私が福岡市を、『アビスパ福岡』を語る上で、しばしば出てくる話として、『博多と明太子とふくや』の関係です。 福岡市博多区中州に本店がある明太子の老舗『ふくや』さん、初代川原敏夫氏は、日本にめんたいをもたらした方です。『ふくや』の店頭に初めて明太子が並んだのは、1949年(昭和24年)1月10日だったことから、日本では、1月10日が『明太子の日』とされていることは、この『ひとりごと』でもご案内しました。 川原敏夫氏は、朝鮮半島釜山から博多に引き上げた方ですが、釜山で食したスケトウダラ、これを明太すなわちミョンチと韓国では言うそうですが、これの唐辛子漬の味が忘れられず、自分を受け入れてくれた博多の人たちに味わってもらいたい思いから、福岡博多の、そして日本人に合った明太子を作ったのでした。 スケトウダラは、福岡沖では獲れません。私は、明太子が福岡の名産品になったわけは、長い間知りませんでした。要するに、川原敏夫氏が連れてきたのです。人により、人の動きによって、その街の名物が作られることは結構ありますね。宇都宮の餃子もそのひとつだと思います。先日宇都宮に行く用がありまして、餃子と⚪️⚪️⚪️をやりながら、パンフレットを見て、宇都宮と餃子の歴史を知りました。 宇都宮の餃子の始まりは、戦前陸軍第14師団が、補充担任を宇都宮師管区として、昭和15年以降満州チチハルに進駐、戦後宇都宮の復員した将兵が、満州で食べた餃子の味を思い出して作るようになり、市民に溶け込んだのだそうです。宇都宮の気候は、餃子の原料となる小麦粉や白菜の生産に適していたことも、餃子の街となった一因と言われます。宇都宮と毎年『餃子日本一』の座を争う浜松市も事情は同じようです。こちらももと満州にいた復員兵が、市内で餃子の屋台を引いたのが最初と言われています。ただ、浜松市では、戦前より、市内の中国人が開いていた中華料理店では、既に焼き餃子が出ていたとの説もあり、宇都宮と浜松どちらが早いのかは別として、いずれも中国、満州がルーツだったことは間違いなさそうでです。 この例のように、人が物を運ぶ、美味しい物には国境はないことに気づきます。中華麺のイメージがあるラーメンですが、逆に日本から韓国にもたらされたとも言われているようです。なぜ朝鮮半島や旧満州の食べ物が日本にもたらされたのか、そこもまた『歴史』です。都合の悪い歴史は引き継がないのはアンフェアですね。まさしく美味しいとこ取りでしょう。
ふくやの川原敏夫氏は、こんなことも仰っています。福岡博多は、何の縁もゆかりも無い自分を受け入れてくれた、そして、自分は、先の大戦で沖縄戦に駆り出され、多くの人間が死んでいくところを見てきた、自分は生かされた、朝鮮半島釜山でも、なんとか生き延びて、命からがら帰国できた、多くの人の生き死にを見て、多くの人に支えられて生きられた、そして博多の人は受け入れてくれた、だから感謝の気持ちを持って、精一杯美味しい明太子を食べていただきたいと言うのです。 日本と韓国、中国は、戦後友好を深めてまいりましたが、なお心底分かち合えないところがあるようです。ある内閣になってからは、特にそう感じますし、ネット上で見られる国民の意識からも、感じることがあります。そんなときは、明太子や餃子を思い出しましょう。美味しい餃子を食べながら、こんなことを宇都宮で考えております。