都度、横川駅で走った記憶があります。売り子さんも居て、列車が発車したら整列して深々と頭をさげる姿は、駅弁売りの基本、信越本線の名物ともなっていたと思います。

今でも軽井沢駅には近くには、碓氷峠の名残りを記す機関車等が保存されています。軽井沢と言えばテニスやスキー、アウトレットやブティックまである若者の町のイメージがあります。私が学生のころも、金持ちの別荘等があって、避暑地としての人気も、博していたように思います。

北陸新幹線が開通して、横川軽井沢間の鉄道は廃止されました。碓氷峠は、新幹線が駆け上がります。でも、トンネルの中なので、あまり気づかれないかもしれませんが、登りとなる軽井沢方面に行く列車は、速度を落とします。これは、中央本線笹子峠と同じです。今でも碓氷峠を機関車に押されて越えている錯覚に陥ります。軽井沢から先は、遠くに山々は見えますが、平地が広がり、信州の広さを感じることができます。

こうして新幹線は、長野駅に到着します。

今、長野県と言えば、真田丸でしょうか。新幹線が上田駅を過ぎると、上田城址が臨めます。新幹線の車内からも、多くの人の姿が見られます。 戦国時代も、碓氷峠は、戦略上の重要な場所でした。江戸時代になって、五街道が整備され、中山道の宿場町ができても、また、明治昭和になって、鉄道が開通しても、難所であることは変わりありません。

そして新幹線が開通しても、やはり峠は峠でした。昔日の思いを巡らせているうちに、北陸新幹線『かがやき』は、碓氷峠を越えて、軽井沢駅を通過しました。

もうすぐ長野駅です。こんな『ひとりごと』を車内で書いていなければ、仕事前にも右手にあるものは……になってしまうのです。新幹線での移動、いろいろ考えてしまいます。

夏休みに入って混雑する東京駅新幹線ホームからのひとりごとです。

2016年8月3日
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きさらぎ法律事務所が新宿にあることもそのひとつの理由ですが、私は、あまりJR東京駅で乗降したことはありません。

東京駅は、東海道新幹線が開通する前までは、省線電車と言われた旧国鉄の山手線、京浜東北線、中央快速線のほかは、東海道本線横須賀線があり、始発駅でした。ローマ中央駅に似ている上野駅が、かつて北の玄関口、東北の匂いがすると言われたのに対し、高度経済成長期に、太平洋ベルト地帯を走る東海道新幹線の登場により、東京駅は、『ひかりは西へ』のキャッチフレーズとともに、関西中京等の都市圏への始発駅の感を呈するようになっていたと思います。

その後東海道山陽新幹線が博多まで開通し、さらに東北秋田山形新幹線は、上野駅から東京駅が始発駅に変わり、上越長野北陸新幹線も開通して、東京駅は、北海道北陸へ向かう始発駅ともなりました。
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さらに近年、上野東京ラインなる路線が通じて、神奈川県静岡県から、東京駅上野駅を通って埼玉県栃木県群馬県茨城県まで直通電車が運行され、東京駅は、始発駅ではなくなった感があるのです。

それと、私にとって大きいのは、湘南新宿ラインの開通です。事務所から横浜以降、浦和以降に行く場合には、今ではいずれも新宿駅から乗車します。また、私の場合、ある理由から、大阪より先には航空機を利用します。秋田山形や小松金沢にも、時間が合う限り航空機で参ります。そんな具合で、東京駅で乗降する機会はトンと少ないのです。あるとすれば新幹線で、それも、『そんなに遠くに行かない場合』となるのです。

かなり前、新幹線と言えば東海道・山陽新幹線がメインの時代、各都道府県知事が、皇居に馳せ参じるとした場合、存在する公共交通機関を利用して、数字の上で、最も時間を要する都道府県はどこか?とやっていました。
これは、航空機も新幹線もない地域だろうと想像がつきます。当時の正解?は、長野県でした。地図を見るとチョット意外な感があります。でも、東京にいる私の勝手では、新幹線や空港がない、今でも『乗り換え』を要する和歌山県とか滋賀県が、遠く感じられるのです。

そんな意味では、東京駅を始発駅にして、各地に新幹線が網羅された現在では、かなり様相が違うでしょう。当然長野県は、『いちばんの座』を降りています。北陸新幹線が金沢駅まで開通し、金沢をはじめとする北陸方面への旅行者が増大したと言われます。確かに航空機嫌いの方は少なくなく、また、空港から市内までの移動が面倒の向きもあって、新幹線開業は、人や物の移動に影響を齎したと言えるでしょう。
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ちなみに、北陸新幹線開通により、今度は長野県は、『通過地』となったと、その経済効果をより期待する声が上がっているとお聞きします。

さて、今日は、東京駅から新幹線で長野駅に向かいました。東京駅新幹線ホームは、夏休みの8月、家族連れで混雑しています。お孫さんとの旅行なのか、慣れない手つきで、新幹線をバックに写メしている高齢の方もられます。新函館北斗行き『はやぶさ』は、既に完売なのだそうです。また、お弁当屋さんの前には、長蛇の列です。これまた旅の楽しみです。

そんな中で、そこは東京駅、出張族もちらほらその姿が見られます。東京駅新幹線ホームも、東海道・山陽新幹線と東北秋田山形新幹線上越長野北陸新幹線の違いはあるものの、いろいろな方面に行く人たちが、同じホームに居合わせるのは、私が羽田空港で見かける風景と同じです。

昨夜から関東地方は、雷を伴う豪雨に見舞われました。今日東京駅から旅立つ人々が安全に、楽しく目的地に行って帰ってくることを願い、このところ続いた東京駅からの新幹線に乗車した雨上がりの朝でした。

 

スポーツには誤審はある、しかし誤審があってどうする、どうなるかが若者の人生に関わるのです。

2016年8月2日
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先月31日、全国高校野球選手権大会、甲子園への出場校が出揃いました。新顔あり、伝統校あり、ブロ野球界から指名を受けるであろう選手を擁するなどの強豪校あり、楽しみですね。高校球児たちの真摯な熱い闘い、全力プレーを期待しています。でも、観戦する人もそうですが、熱中症等にならぬよう、体調管理にご注意ください。

甲子園出場校は、北海道と東京以外は、各府県に1校です。中には200校近くの参加校がある県もあり、トーナメント式ですから、ある県ではシード校であっても県大会優勝、すなわち晴れの甲子園出場が決まるまで、7試合程度は勝ち続けなければならないと言われます。


炎天下の中、鍛え抜いた若人たちでも何があるかわからないのが予選会、今年も強豪校が甲子園出場を阻まれた例は、幾つもあるようです。そんな中、厳しい戦いを制した晴れの代表校には、お祝い申し上げ、この先の活躍を期待したいと思います。

甲子園大会もそうですが、負ければ終わりのトーナメント式ですから、選手はもちろん、学校関係者やファンも必死です。そんな彼らを思うとき、毎年のように、『誤審』があれこれ言われます。私が報道で知った限りでも、誤審かどうかは別として、3例が挙げられています。

そのひとつめは、確かに誤審と言うか、審判団の判定自体は正しかったとしても、野球ルール上審判の勘違いで、重大な局面が変わったと言うケースです。

それは2点差で迎えた9回の裏2アウト満塁の場面で、打者が2塁打を打ったと思われたところ、この打者に対する投球は、投手のボーグだとして、審判は打者が打つ前にボールデッドになったとして、各ランナーの進塁を認め、この打者の打席を続けたと言うものです。その結果、3塁ランナーの生還は認められて1点は入りましたが、仕切り直しとなったこの打者、結局三振を喫し、1点差で敗退したのでした。

野球ルール上、ポークであっても、その投球を打った打者が、ボークすなわち各ランナーの1つの走塁以上の結果を出した場合は、こちらを優先するとの野球ルールがあるそうです。そう言えば、スポーツにはアドバンテージとかバスケットカウントなんてルールがありますね。

従ってこのケース、例えポークであっても、打って2塁打となったのであれば、そちらを優先しなければならないはずです。そうすると、2点入って同点となり、次の打者の打席となって試合は続行された、すなわち、少なくとも『三振』で試合終了にはならなかったのです。これは、審判団がルールを理解していなかったと言わなけれななりません。

勝ち負けにモロに影響したのが先の例だとすると、甲子園行きが決まったと思いきや、これを逃した『事件』が起きています。場面は決勝戦、1対0で迎えた9回表、ワンアウト1塁で打者が打った打球が投手の前のゴロとなってダブルプレーでゲームセット、勝ったと信じたチームは、マウンドで指を突き出し歓喜の輪……だったのです。

ところが、攻撃側のチームが、打った打球が打者に当たって投手の前に転がったとアピール、ビデオで確認するなど審判団で協議した結果、確かにそのとおりでありファールと判定が変わったのです。そして再開された試合でこの打者はヒットを放ち、その後連打が続いてこの回4点が入って試合はひっくり返り、いったんゲームセットを言い渡されてきたチームが勝利して、甲子園を掴んだという結末です。

こちらは、『誤審』ではなく、ある意味審判団は勇気があったとも言えましょう。しかし、いったんゲームセットと思って歓喜した一方のチームは、やり直しで、もはや心が折れたことは否めないでしょう。もちろん緊張感を失わず、最後まで気力を持ってやり抜いて勝利したチームは、称えられるべきです。それにしても、なんとも気の毒な後味が……の結末でしょう。

でも、この試合の両テーム立派です。負けた方のチームは、自分たちは精一杯やったとして勝ったチームを称え、勝った方のチームは、負けた方のチームを慮って素直に勝利を喜べないが、県代表として、かのチームの分も、甲子園で全力を尽くすことを述べていました。これでは外野はあれこれ言えませんね。これだから高校野球は人気が衰えない、青春は素晴らしいと言われるのでしょう。

3つめは、こちらは青春は素晴らしい?なのか議論が出るケースです。こちらも同点の9回、ワンアウトでランナーが3塁にいた場面、投手が渾身を込めて投じたボールは、インフィールドフライとなって塁審はアウトを宣告、問題はここからでした。インフィールドフライでバッタアウト、ツーアウト3塁となったところでチョット間が空いたのか、3塁ランナーがホームインして得点が認められ、サヨナラ勝ちでゲームセットとなったのでした。

これは、アウトが宣告されて自然に?タイムがかかったと勘違いした守備についていたチームの隙をついて、ホームに駆け込んだ3塁ランナーの好プレー、おそらく冷静なベンチワークだったのでしょう。ボカンとしてサヨナラ負けが理解できない守備側のチーム、特にエースピッチャーは、呆然として試合終了の挨拶もままならない様子で、何か割り切れない感です。

こちらは、誤審でないのはもちろんです。守備側のチームが、ルールを理解していなかったというよりも、ルールは理解していても、ひとつアウトにして、チョット緊張感が抜けたのかもしれません。

これも、高校生ならではのこと、私は、このこと自体は責められないし、ましてルールに従って好走塁をした相手チームは、ズルいなんて非難は全くの的外れ、こちらも必死にプレーしたのであり、これまた高校野球らしいと言えます。

これらから学ぶことは、ここでの勝負は、これからの人生のひとつのプロセス、これを糧に勝ったと思える人生を送ることの大切さでしょう。ここに挙げた例、やろうと思ってできることではありません。


今でこそ外野は誤審がどうのとか、フェアプレーがどうのとか勝手な解説をしています。どうか高校生のみなさん、外野の声に惑わされず、これまでやってきたことは間違いではないはず、結果は人生のどこかで必ず現れますから、自分を信じ、仲間を信じて、一生懸命やり遂げてください。スポーツっていいな、青春っていいなと思う中年男?のひとりごとでありました。

 

東京都知事選挙の日に逝った小さな巨星の生涯と報道で知る因縁に寄せて。

2016年8月1日
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また昭和から平成に跨って、一つの時代を構築した大横綱が、鬼籍に入りました。横綱千代の富士、九重親方の訃報が入りました。まだ61歳で、惜しむ声は跡を絶ちません。さぞかしご本人は、やり残しがあって、無念だったでしょう。

ご冥福をお祈りいたします。訃報に接した先代九重親方の北の富士勝昭氏曰はこのように言われました。なぜ強い者が先に行くのか、大鵬親方、北の湖親方、そして一代年寄の襲名を辞退した角界初の国民栄誉賞、千代の富士こと九重親方………。

横綱千代の富士は、史上3位の歴代31回の優勝を記録し、昭和最後の土俵を飾った横綱でした。その小さな鍛え抜かれた体で、大きな力士の懐に入って投げ落とす『ウルフ』と言われる厳しくも優しい目をして、現役引退後も、後進の指導に当たられ、先のとおり国民栄誉賞を受賞されました。

同じ九重部屋の後輩横綱北勝海の現八角理事長とは現役引退後も、相撲界の将来について語り合い、様々な提案もされ、また、若い貴乃花親方等に対しても、暖かく接して次の世代への期待もなさっておりました。北の湖親方しかり、なんとも早すぎやる鬼籍入りです。

九重親方は、子どものころから抜群の運動能力をお持ちでした。角界に入ったきっかけは、同郷の横綱千代の山の九重親方が、この少年の噂を聞きつけ、強烈にスカウトしたからだそうです。曰く、『飛行機に乗せてやるぞ!』この一言で、大横綱千代の富士が誕生したのです。

そう言えば、千代の山、北の富士、そして千代の富士も、また北の湖も北勝海も、北海道出身でした。大横綱大鵬もそうですね。大鵬、北の湖も同様、郷里には、千代の山千代の富士の偉業を讃える記念館が、開館しています。

千代の富士関は、まだ三役に昇進する前、土俵にたくさんの塩を投げて蒔いたことが思い出されます。また、上位陣であっても、制限時間いっぱいとなったとき、眼光鋭く目を離さないことも、印象深いです。その後さらに番付を上げ、関脇そして大関でも優勝し、横綱に上り詰められました。その中でも、大関貴ノ花を引退に追い込んだ取り組みと、横綱北の湖を破って優勝した取り組みは、まさに世代交代、ウルフ時代の到来を予感させるものがありました。

私は、それほど相撲に詳しいわけではありませんし、テレビはほとんど見たことはありませんでした。そんな私でも、千代の富士関には、因縁を感じる出来事、まさに大横綱千代の富士であるがゆえにあり得たシーンを、はっきり覚えているのです。それは、ふたりの貴ノ花との奇遇な縁です。

1980年の九州場所、既に三役に定着していた千代の富士は、人気力士大関貴ノ花との1番に臨みました。結果は、千代の富士の一方的な相撲となって、この1番で、体力の現界を悟った当時30歳の貴ノ花、その後鬼籍に入られた二子山親方は、引退を決意しました。

そしてその10年後、誰よりも貴ノ花に憧れ、貴ノ花を目標にして精進してきた1991年夏場所、若手のホープ18歳の貴花田の力相撲に、大横綱千代の富士は屈し、その2日後、体力気力の現界を理由に千代の富士は、角界からの引退を表明したのです。そうです。この貴花田こそ、後の横綱貴乃花、すなわち現在の貴乃花親方なのです。 

その貴乃花親方、今は厳粛に厳粛に受け止めていますと哀悼の意を捧げられました。まだ下積みの時代、胸を借りた大横綱から、早く上がってこい!と激励の言葉をかけられたこと、先の理事長選挙では、頑なな心を抱きしめてくれたこと等、人知れず苦労を抱えながらも、人生をかけて後進を守り抜いていただいたことは、誇りとなっていることを述べられました。

そして貴乃花親方は、北の湖理事長、九重親方、さらに父である元二子山親方初代貴ノ花は、自分の肉眼では姿を捉えられないところに往ってしまったことで、虚しく、寂しい気持ちを露わにされているのです。

大相撲は国技、しばしば日本人の横綱が誕生しないことをあれこれ言うことが聞かれます。


若・貴以降横綱が誕生しないことは事実です。でも、こうして角界の伝統は、しっとり受け継がれています。貴乃花親方はじめ次の世代は、しっかり先人の背中を見ています。東京都知事選挙の日、またひとつ巨星が落ちた思いです。合掌。