最近、徳川幕府、そして田中角栄氏を評価する声が聞かれます。
ともに外に向かって敵を作らず、戦闘行為がなく、国内でも大きな対立はなく、それなりに人々は納得して生きていたと言われるのです。特に田中角栄氏は、『昭和の顔』のトップに選ばれたこともあるようです。
日本が鎖国から目覚め、幕府の力が衰え、尊王攘夷が叫ばれてやがて倒幕に、そして明治維新を迎えました。若き志士たちが血を流し、王政復古を成し遂げて新しい国を作ろうとしたことで、幕末維新は、若者や歴女からも注目される時代のようです。確かに明治になり、新らしい国の骨格が決まり、近代化されていく過程は、私の時代の社会科の入試でも、いちばん試験に出るとされた部分でもありました。
数年前、NHKで、年末に3年間にわたって『坂の上の雲』と言うドラマが放映されました。これは司馬遼太郎氏が、なかなかテレビ化を承認されなかった名作であり、私も放映を楽しみにしていたものでした。ただ、なんとなく、私なりの勝手な解釈ですが、この時代を、そしてこのドラマをどう捉えるか、司馬遼太郎氏自身、幾らかの不安を感じておられたのではないかと思いました。
『坂の上の雲』には、3人の主人公がいます。いずれも幕末に四国松山で生まれ、それぞれの道で、日本の明治時代を支えることになる人物です。秋山好古、秋山真之、そして正岡子規です。司馬遼太郎氏の原作はともかく、あえて言えば、NHKでは、本木雅之さん演じる秋山真之に、スポットライトを当ててていたように思われます。
秋山好古は、大日本帝国陸軍の軍人で、陸軍大将にもなった人物ですが、日本騎兵の父とも言われます。秋山真之は、帝国海軍の軍人で、バルチック艦隊を迎え撃った日本海大海戦の折の作戦参謀で、彼が打電した『天気晴朗なれど波高し』は、今の世にも、あちらこちで使われているのです。正岡子規は、俳人歌人として知られますが、新聞記者の経験もあって、小説や評論の世界にも通じ、日本の近代文学に大きな影響を与えた国語学研究家であります。この3人が、幼少期から、松山での知り合い、遊び仲間であったことから、物語は始まりました。
司馬遼太郎氏は、もと新聞記者ですが、先の大戦で、壊滅的な結末を迎えた日本が、そこに至るまで、どのように近代国家として体をなしたかに関心を持っていました。明治維新により、急速に近代化した日本は、西欧列挙に学び、渡り合っていくにあたっては、やがては手が届くと思って登り始めたが、途方もなく遠く、長い道のりであったと言う、達成感よりも哀しさが残る感覚を、『坂の上の雲』と言う題名に残したのだと評価されています。『坂の上の雲』は、小説だけれども、司馬遼太郎氏は、事実のみ書いたと述懐されています。
ただ、明治初期の若者たちが、自己の志を、国家の進展と同じように捉え、それが秋山好古の騎兵隊であり、秋山真之の海軍戦術てあり、正岡子規の日本語による散文改革だったとの立場が出ていて、特に後半は、日露戦争が大半を割いているため、戦争賛美の作品と捉えられる危惧から、先のとおり司馬遼太郎氏は、この作品の映像化ドラマ化には、承諾されなかったと言うのが、NHKプロデューサーの弁でありました。
司馬遼太郎氏の相続人により、松山市に『坂の上の雲ミュージアム』が開設の許可を受けられましたが、そこには、『特定の政治、思想、信条を極端に賛美しない』という意図で開設にこぎつけたものでした。 NHKで放映された坂の上の雲、秋山真之の親友であって、旅順港閉塞作戦で落命した広瀬武夫中佐は、私が関心を持っていた歴史上の人物です。今では名俳優の仲間入りをされている元五輪選手藤本隆宏さんが演じましたね。
『杉野はいずこ』の歌で知られる広瀬武夫中佐、日本の軍神第1号として靖国神社に祀られ、かの石原慎太郎氏が、広瀬武夫氏の血染めのタオル?を保管していると報道されたこともありました。広瀬武夫氏の出身地大分県竹田市には、広瀬神社があり、市の博物館前には、その銅像があります。私は、『3分の2』に関して、あまりにも国民の意識が欠落していることに、もう居ても立っても居られない思いで、参議院議員選挙の日、大分県のある場所に行くため、前日、ついでと言っては失礼ですが、竹田市に行きました。私が見た広瀬武夫氏の銅像には、広瀬武夫氏が心優しい明治の男として紹介されていました。
軍神だとか英雄だとか無縁です。これは藤本隆宏さん演じる広瀬武夫そのままでした。そして私は先日松山市を訪れ、『坂の上の雲ミュージアム』に入館しました。『坂の上の雲ミュージアム』、まさしく特定の……のとおり、子どもや学生主婦らが勉強するスペースが設けられるているなど、日露戦争を持ち上げ、軍人らを讃えるものではありません。そこには静かに明治が、松山市が流れていました。
最近ある報道で、日本が、先の大戦であのような結末を迎えた、そしてそのように突き進んだのは、日露戦争に勝った!と言う勘違いがあったからだとする意見が、掲載されていることを知りました。私はもう、歴史に関心を持った当初から、日露戦争は負けなかったと言う認識です。セオドアルーズベルト大統領の仲介を得たのは、政治力であり、全権大使小村寿太郎外務大臣ならずとも、戦争が終わってよかった、負けなくてよかったと本当は思っていたのです。しかし、国民は、日比谷焼き打ち事件しかり、もう真実を見る目がなくなっています。カッコいい言葉に騙されています。そしてそのまま先の大戦に進む政府軍部を持て囃し、国民一体となった突き進んでしまったのでした。
私は、豊後竹田そして松山市に坂の上の雲の登場人物の足跡を辿り、彼らは決して英雄でも救国の主でもないことに、気づかされれました。少なくともご本人は、そうお思いだと受け取っています。それは、NHK『坂の上の雲』での秋山好古、秋山真之、広瀬武夫各人の描かれ方で確信しました。あの時代、志を持ち、優しさを持ち、生きていく過程で遭遇し、その場面で最大の力を発揮した先人たち、悔いはないでしょう。見事です。しかし、その後の日本が進んだ道、その過程で自分たちがいかなる評価され、後の世の人々に伝えられたかには、さて、どのように思われているでしょうか。
『世界一』とか、『強い』がある方から、盛んに述べられる昨今です。『我が軍』と言い、自衛隊員らを特に讃える言動をし、その賛同を求めます。 今年の12月、かつて戦ったロシア国の大統領が来日し、北方領土問題に大きな進展があるのではないかと言われています。ロシアのプーチン大統領、以前から『引き分け』という言葉を日本国民に贈りたいとしています。
かの日露戦争は、『引き分け』ではないかもしれませんが、日本は負けなかったと理解する私からすると、予定される『下関会談』の結果、あるお方が、こんなことを言われたら怖いと思います。『日本国民の念願が、我が内閣により叶った、北方四島のうち歯舞群島、色丹島が返還された。これは歴史的勝利であり、我が内閣の成果である』と。
そしてその直後に行われる衆議院議員総選挙、いよいよ憲法が変わってしまいます。日露戦争から学ぶのは、私なんかではなく、どなたかであるべきなのです。そんなことを松山市で考えてしまいました。