何回も言います。『強い国より優しい国』

2016年3月4日
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認知症の高齢者が、列車にはねられて鉄道会社に損害が発生した場合に、家族が損害賠償責任を負うかどうかについて、先日最高裁判所の判決がありました。

 

この民事訴訟は、認知症の当時91歳の男性が、妻と同居していたところ、80代で、要介護1の妻が少しウトウトしていたときに家から出て徘徊、JR東海の駅に入り込んで列車にはねられて死亡したというもので、この人の行動により列車遅延や振替輸送等の影響、損害が発生したとして、JR東海が、同居していた妻と、横浜市に居て、この男性の介護の計画を立案し、また、ときに男性宅に来て居た長男に対して、約720万円の損害賠償請求をしたという事案です。

 

他人に損害を与えても、その人に責任能力がない場合には、当人は、責任を負いません。民法は、そのような場合、これの監督責任者が、損害賠償責任を負うとしています。

 

これは被害者保護の観点から存在する規定とされ、例えば、未成年者が他人に損害を蒙らせた場合等が想定されていたと言われます。監督責任者が、監督義務を怠らなかったことを立証できた場合には、責任を免れる理屈にはなっておりますが、事実上判例上、それが認めれれたケースはないと言うのが、我々法律実務家の印象です。

 

この事案の一審は、この男性の妻と長男いずれにも監督義務者としての責任を認め、JR東海の請求を認めました。これには大きな反響がありました。二審は、別居生活を送る長男は、監督義務者に当たらないとしたものの、妻については要介護者であった等を考慮して賠償額を減じたものの、やはり責任を肯定したのでした。

 

さらに世間の注目を受けるごとになりました。多くの識者、介護関係者や、認知症の家族を介護する方々からは、裁判所は無理解だとして批判がなされていたものです。 最高裁判所は、同居の夫婦だからと言って、当然に監督義務者になるわけではなく、介護の実態を総合考慮して判断すべきだと判示しました。

 

そして本件では、両名ともに監督義務者には当たらないとしてその責任を否定、原告の請求を棄却したのです。この判決に対しては、概ね肯定的な意見が寄せられていると感じます。 私の意見は、結論は判示に賛成です。ただ少し意見を言いたくなりました。

 

気になる点がいくつかあります。この『ひとりごと』でもよく申しますが、裁判所の仕事は、具体的事件に対する法的判断を行うことです。司法試験を受けていたころから、私が心掛けていたのは、事実の認定、法規の適用、法律解釈、あてはめの論法です。

 

そして具体的妥当性を考える必要があります。司法修習生のときは、『事件の筋』とか『落ち着き』とか教えられたことでもあります。例えば、未成年者であっても、何歳から責任能力があるのか確定できないのは、個別事案の解決、すなわち具体的妥当性を考えるからです。

 

資力が乏しいと思われる未成年者の『責任』を肯定しても、被害者保護にはなり得ないのです。 最高裁判所が、一律に『こうだ!』と決めず、個別的具体的事案に応じて判断すべきとした背景は、理解できます。『被害者』が大企業だから構わないとまでは申しませんが、少なくない認知症の方が、鉄道事故で亡くなっているとされる現実があり、鉄道会社もこれを防ぐために様々な策を講じているものの、なかなかうまくいかないようです。

 

そうだとすると、万一悲劇が起きた場合、危険をそして負担をどのように社会が分かち合うかの観点で考えるべきと言えるのではないでしょうか? 少し前に、この『ひとりごと』で、JR東海は、政府から『政策減税』を受けていると書きました。税金を負けてもらったのは、国民のため、社会に還元することが期待されているからでしょう。

 

もし、この男性が、自宅近くで徘徊しているときに、乳母車の赤ちゃんにぶつかって負傷させた場合なら、社会の見方も変わったかもしれません。それと、下級審と言われる裁判所は、とかく最高裁判所の過去の判例を意識します。

 

先日の再婚禁止期間やいわゆる300日問題に関しては、おそらく時代の変化、人々の意識の多様性から、個々の裁判官は、疑問を抱いていたのではないかと思うのですが、新しい最高裁判所の判断が為されない限り、思い切った判断をすることには、躊躇するむきがあると思っています。

 

最高裁判所の裁判官は高齢です。将来ご自身が認知症になることを想定して判決した方はおられないと思いますが、やはり社会経験、人生の先輩としての見方を示して欲しいとも思います。ハッキリ言って、最高裁判所裁判官の後の『出世』を考える必要もありませんから。それで、少し心配なところもあります。

 

5人の裁判官のうち2人は、この事案の長男については、監督義務者だとした上で、監督義務を怠らなかったとして免責したことです。 この事案の長男の方の判決後のコメントには、長かった8年間の思いが詰まっておりました。まさに、認知症の父親のために懸命な看護介護をしていたのでしょう。私には要介護5の高齢の母がおります。

 

認知症ではありませんが、とうてい在宅介護は困難で、近くの施設で生活しています。それでも施設側とは細々とした介護に関する打ち合わせを行い、また、報告を受け、判断を求めれることがあります。長男である私は、おそらく監督義務者に当たるのでは?と思いました。

 

でも、その義務を尽くしていることになるかと言えば、そうだ!と言える自信、厚かましさは持ち合わしません。あの意見を出した最高裁判所裁判官は、あるいはご自身の将来を案じて、子どもは親を助けるべきとの古典的観念があったでは?と失礼なことを考えたりします。 数年後には、高齢者のうち5.6人にひとりが認知症になると言われております。

 

この問題は、社会全体の問題であることは明らかです。『小さな政府』の名の下に、国や行政が個人をサポートしない、面倒を見ない世の中になって、在宅看護の推進もそうですが、なんでも個人でやれの風潮です。

 

強い国とか経済とか言っていますが、アレって本当に少子高齢化社会に合致した政策?なのでしょうか。

 

経済の成長とは、年寄りにドーピングしてもっと早く走れと言うのと同じことだと例えた経済評論家がおりました。繰り返し言います。『強い国ではなく、優しい国』。