今日は、長野県飯田市に行きました。長野県のいちばん南に位置する市で人口10万人超、県内では長野市、松本市、上田市に次ぐ人口となっています。 まさしく信州の南、『信南』と言われる地域で、中央高地式気候と太平洋側気候を併せ持つ長野県内では、比較的温暖な地域とされています。南アルプスと中央アルプス囲まれたなだらかな地形で、夏の昼間、猛暑でも25℃以上の熱帯夜にはならない反面、2年前には、観測記録を更新したこともあり、最近りんごの産地として力を入れているようです。 飯田市と言えば、武田信玄を思い出す人は、相当な歴史通か信玄公の信者でしょう。現在の飯田市は、戦国時代武田信玄が攻略して、24将にも加えられる秋山信友を置いたところ、京へと進んだ三方ヶ原の戦いで徳川家康を蹴散らし、織田信長を震撼させたところで病に倒れ、甲斐の国に戻る途中、『3年間は死を伏せろ』との遺言を残して、飯田市の隣、現在の下伊那郡阿智町で、武田信玄は亡くなったとされるのです。この地で荼毘に付され、遺骸は、近くの長岳寺に埋葬されたのではないかと言われております。 現在放映中のNHK大河ドラマ『真田丸』では、真田幸村こと真田信繁の父真田昌幸は、武田信玄を崇敬し、信玄公の領地を我が物にする強い意思が伝わります。信玄死後の武田家の衰退を招いた長篠の合戦以後、この信南地域は、徐々に武田家の勢力が失われ、やがて木曽義昌の裏切り、武田信廉の逃走により、そして穴山梅雪、小山田信茂らの離反により、武田勝頼は、天目山の露と消えるのでした。その意味で、この地域は、武田家にとっては、栄枯盛衰の象徴の地でもあります。 今日は、飯田市に行くにあたり、武田家を滅ぼした織田信長を生んだ尾張名古屋から入り、帰りは天竜川を横目しながら、信南から三河へ、そして長篠を通って在りし日の武田家に想いを馳せることになりました。余計なことですが、武田家の家紋とされる四つ割菱は、『福本家』も使用しているのです。歳を重ねる毎に、『信玄公』が気になって仕方ない福本悟です。 話が脱線しました。飯田市は、今、あるところから、注目を浴びています。リニア中央新幹線が開通すると、飯田市に新駅が開業するのです。リニア中央新幹線の是非は別として、開業する新幹線の駅は、各県ひとつとされていたので、県内各地で誘致の争いが起きました。それは、北陸新幹線敦賀新大阪間の路線決定とも似ています。結局、品川から名古屋への直線距離上にある飯田市に、新駅が出来ることに決まりました。 要するに、これまで東京からも名古屋からも、長野市からも行き来に時間を要した信南の中心飯田市に、東京品川から40分、名古屋市から20分で到着できるのです。それで、東京と名古屋の通勤圏になり、またセカンドハウスや老後の住居あるいは別荘を求めて、土地に纏わる取引が盛んになることが予想されます。首都圏では、神奈川県相模原市の橋本周辺が、同じ理由で、地価高騰が予想されております。 最近見直しされている田中角栄元内閣総理大臣は、日本列島改造論を立ち上げました。日本各地を結ぶ高速道路ができ、族議員なんて用語も生まれましたが、なんとかミクスのように、田中列島改造論なんて言わないところは、謙虚な庶民派だと思います。この高速道路の開通により、都市と地方の行き来が容易になったことは否定できません。 今度は、政府与党により、十分なまでに税金の優遇を受けたJR東海によるリニア中央新幹線です。でも、過疎地と都市部を結ぶと言う意味よりも、より早く、より便利にが優先され、サラリーマンには、過酷な労働が強いられるのではないかと心配です。飯田市等が活性化するのは良いですが。 飯田市からの帰りは、豊橋駅まで、飯田線特急『ワイドビュー伊那路』を利用しています。ここは天竜川を横目に、山を縫うように鉄道が走っており、トンネルとカーブが多いです。 最近流行りの『秘境駅ツアー』として人気があるそうです。飯田駅から豊橋駅まで、『特急』で、2時間30分かかります。昔の人、戦国時代の武田武士は、こんなところを踏破したのだと思うと驚きしかありません。そうまでして、戦いを終え、天下統一しなければならなかった時代の厳しさを、難所続きの飯田線の車中から、垣間見た気がしました。電車は、『本長篠駅』に到達しました。