エアドゥの機内誌から、なぜか存在する北海道への思い、自分祖先や親に対して、柄にもなく思いを馳せたひとりごとです。

2016年9月5日
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森進一さんのヒット曲の中に、『港町ブルース』がありました。「背のびして見る海峡を、今日も汽笛が遠ざかる。あなたにあげた夜をかえして。港、港函館、通り雨…」。これは北海道の入口津軽海峡を臨む街函館から、森進一さんの故郷、旅路の果て鹿児島までの港町を、女心に合わせて歌ったものです。

港町と女心、酒、別れ、なんか合うのですね。その他、港町を歌った数々の名曲があります。

特に北海道は、演歌の舞台。石原裕次郎さんの名曲、『北の旅人』では、釧路、函館、小樽が出てきます。確かにこの3都市は、道内の港町として知名度があります。釧路の夜、釧路川、函館の女、立待岬、小樽のひとよ、小樽運河等等、この港町を舞台にした名曲は、時を超えて日本人の心にしっかりと刻まれているようです。
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ところで先日、北海道を本拠地とする航空会社エアドゥの機内誌に、釧路、函館、小樽とは違った港町3都市が案内されていました。『ぶらり港町』と題する旅人への誘い、それは太平洋、日本海、オホーツク海の3方を海に囲まれた北海道の海岸線の至る所には、漁港と人の暮らしがあって、北の海の幸と風情を求めて気ままにのんびり歩くのもまた一興と受け取りました。「あぁ、そうなんだ」と気づかされて興味をそそられ、また、「うん、知ってよ」と納得し、少し嬉しくなった箇所もありました。しばし『ひとりごと』に付き合いください。

今回エアドゥの機内誌が誘うのは、網走、えりも町、室蘭市の3箇所でした。網走と言えばオホーツク海の代表的都市、厳冬の時期には、シベリアアムール川から流氷が接岸します。えりも町は、森進一さんの『襟裳岬』で知られる岬から太平洋沖へと、ただひたすらに岩礁が続く強風の町です。室蘭市は、内浦湾に面する道内では降雪の少ない工業都市、かつては『鉄の町』と言われた景勝地でもあります。この3都市に、それぞれ秋の味覚を味わうテーマで、のんびりとした旅が始まるのです。

網走の海の代表は、『きんき』です。この機内誌にも、詳しく案内されていました。基本的に秋から冬の魚ですが、網走では、『きんきの一本釣り』の漁師さんがいらっしゃいます。都内の百貨店でも、たまに目にしますが、かなり高い魚です。脂ののりから、煮付けと焼きが美味しいと言われます。

たまにすすきので出会う機会がありますが、なぜ私がきんきを知り、それなりに詳しいのかと言えば、九州そして福岡大好き人間の私は、『赤むつ』贔屓だからです。白身のトロとも言われる、かの錦織圭さんの「のどぐろが食べたい!」発言で、のどぐろの呼び名で知られてしまった赤むつ、私は、赤むつこそ私が知りうる魚の中で、最も美味しい魚だと思っていて、『きんき』はライバルに当たるからなのです。

煮付けは赤むつと信じている私からいたしますと、一本釣りであること、煮付けと焼きも美味しいこと、白身で脂ののり抜群であること等、赤むつが西の横綱なら、きんきは北の横綱なのです。きんきは、流氷が来るころには漁が終わります。流氷を見損じた人が、また翌年流氷遭遇に挑戦して、網走を訪れるのと交代するように、きんきはその時期、厳冬の海の中に姿を隠すのだそうです。実は私も網走からの流氷を見損じたひとりです。数年後再挑戦しようと思っていますが、そのとききんきには会えないでしょう。やはり幻の手が出ない魚なんです。

えりも町は、日高山脈がそのまま海中になだれ込んだような地形の風が強い町として知られています。なんでも風速10m以上を超える風が、年間260日も観測される太平洋に突き出た港町です。えりも町と言えばまず、『日高昆布』ですね。それと、この近くには太平洋に注ぐ川が幾つかあり、この時期は、サケ漁も盛んです。北海道を代表する貝は、ホタテ、ホッキ、ツブの3つですが、札幌や小樽の市場でも、大きな殻に入った日高産真ツブを見かけます。この日高地方、実は、私の父方の祖母が生まれたところであることが、祖母が亡くなって30年も経過した数年前にわかりました。

祖母自身、おそらく道内での生活は、覚えていなかったのではないかと想像される戦前戦中、そして戦後の引き揚げ等の厳しい生活を余儀なくされていたのです。未だ見ぬ襟裳岬、いつか私は立ってみたいと思いました。

そして3つ目は室蘭市です。室蘭は、高度経済成長期には、製鉄、造船等の重工業を支えたパワー溢れる町でした。私の父は船乗りで、世界各地に貨物を運んでおりましたが、ときどき北海道では室蘭港に入った記憶があります。かつては北海道の工業の中心の町であり、政財界で名を成した人が多く出入りしていたことから、和食や懐石料理店は、古くからあったそうです。

室蘭市は、穏やかな内浦湾に面しているので、カレイやコマイ等の北海道の食卓に上がる常連の魚はもちろん、最近では、『ソイ』の町として売り出しているのだそうです。ソイ、東京あたりでは、『黒そい』と呼ばれる白身の刺身として重宝される魚は、鯛が獲れない北海道では、『北海道の鯛』とも称されるようです。確かに鯛に、大きさでは見劣りしませんし、値段もそこそこ、都内の北海道をウリにする居酒屋でも、お目にかかれる逸品であります。

ソイの生態は知りませんが、寒さが緩む室蘭あたりの海には、本当に鯛が現れるのではないかと思わせる『ソイ』の水揚げの話題です。そしてこの室蘭市、今では、夜景都市としても、道内では有名だそうです。夜景と言えば、昨年日本三大夜景に藻岩山からの夜景がランクインした札幌市が有名ですが。室蘭市のそれは、ひと味違うのです。すなわち、工場群の室蘭港からの夜景なのです。この工場夜景は、川崎市が力を入れていることが知られています。室蘭市と川崎市、後先に関係なく、街づくりにアピールしていただきたいと思います。

そんなことを考えておりましたら、新千歳空港からの搭乗機は、羽田空港A滑走路に進入しました。A滑走路の左手には、川崎市の工場群の夜景が、煌びやかに見えます。川崎市は、私の両親が定着した都市、私も数年暮らしました。

北海道と東京、遠くて近い、違うようで似ている、機内誌を読んで、なぜ私が祖母や両親のことに思いを馳せたか、数日したらここに書くことがあるかとしれません。『北海道の港町』から、いささか脱線した『ひとりごと』だったかもしれません。

 

NHK大河ドラマ『真田丸』、いよいよ『犬伏の別れ』です。

2016年9月2日
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NHK大河ドラマ『真田丸』は、いよいよ最大の見せ場『犬伏の別れ』が放映されます。


歴史通の間では、広く知られた場面ですが、その意義評価、特に真田昌幸の真意に関する捉え方は様々で、栃木県佐野市にある『犬伏』ですが、実際どこで『別れの話し合い』がなされたかも、複数説が分かれているのです。ただ明らかに言えることは、この場面、登場人物は、真田昌幸、真田信之(信幸)、真田幸村(信繁)の3名であること、この『別れ』の結果、3人それぞれの運命、真田家のその後が決まったと言う事実です。

少しおさらいしましょう。

犬伏の別れは、関ヶ原の戦いの直前になされています。太閤豊臣秀吉が死去後、遺児豊臣秀頼を盛り立て、忠誠を誓うことになっており、徳川家康もまた、かたちの上では豊臣の臣下でありました。

ところで石田三成を中心とする文治派と、いわゆる7将を代表にする武断派との対立があって、秀吉亡き後の豊臣体制は、一枚岩ではありません。

それは豊臣武士団の分裂を、徳川家康が利用したわけです。きっかけとなったのは、石田三成の朋友とされる直江兼続が、徳川家康に充てたいわゆる『直江状』に憤慨した徳川家康が、直江兼続の主君上杉景勝に謀反の疑いがあるとして、豊臣武士団を引き連れて、大阪伏見から東国に進軍したとき、近江の国佐和山城で謹慎していた石田三成が、反家康の旗を揚げたことが、関ヶ原の戦いに、その前提となる『犬伏の別れ』につながるものです。

真田家は、信州小県郡、現在の上田市を中心に勢力を築いており、もともとどんな巨大勢力にもつかない歴史がありました。

真田昌幸の父幸隆が、そのころ力をつけてきた甲斐の国の武田信玄に惚れ込み、真田昌幸を含む子らとともに信玄の家臣となったことが、真田昌幸そして信幸、幸村兄弟が世に出る契機となったものです。

真田昌幸は、若いころより武田信玄の下で帝王学を学び、長篠の戦いで兄2人が戦死したことから家督を継いだもので、他国の侵略を許さないと言う真田家の伝統と、偉大な軍略家であり、政治家である武田信玄への崇敬の念を併せ持つて、信長秀吉家康の時代を生き、これらと張り合うことになるのです。

これまでの歴史物では、真田昌幸そして幸村の家康嫌いが強く現れていたと思います。この点『真田丸』では、それもそうですが、信玄公に対する尊敬の念と、『あのころ』に戻りたい真田昌幸の思いが強く出ているように思います。


『犬伏の別れ』では、どのように描かれるかわかりませんが、草刈正雄さん演じる真田昌幸は、あのころの夢をもう一度のような、これまでといくらか異なる脚本になるのではと予想しています。

『犬伏の別れ』に関する解釈は様々です。その中で、『通説』とされていたのは、戦国の世をしぶとく生きぬいた真田昌幸は、豊臣徳川どちらの世になったとしても、真田家が存続できるよう我が子をそれぞれに分けて、自らは嫌いな家康をコケにしてやろう、最後の戦国武士の面目を示してやろうと考えたとされているのです。私もこの見解を基本的に支持していました。

これに加えて真田幸村は、上杉家に人質として出されたのに、上杉景勝や直江兼続によりしっかり教育されて幾分恩義を感じていたこと、かつての第一次上田合戦では家康軍を蹴散らし、また信玄公時代には、三方ヶ原の戦いで、家康を追い詰めていて、あの無様な家康の天下など見たくないとの思いが重なっていたと考えていました。

ただ最近では、別の見方があるようです。『真田丸』でもよく現れていますが、大泉洋さん演じる真田信之の正室は、徳川四天王のひとり本多忠勝であり、一時期信之は、家康の配下に入っていて、その政治力、すなわち乱世を終わらせるのは家康しかないと傾倒していた傾向があったのではないか、また、真田昌幸の妻は、石田三成の妻とは親戚関係にあり、真田信繁の正室もまた、石田三成とは親友である大谷吉継の娘であること、すなわち、姻戚関係により必然的に真田昌幸と信繁は西軍、真田信之は東軍に分かれたのだという説です。

さて、草刈正雄さんではなくて、真田昌幸さん、どういたしましょうか?と言うよりも、三谷幸喜さん、まさかいつかあったシーンのように、『くじ引き』ではないですね。

『犬伏の別れ』は、悲愴的な別れと言うよりも、大きな決意を持った新たな出発のときであったでしょう。直接関ヶ原の戦いには影響されなかったとは言え、第2次上田合戦の顛末は、徳川家康の逆鱗に触れ、真田昌幸信繁親子は死罪となるところ、真田信之そして本多忠勝の執り成しで、両名は、高野山への追放となったのです。

そして真田信幸は、信州松代藩を与えられ、これが幕末まで続き、恩田民親、佐久間象山らを輩出する徳川譜代と同格の扱いを受けたのでした。

『真田丸』とは、大坂の陣のとき、真田幸村が築いた砦です。

ただ、この大河ドラマでは、真田丸と言う家族が一体となって船出する姿が描かれているので、おそらく『犬伏の別れ』でも、そのような視点から、家族一体として真田丸の船出、新たな真田一族がスタートするのではないでしょうか。

一族が、敵味方になった事件としては、保元の乱があります。

このとき、勝者となった源氏の棟梁源義朝は、父為義や弟を処刑しました。これが源氏の凋落と、平家の世をもたらしました。


しかし真田一族の決別、『犬伏の別れ』は、それぞれに分かれた真田丸の船出、いわゆる護送船団方式とも言える敵ではあるが、互いに競い合うことで、結果として真田家を残し盛り立てる、さらに繁栄する契機となった特別な『別れ』なのだと思います。


そんな見方をして、日曜日の『真田丸』を見たいですね。

 

NHK『貧困女子高生』報道へのバッシングについて、福本悟は意見します。

2016年8月30日
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『強く国より優しい国』。これは私が繰り返し願いを込めて日頃声をあげているところです。

 

先日NHKがニュース番組で紹介した女子高校生に、ネット上で批判が殺到して、生徒のツイッターが炎上したと報じられました。

 

それはNHKが、『貧困女子高生』と報じられたのに、生活に余裕がある、『捏造』と言う内容であります。NHKは、『子どもの貧困』を問題提起したかったのだろうと直ぐに気づくのは、この種問題に関心を持つ私くらいかもしれません。そして私が、このバッシングに関する具体的な情報を知る前に、ある自民党の女性国会議員が、NHKの報道に問題はなかったのかと疑問を呈したことで、さらに騒ぎが大きくなったとされます。 まず、件の国会議員の弁です。

 

「拝見した限り自宅の暮らし向きはつましい御様子ではありましたが、チケットやグッズ、ランチ節約すれば中古のパソコンは十分買えるでしょうからあれっと思う方も当然いらっしゃるでしょう。経済的理由で進学できないなら奨学金等各種政策で支援可能では」とのことです。 私は、政府与党の本音と言うか、国民に向けたメッセージが端的に現れた見解だと思います。今日は、与党議員の報道機関への批判、物申すところは、言うのは止めましょう。国会議員につましいかどうか、生活向きに関して意見されることも、決して上から目線ではなく、国民全体の生活向上を願っての研究検討だとしておきましょう。

 

しかし、『中古のパソコン』を買うために、ランチやチケットを節約しなさいは、この人、お金がない人は、パソコンは中古で良いと決めつけていますね。そもそも日本の政治家に、奨学金を語る資格ってあるんですか。この『ひとりごと』で繰り返し指摘してきたとおり、子育て支援に関する予算は、GDP比率で1%、教育予算が3.5%と先進国では最低です。奨学金を給付制にしなのは、先進国中日本くらいです。奨学金等でなんとかしろとは、自分たちの無策を置いてなんだ!と思います。 NHKの報道は、『相対的貧困』と『貧困の連鎖』をテーマにしたものです。

 

戦災孤児だとか難民とか、ホント食べるものも住む家もない、『絶対的貧困』を指しているのではありません。つまり、その社会の中で、平均的な暮らしをすることができない状態はおかしいのではないかの視点です。周りの友人たちは進学する、その前提として進学塾に行く、余暇はディズニーランドにも行く、貧困家庭の子どもは、これらフツーのことをなぜ諦めなければならないのか、まして1.000円のランチを食べ、コンサートに行ってはならないのか、もし、これを経験できる子どもが一般的であるなら、貧困を理由にできないのは、その子どもたちの自己責任だとなるのでしょうか。相対的に貧しい家庭に生まれたからって、友だちと遊び、たまには美味しい食事をし、ディズニーランドに行く楽しみに、夢を持ってはいけないのでしょうか。

 

中古のパソコンを買うために、つましい生活をしてるから奨学金を貰えるねって言われるために、我慢すべきですか……。

 

声をあげたこの女子高生を非難した人は、彼女より、『相対的貧困』だったのでしょうか。そんなことはないでしょう。以前この『ひとりごと』でも書きましたが、人間は弱いとき、苦しいとき、辛いとき、そして落ち込んでいるときこそ、人に優しくできるものだと信じます。この女子高生のツイートのアカウントを暴いて炎上させた人、おそらく不自由なく、まして『貧困』とは無縁の人が、弱い者いじめをしているのだと思います。特に『永遠の与党』が誕生して、今の政治、生活や社会に批判的な言動をすると、ムキになって、意地になって、意見を表明した人をこれでもか!って叩き、追い込む傾向が顕著になったと思います。

 

また、匿名性が問題にされますが、自分より弱い、あるいは下と思える人に対しては、この人たちは、激しい憎悪を剥き出して、バッシングする例です。強い者には何も言わない言えない、ましてそれに巻かれて迎合するくせに……。 貧困の連鎖は、この国にとって抜き差しならぬ深刻な問題であることに、ほとんどの人が気づいておりません。

 

親が貧乏であれば、進学は諦めなければならないのでしょうか。

 

コレって、流行りの『自己責任』でもありませんよ。そもそも貧困は、当人が努力しないからそうなったとの風潮があります。しかし子どもは親を選べません。貧困が連鎖すると、学校行事に参加できない、病院に行けない、まして友だちと遊べない、社会から疎外される生活を余儀なくされると、社会の労働力活力の点からも損失です。

 

社会からの離脱を回避するため、貧困を言わないし、先の例ではありませんが、周囲とは見劣りしない生活をさせようと親が無理をしているのかもしれません。『相対的貧困』とは、まさしく見えない気づきにくいことが問題です。 炎上してしまった女子高生、大きなショックを受け、精神的にも立ち直れない状況と言われました。勇気を出して、実名を出したのに。

 

これでは誰も声をあげれなくなる、貧困の問題は、世に現れなくなる危惧を覚えます。まして、匿名で卑劣なツイートに便乗したのか火に油だったのか、政治家が、バッシングとも取れるあんな発言をするなんて酷すぎます。あれは、本当に弱い者いじめでね。

 

日本の子どもの貧困率は、300万人から400万人、6人に1人は、貧困家庭の子どもです。そして貧困率は年々最高を更新し、1人親世帯に関して言えば、54.6%と先進国最悪の数字です。

 

経済的理由で学校に通えない『就学援助』を受ける小・中学生も、過去最高水準の160万人と言われます。この貧困家庭の子どもたちがそのまま大人になると、年金や社会保険料が支払えない、また生活保護世帯になるかもしれません。社会的にさらに『コスト』を生み出す結果、連鎖になりかねないです。

今の政府与党の政策では、相対的貧困は酷くなるばかりだと思います。貧困の連鎖、貧困の固定も深刻です。

 

特にネットを利用した匿名の攻撃、これが続くでしょう。

 

コンサートに行き、きちんとしたパソコンを買い、ランチを普通に食べ、ディズニーランドにも、大学にも行くことができる人、そんな人たちが、自分には関係ない世界であるはずの『相対的貧困』を認めようとせず、バッシングするのですから。私は、『優しい』より『強さ』を全面に出すここ数年の流れが少なからず影響していると考えます。

 

貧困者とてまた納税者です。今、富を分配することで、子どもたちは平等公平に成長していける、そして将来納税者となって、昔の子どもたちには、安定的に社会を豊かにしてもらうことができます。

 

とても気になる『貧困女子高生』報道へのバッシングです。

 

弁護士に相談しよう!と決めた問題は、電話やメールで簡単に解決するものではないはずです。

2016年8月29日
きさらぎ法律事務所では、事務所内での初回の相談料は無料で、相談時間の制限を設けておりません。

また、電話メールのみでの相談は、お受けしておりません。きさらぎ法律事務所のホームページその他で、既にこのシステムを知っておられる方で、相談の申し込みをなさった段階で質問を受けたり、ごく稀に、私からお尋ねすることがあります。今日はまず、『質問』を受けた場合をお話します。

若いころからいつも思っていたのは、電話メールのみでの『法律相談』はあり得ないと言うことです。それは、法律知識を差し上げるガイドにしかなり得ないのです。皆さん、そのときご自分が一番知りたいことを聞きたいのです。そして、自分が期待する答えが欲しいのです。その前提でご質問されて、短時間で応答するなら、ストーレトに『Yes』『No』しか申せません。

しかし、それを聞いたからどうなるものでもないはずです。実際に、ご自分が電話なりで、弁護士から聞いた『結論』を、トラブルとなっている相手に言ったところで、「はい、わかりました」とはならないでしょう。要するに、解決にら至らないと言うことです。

きさらぎ法律事務所に電話を架けて来られて、例えば「ちょっとだけ良いですか」とか、「電話で済むことなんですが」とか言われる方がおります。この方々は、弁護士福本悟を買い被っておられます。ホームページ等をご覧になって、私が解決までの法律相談を心掛けていることをご承知の上で、事務所に来ることなく、簡単に解決してしまいたいとお考えです。

しかしながら、どんな案件でも、事務所等で面談して、時間をとってお話しない限り、『解決』する法律問題はありません。私はスーパーマンではありません。そもそも電話で済ませられると考えておられることが問題です。

また、メールで相談申し込みをされるにあたり、ときに『質問』が書かれていることがあります。私は、面談するまでお答えしません。これも簡単に済ませられるとの勘違いがあるわけですが、質問の前提事実はわかりませんし、そもそもその質問が、解決につながるかわからないです。裁判所の司法委員を務めているとき、よく弁護士に依頼していない本人訴訟に臨んでおられる方が、『弁護士がそう言った』と言われることがあります。

たいていは、その事案の解決につながらない、端的に言ってその方の独りよがりな観点からの質問について30分無料相談あたりの弁護士の回答を持って来られます。でも、割と強く、確信を持って弁護士が…と言われる方には、「それならその先生を連れて来てください」と申し上げます。単に聞かれたことを答えただけではない、この回答により解決になると弁護士が判断したのであれば、受任します。放っておけないのも、また専門職弁護士の習性です。

相談申し込みをされた方から指定がない限り、電話であれメールであれ、初回無料相談の日程については、全て私が折り返し電話しての決めます。その折、どんな相談なのかなんて聞きません。とにかく事務所に来ていただいてからであります。この点、「本当に先生は、何も聞かれないんだ」と依頼者とかなられた方から言われることがあります。

人間会ってからスタートです。顔を合わさないうちに、あれこれ言われて、信頼できますか?とも言えましょう。

『質問』で多いのは、「〇〇は得意ですか?」と、「費用はいくらですか?」があります。費用については、初回の相談料は無料ですが、本当に無料なのかと訝しがる方もおられます。でも、そんな質問をされる方のほとんどは、弁護士が関わって事件処理する場合、どれくらいお金がかかるのかと言う不安があるのだと思われます。

でも、よく考えてください。

どんな相談内容か、何をしたら良いのか、そもそも依頼を受けられるのか全くわからないのに、どれくらい費用がかかるかわかりようがありません。ですから初回無料相談なのです。相談を受ける前、顔を会われせる前には、「初回の相談料入りません。相談後、何をするか方向性が決まって、だいたいの弁護士費用の説明ができます。そのとき説めきいたします。」と言うに留まります。これだけお金がかかるならやらない、すなわち権利侵害を受けている、助かりたい!のであっても、弁護士に依頼することはない、だから相談しても意味がないとお考えであれば、本当に悲しく辛いことです。

少なくともこれこれをやると決めて、相談者が依頼の意思を表明された場合、費用がネックで依頼をお断りしたことはありません。お金なんてどうだってなるんです。費用を最初に言われる方は、実はその件に関して困っていないか、その希望要求が、いわゆる無理筋、すなわち到底通らない案件なのです。とにかくお会いするまで、お金の話はいたしません。初回無料相談を受けれられた方で、法的対処が必要だと判断した場合ーーほとんどがそうですーーは、これからやるべき事項の費用の説明はいたしますし、弁護士会の報酬会規をお渡しします。

それで、依頼の有無を検討していただくべく、持ち帰っていただくのです。

きさらぎ法律事務所では、出張相談も、訪問相談も行います。ですから、そちらに行けないから電話で……は通りません。

電話で済ませたいとお考えの方は、本当は困っていないか、逆に深刻な事態であることを飲み込めず安く、あるいは簡単に済ませたいとの間違いをしているのです。

電話で済むのはガイド程度であり、それは解決にならないどころか逆効果にもなります。このとおり私のほうから、相談の申し込みを受けた段階で、特にお話することはなく、とにかく事務所に来てもらい、お話を伺うことからスタートなのです。顔を合わすことで、信頼関係は生まれるはずです。

 

真田幸村の正室の父、大谷吉継をもっと知りたい!

2016年8月26日
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NHK大河ドラマ『真田丸』は、引き続き高視聴率を維持しているようです。時代は太閤秀吉が没し、いよいよ関ヶ原となるところです。大河ドラマの視聴者は男性、特に年配層が多いとは昔から言われておりました。

 

特に軍記物、戦国物が好まれる傾向があっとはいえ、また、戦国最後の最強のツワモノと評された人気の真田幸村を描いたドラマであることを割り引いても、なかなかの人気だと思います。その理由のひとつに、これまで知られていなかった人物や、歴史の過程でスラっと通過されてきた人物が、その人物を視点に、ひととおり描かれていることが理由になっているように思います。

 

信長秀吉家康の時代がテーマだとすると、武田勝頼、北条氏政、豊臣秀次あたりは、これまでもサラッと登場してすぐに消えました。真田丸では、この人たちそれぞれの視点から、その時の主人公として描かれた機会がありました。

 

それのみに留まらず、真田丸では、ドラマの進行上必要だったとはいえ、これまでほとんど取り上げられることはなかった春日昌元や木曽義昌らにスポットを当てた場面があり、歴史好きな私も、引き込まれた次第です。武田信玄を支える四天王と称された高坂弾正こと春日虎綱を父にもつ春日昌元、武田勝頼の妹を妻にした木曽義昌、この両名の立場、生き様は、真田幸村の父真田昌幸を描くとき、対比されました。

 

あの当時、いかに生きていくか、真田昌幸って凄い人とわかる脚本になっていました。 さて、今『真田丸』で、注目されているのは、大谷刑部こと大谷吉継でしょう。主人公幸村こと真田信繁の正室が、大谷吉継の子だったこともありますが、片岡愛之助さんの演技が光って、このところ毎回登場し、大谷吉継の最後はどのように描かれるのか、いよいよ関ヶ原間近、高まりを抑えられません。 関ヶ原の戦いは、大河ドラマでなくても、しばしば描かれます。

 

大谷吉継と言えば関ヶ原と思われるくらい印象が強いですね。白き頭巾を纏い、西軍の武将中ただひとり戦場で自害した人物であり、義の人として知られています。これまで大谷吉継を主人公、テーマにした小説歴史物はいくつもありました。南原幹雄氏の『名将大谷刑部』、冨樫倫太郎氏の『白頭の人』等最近特に多いと感じます。

 

真田丸では、真田信繁、そして石田三成との関係で、かなり突っ込んだ、しかし三谷幸喜氏によるあっと言わせられる、奇想天外な描かれ方が期待されますね。 大谷吉継は、生まれは諸説ありますが、母親が太閤秀吉の正室寧々に使えていた関係で、秀吉の小姓となり、徐々に認められて能力を発揮、秀吉の天下統一の前に、既に越前敦賀2万石を与えられ、後に5万石以上の石高となり、奉行軍監に類する身分を得ました。

 

現在敦賀市のイメージキャラクターは、白頭巾の大谷吉継を模したヨッシーくんだそうです。豊臣秀吉亡き後は、徳川家康の力を認めていて、関ヶ原の直前まで、家康の信任が厚かったことが知られています。関ヶ原の戦いのきっかけを作ったとされる上杉討伐、徳川家康が怒り狂った伝えられる『直江状』、この中にも、家康が、当時大谷吉継を信頼して任せていたことがわかります。

 

また、先日放映された真田丸でも、家康の屋敷に夜討ちをかけようとする石田三成を諌め、自ら徳川屋敷に赴く姿がありました。それがなぜ西軍に? 大谷吉継が義に厚い武将であることは、大方の見方です。石田三成とは刎頸の友であり、戦国時代には珍しい親友関係が構築されていました。それは大谷吉継が、石田三成と同じ近江国の出が契機とも、年齢が近いからとも、また秀吉が、両人の能力を認めて『計数の才』に長けた奉行として、九州征討、小田原攻め、文禄・慶長の役、そして太閤検地でも、ともに仕事をさせたことなどが理由と言われております。

 

大谷吉継は、石田三成が心を許せる、話を聞く数少ない人物であり、それだからこそ身を呈して三成の暴挙を宥めたものの、『二度目』は聞き入れない親友に殉じたのでした。 大谷吉継は、癩病を患っていたと言われます。それが例の白頭巾の伝説となったようです。目が見えにくい状態になっていたことは事実とされますが、白頭巾は、後の世の人たちが、義に殉じた大谷吉継を憐れみ、惜しんで語り継いだのではないでしょうか。

 

石田三成との逸話もあります。あるとき太閤秀吉の茶会で、配下の者が、ひとりづつ茶碗を回し飲みすることになりました。当時大谷吉継は、癩病であって、これは感染すると信じられていたので、誰も大谷吉継が口をつけた茶碗に口をつけません。そのとき石田三成が、これを取って飲み干し、しかも美味しかったとしてその茶碗におかわりを求めたと言うのです。

 

さらに話には尾ひれが付きます。このとき茶碗に、大谷吉継が顔を隠していた頭巾の下から、膿がポトリと落ちた、その場がし~んとしたとき、石田三成がこれをひったくって飲み干しました。これに大谷吉継はいたく感動して、将来何があっても石田三成の義に殉じる覚悟を持ったと言うものであります。

 

関ヶ原の前哨戦となった上杉討伐に参戦するため、大谷吉継は領国の敦賀をたって近江の国佐和山城を訪ね、石田三成に徳川家康との仲直りを持ちかけました。ところが三成は、大谷吉継に対し、徳川家康を討つと意思を告げたのです。大谷吉継は、無謀であり、三成側に全く勝ち目がないことを3回に渡って解きました。

しかし、勝ち負けに関係なく、立ち上がらなければならないと決めた石田三成の熱意に打たれ、友情に報いる覚悟をしたとされます。ですから徳川家康も、まさか大谷吉継が西軍に付いたことは驚愕したと伝えらられているのです。大谷吉継は、負けると分かった戦に、友情を返す場としたのです。

関ヶ原で、本気で戦った西軍は、石田三成を別とすれば、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継くらいとされます。『総大将』毛利輝元は大阪城にあり、島津義弘は、三成家臣の無礼?に熱り立つて戦闘に加わらず、後の世に『捨て奸』と言うの戦法により多くの犠牲を出しながらも戦場を脱出しました。

 

それ以外の諸侯は、日和見で、小早川秀秋ほどではないにしても、天下分け目の関ヶ原で真剣に戦ったとは言えません。そんな中で、大谷吉継の活躍、大谷軍の戦闘は、凄まじいものがありました。もともと石田三成には勝ち目はないと判断していた上に、小早川秀秋の裏切りまで、予想していたとも思われるふしがあるのです。

これらを知りながら、一死を引き受けたのです。 大谷吉継は、石田三成の要請を受けて、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らの諸隊をまとめて関ヶ原の西南に位置する山の中に布陣しました。これは松尾山に1万5.000人の兵を率いて布陣する小早川秀秋に、睨みを効かせる意図があったと見るべきでしょう。そして大谷吉継は、東軍の藤堂高虎、京極高知の軍と戦い、奮戦します。

すると、かねて手配とおり小早川秀秋が東軍に寝返り、いっせいに大谷軍を襲います。それだけではありめせん。三成により付けられた脇坂安治ら4隊まで、大谷軍を攻めてきたのです。これではひとたまりもありません。

大谷吉継は、自害の道を選択しました。

ただし、癩病を患うその首を敵方に渡すな!と家来に厳命して…。 大谷吉継の最後の場面は、関ヶ原を描いた映画等ではよく現れます。『三成…』と呼ぶことが多いですね。実際は、辞世の句と、小早川秀秋を恨んだ言葉が残されております。切腹にあたり、小早川秀秋の陣を睨みつけ、「人面獣心なり。3年のうちに祟りをなさん」と叫んだと言われます。

 

そして小早川秀秋、関ヶ原の後、体調優れず、その2年後に若くして死亡しました。一節によると、大谷吉継の亡霊に悩まされて狂い死したとも。 「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」まだ30代の惜しまれる生涯でした。大谷吉継自身は、すべてをわかった上で、友情に殉じたのです。

 

あるいは、三成を止めれらなかった自責の念からとった行動かもしれません。大谷吉継からすると、日和見や裏切りは最も忌むべき事柄でしょう。

敦賀市のヨッシーくん、柔和な表情で、やがて東京、かつての東軍の本拠地江戸と繋がる北陸新幹線を、待っているようです。