この『ひとりごと』でも何回か触れた2015年NHK大河ドラマ『花燃ゆ』は、視聴率が10%を切ることもあって、主演の井上真央さんは、インタビューを受けて謝罪するなどいろいろありました。それでも時代は明治となり、舞台は上州群馬県に移り、出演者も変わって、視聴率はアップしているとのことです。
NHK大河ドラマに限りませんが、幕末物はよく取り上げられますから、それが『吉田松陰の妹』が主人公のドラマでどのように描かれるのか、何と無く視聴者にわかりにくく、決して井上真央さんら出演者の責任とは思えません。さて、このところようやく視聴率がアップした『花燃ゆ』ですが、ある意味フラッシュバックする場面が先日放映されました。
『身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂』。安倍晋三内閣総理大臣をはじめ、知っている人は知っている有名な『遺言』でもあり、やがて明治維新を成し遂げる志士たちのバイブルともなった吉田松陰先生の『留魂録』の冒頭の言葉です。
いつも申すことですが、『松陰先生』の言い方、どうぞお許しください。
この留魂録は、1859年10月27日、安政の大獄で処刑される吉田松陰先生が、その2日前から書き始めた約5.000字にわたる遺書です。松陰先生は、同じ物を2通残し、うち1通は、投獄された小伝馬町の牢名主沼崎吉五郎に託し、死後17年経過した1876年、流刑となった八丈島から戻って来た沼崎吉五郎により、当時神奈川県知事をしてい松下村塾の塾生であり、『四天王』入江九一の弟野村靖に届けられたのでした。
1通は、松下村塾の塾生間に回し読みされているうちに、禁門の変のころ無くなってしまったとされ、あるいはそんなことを予想して、松陰先生は、沼崎吉五郎さんに託したのかもしれません。
『長州の人に渡してください。あなたを信じるしかありません。』の一言を心得た沼崎吉五郎は、褌の中にこれを忍び込ませて(花燃ゆでは、着物の襟に縫い付けたとなっていましたが)、後生大事に長州の人、松下村塾の塾生に渡したのです。先の冒頭の辞世の句で始まる留魂録は、特に春夏秋冬の循環を自らの人生に例えた第8節が有名ですね。
『春に種を巻き、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬に貯蔵する。この収穫期を迎えて悲しむ者はいない。自分は、30歳で人生を終えようとしている。人間にはそれぞれに相応しい春夏秋冬がある。私は30歳、既に四季は備わっており、花を咲かせ、実を付けているはずである。それが単なる籾殻なのか成熟した栗の実なのか私の知るところではない。
もし、同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それは撒かれた種子が絶えずに、年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるであろう。』
吉田松陰先生の撒いた種は、明治維新に、近代国家に繋がりました。そして長州閥と言う言葉が生まれ、極論すれば、第二次世界大戦、太平洋戦争まで続いたとの評価もあります。ご本人の意思に関わりなく、『吉田松陰物語』が作られて教えられたのも事実でしょう。しかし、この留魂録の一文もそうだと思うのですが、思想や立場や超え、松陰先生の言葉に感銘を受け、学ぶ人は少なからずいると思います。
安倍晋三氏が、松陰先生を尊敬されることはよく知られておりますが、日本共産党の宮本顕治氏や、かく言う私福本悟も堂々と、吉田松陰ファンであることを公言しております。
山口県萩市では、皆『松陰先生』だそうです。『花燃ゆ』で、沼崎吉五郎から留魂録を渡される野村靖役を演じた俳優の大野拓朗さんは、この『大仕事』の役柄を受けた喜びと緊張を、花燃ゆが放映された当初より言われておりました。実際、先日放映されたあの場面、本当に自然に流れ出た涙のように思えたのは、松陰ファンの私だからでしょうか。
花燃ゆで、吉田松陰役を演じた俳優の伊勢谷友介さんは、ときを同じくして出演した別のテレビ番組で、普通に「松陰先生」と述べていました。
でも、『花燃ゆ』では、吉田松陰先生らがメインのころ、実は視聴率が低かったのです。その理由は、幕末物には飽きただけだったのかどうか……。先日の17年ぶりに現れた留魂録の場面、また視聴率は下がったのでしょうか。もともと2015年のNHK大河ドラマは、山口県を舞台とする花燃ゆではなかったとされます。
これも先日、放送倫理、番組向上機構すなわちBPOから、政権与党自民党による放送への介入が批判されたーーもっとも、ある大手新聞社は、このことに全く触れておりませんが、ーーように、あるいはNHKは、何処かの機嫌を気にしていたとも反発して、遠ざかった歴史ファンもおられたのではなんて思ったりします。今年は、『戦争法案』なんて大きな歴史の転換期でもありましたし。その『主人公』とオーバーラップされたならば、私が弁明したい心境であります。
『花燃ゆ』、確かに群馬になってから、明るくなってきました。
『吉田松陰は右翼か左翼か?』の議論は、古くて新しいものですが、松陰先生の薫陶を受けたーーと思い込んでいるーー人それぞれであり、『評論家』が決めることではないでしょう。それにしても、現代まで続くこの論争、あるいはテレビ番組の視聴率にも影響する?現実を、当の吉田松陰先生が知られたら、なんて仰るか聞いてみたいものです。
いつか、福本悟は、なぜ吉田松陰ファンなのか、お話する機会はあるでしょうか(そんなの聞きたくもないでしょうか)。長々とすみません。
円安の影響もあって、日本を訪れる外国人観光客は、増加の一途を辿っています。以前申したかもしれませんが、年間1.500万人超は当たり前、さらに増え続けると見込まれます。日本国内の貧困問題は別として、お金を落としていただけるお客様は、ありがたいことだと思います。
お客様は神様、遺漏なきようサービスしたいのはヤマヤマですが、果たしてこれが追い付いているのかと言う問題です。
また、あちらこちらで軋轢や新たな問題が起きています。なお、最初に言っておきますが、私は、排外主義者ではありません。また、移民、入国等の論点に関して、『ハイライト』ではありません。この『ひとりごと』を愛読?されている方は、おわかりと思いますが。
以前『千年の古都』京都市中心部の和式トイレについて触れました。
また、温泉大浴場はもとより、ホテル廊下やエレベーターでのマナー?にも、困惑することはあります。外国人観光客は、日本に来たら、とにかく「すみません」の一言を必ず発するように学んでいるらしく、こちらが気を遣うこともありました。
特に昨今問題となっているのは、宿泊施設です。私も少し余計なことを書きましたが、お客様のマナーのことではありません。宿泊施設が足りないと言う問題です。私がよく行くのは福岡、そして札幌ですが、よほどのことがない限り、定宿に泊まれないことはありません。
ライバルは、ジャニーズとかAKBです。これも、この『ひとりごと』に書いています。しかし、東京都内や京都市内では、いつでも予約が取れない、ホテルが足りない!と聞くことがあります。
外国人観光客の増加が原因だと言われます。今やホテル宿泊客の6人から7人にひとりは、外国人なのだそうです。これの受け入れが追いつかないと言うことです。それで、ホテルの形式ではなく、料金が低く、日本を触れるアットホームな雰囲気の民宿等が、かつて重宝されました。しかし、民宿と雖もそれが営業である以上、旅館業法の適用を受けます。
やはり数に限りはあり、床面積等の規制とあって、また、単に部屋を使うだけの目的からすると、もっと手軽に、プライバシーも確保された空間が欲しいニーズがあります。そこで出てきたのが『民泊』と言う概念です。
個人が手軽に空き家、空き部屋を使い、利用者を泊めることで収入を得るビジネスが広まっています。エアビーアンドビーと言う業者の名がよく登場します。部屋を提供する側と部屋を利用する側の仲立ちをするかたちで仲介料を得るビジネスです。
このビジネスは、自ら宿泊場所して提供して、『宿泊料』を取っているのではないので、旅館業法で言う営利の目的で、宿泊場所を提供しているとは言えないはずです。しかし、営業かどうかはともかく、旅館やホテルのように、宿泊施設側の管理がなされていない民泊では、音やゴミ、そして風紀の問題等発生し、特にマンション住民には不安が大きいと思われます。
そもそもマンションや戸建て住宅は、これを使用する人は固定されていて、お隣さんが入れ替わり立ち替わりだなんて予定されておりません。最近の新築分譲マンションでは、住居を民泊に供することを禁止する管理規約を置くと聞きます。
確かに民泊の負の部分は無視できません。とかくビジネスの観点で物事を見ると、金儲けの不良業者の介入が危惧されます。しかしこれは強い経済、規制緩和の名のもとに競争を促せば、避けることができない現象です。
実際観光立国を目指す政府は、『爆買い』で知られる中国人へのビザを緩和し、国家戦略特区を設けて、例えば羽田空港がある東京都大田区では、民泊条例が制定されるなど、自治体と一体となった規制緩和を進めていると評価されましょう。
これは、少子高齢化社会が進み、国内の生産力が不足し、福祉の重要性が言われる中、なんとかミクス等強い経済を行うには、外需に頼らざるを得ないゆえに、お金を落としてくれる、しかし日本に住み着くことをしない外国人観光客は、ありがたいお客様だからです。
この辺り、日本としての難民政策、昨今指摘される南シナ海問題に対する政府の姿勢と比較すると、見えてくるものがあります。
そして、TPPでもそうですが、民泊を進めることによる旅館、ホテル業界との軋轢はどうするのでしょうか。お得意の政治献金では対応できないところまできていると思います。
安全、衛生、防災等厳しい基準をクリアーして、多額のコストをかけて営業するホテル等からすると、単に民泊は、『モグリ営業』としか映らないかもしれません。そして、周辺住民からすると、誰が営業管理し、どこに連絡して良いかわかりにくく、しかも毎回違う人が出入りする住居が近くにあると言うことは、やはり不足は解消されないと思います。
私は、外国人を含めて、そこで暮らし、同じ空間にいる人たち全てに優しい政治が行われることを望む考えです。気になるのは、外国人観光客を、かたちの上ではお客様としながらも、それはお金を落としてくれるからだ、だからこれによる日本経済が活性化するにはどうしたら良いかの観点で、議論が進んでいるのではないかと言うことです。これでは民泊施設周辺住民やホテル旅館等との軋轢は、解消されないと思います。
この素晴らしい日本を世界に知っていただくには、みんなが気持ち良く、同じ空間に居られる政策が大切だと思います。そんなことを思いながら、また来週福岡に参ります。
私事で失礼します。私は、昭和60年の11月婚姻しました。
これは、雨の日でした。
そして、私が懇意にさせていただいいる南昇税理士事務所の南優香先生も、私たち夫婦と同じ日に結婚式を挙げられました。
この日も雨でした。
その他これまで何回か11月に結婚式を挙げられたご夫婦の結婚式に出させていただきましたが、たいてい雨でした。
関東地方に関しては、11月は、比較的雨は少ないはずですが、披露宴のスピーチのネタとして、これをいつも使っています。さて、今日は、雨男の話ではありません。 11月22日は、『いい夫婦の日』とされています。
これは、国民の祝日ではありませんが、1980年代に、財団法人余暇開発センターが提唱し、1990年代には、大阪の桂文珍師匠が名誉会長となって、『いい夫婦の日を進める会』が設立され、理想のカップル、いい夫婦に相応しい『パートナー、オブ、ザ、イヤー』を投票により選出することで、世間にも認知されるようになったとされます。
ちなみに、最初のパートナー、オブ、ザ、イヤーの受賞者は、江口洋介さん森高千里さんご夫婦だそうです。 11月22日を狙った商法がひところ盛んになりました。この日結婚式を挙げるカップルは増え、ホテルや高級レストラン等でも特別メニューや大幅な割引等なされます。私の知人も、11月22日に結婚式を挙げた方がおられます。
もともと11月は、日本政府の経済対策会議において、ゆとりの創造月間として提唱された経緯がありました。これは私が好きな穏やかな優しい生活を彷彿させるもので、まあ、こんな日もあってイイなとは思います。もっとも、我が家では、何もありませんが。 22日の半分となる11日は、『いい買い物の日』なのだそうです。これは国民の祝日ではありませんし、また、政府や民間団体が推進しているものでもなさそうです。
主として流通業界が、買い物をしてお金を落としてもらうキャンペーンを張ったような感じです。何%オフとか、『1.111円』なんて商品が出ています。この日に限り、複数の会社が纏まって、共同で商品を販売する催しもあり、買い物の楽しさを知ってもらうのだそうです。
こうして見ると、11月は、『いい⚪️⚪️』がいくつも生まれそうです。『いいふみ』『いいにく』『いいおや』等等できそうです。そんな11月に結婚できたことは、良かったのでしょうか。あまりいいことがないので、ご利益に期待したくて、こんな話題に関心を持った次第です。
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京王帝都電鉄が、これまで実施してきた沿線の自然、公園や施設を巡るウォーキングイベント『京王沿線ウォーキング』を、10月17日実施分から中止したことがわかりました。
京王電鉄によると、このイベントは、沿線の街並み、自然、歴史等を巡りながらウォーキングを楽しむ無料の催しで、毎回2.000人くらいの参加人数がある人気イベントです。今年度は、『水辺に親しむお散歩コース』と銘打って、飛田給駅から出発し、野川を散策するコースを4月に行ったのを皮切りに、既に4回行われていたところ、突如以後の中止が伝えられたと言うことです。
中止の理由について京王電鉄広報課は、「参加人数が増え、ウォーキングに参加されていない沿道の皆様から、歩行マナーや運営に関する厳しいご意見、ご要望が多数寄せられてきた」としたうえで、誘導員の配置による運営経費の増大やスタッフの増加などもあり、自社単独では、継続が困難になったとその理由を挙げています。
最後となった9月に実施されたウォーキングは、京王線桜上水駅から神田川に沿って笹塚駅まで歩くものでしたが、「参加者が道いっぱいに広がって、通行できない」「うるさい!」等の苦情が寄せられたそうです。
今後警備員の配置や運営社員の増大等図ることは、経費の増大、人繰りが限界に達したので、年度中に以後の中止を決めざるを得なかったとのことでした。京王電鉄では、9月実施分まで参加した人に対しては、中止となった以後の4回も『完走』したとして、完歩賞を贈呈しました。
文部科学省が2013年に発表した『体力、スポーツに関する世論調査』では、1年間に行ったスポーツとしては、50.8%の人がウォーキングと答えたそうです。特に60代以上の人でも気軽に、安全に参加できるスポーツとしてウォーキングは人気があり、様々なイベントが開催されることでも、近時参加者が増えた一因でしょう。新緑、紅葉の時期は、特に多いですね。健康的にと言うことと、マナー違反は噛み合わないと思います。参加者のマナーが問われるとは、もともと予想されなかった残念な現象です。
通行マナーとしていつも感じていることがあります。
きさらぎ法律事務所の最寄駅は、東京メトロ『新宿御苑前駅』ですが、ここは対面式ホームであり、ホームはとても狭いのです。この狭いホームに横並びで歩かれると、本当に通行に支障があるのです。数年前に、ホームには扉が設置されたので、転落の危険はなくなりましたが、ホームに立って電車を待っている人もおりますから、2列で歩かれるともうぶつかってしまいます。この駅を利用するサラリーマン等は不便を感じてわかっているはずですが、特に夜の帰宅時間帯は、ワーワー言いながら横並びが見られます。
これはウォーキングしているのではありません。
ウォーキング参加者のマナーが悪いと苦情が来たとの点は、ウォーキングする人のマナーがなっていないのではなく、そもそも道路や通路の歩き方についてマナーを知らない人が、ウォーキングに参加していたと言うことだと思います。折角のイベントが、中止に追い込まれた京王電鉄には同情いたします。
ウォーキングは、健康で文化的なスポーツであるはずです。
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横浜市中央区には、『日本大通』と言う地名があります。
これ、『にほんおおどおり』と読みますが、一般的には、道路の名称と思われるでしょう。確かに、その名の道路もありますが、住居表示でもあります。しかも、日本大通の住所内には、神奈川県庁や日本銀行、新聞社や横浜地方裁判所等があり、官庁街なのです。みなとみらい線に『日本大通駅』があり、地上に出たところが検察庁、裁判所です。この路線、副都心線『新宿三丁目駅』まで一本で繋がります。横浜は、便利になりました。
現在は、官庁街となった日本大通ですが、もともとは徳川幕府による安政の横浜開港により、外国人居留地となっていて、地名はありませんでした。それが外国人が多く生活するようになり、居留地の拡大と道路の取り付けを行うようになり、明治になって、この道路が『日本大通』と名付けられました。
そして明治12年に、区画整理により多きくなったこの地域を、先に名付けた道路の名を取って、『日本大通』の町名が付けられたとのとであります。
居留地、そして道路から生まれた日本大通ですが、この道路は、明治3年に、当時日本初の西洋式道路として完成しました。歩道と植樹帯を設け、幅員36mの巨大ストリートは、まさに明治新政府のもと、西洋に後れを取るなの近代化政策のシンボルだったのです。
今でも、横浜スタジアムから山下町大桟橋方向に真っ直ぐ伸びる日本大通は、国の登録記念物に登録されているのです。
そんな由緒ある日本大通ですが、この土地には、しばしば行く私が興味を持ったきっかけは、何年か前の報道で、日本大通の住人は、1人であると聞いたことでした。
確かに官庁街で、一般の住宅は見当たらないようでした。でも、横浜地方裁判所の待合室から眺めると、数年前から近くにマンションが建設されておりましたから、あるいは現在は、もっと人口は増えているのかもしれません。
昼と夜との人口の違いが著しい地域は、結構あると思います。特に、ひところドーナツ現象と言われた都市部中心市街地での居住者減少は、高度経済成長を契機に、バブル期まで続きましたが、バブルの崩壊による不良資産となった企業保有地が、マンション建設業者等の物となって高層マンションが誕生するのは、近時の現象です。
由緒ある日本大通りも、そうなるのでしょうか。この町には、放送局や開港資料館等歴史を示す建造物が並びます。しばしばテレビドラマ等にその外観が使われる横浜地方裁判所も、昔は蔦が絡まる歴史を感じさせる建物でした。
この日本大通から東に数分歩くと、横浜中華街です。こちらは、安政の横浜開港により、欧米人とともに、取引の仲介商売や通訳等に中国から人がやって来るようになり、その後造成された居留地の端に住むようになり、関帝廟や中華学校等を造り、これが横浜中華街の原型とされています。当時は、中国は、香港をイギリスの植民地とされるなど、アヘン戦争以来イギリスの影響が強かったことから、その後欧米との貿易を行う商人等も来て、開国した日本、横浜に、多くの中国人が住むことになったのでした。
その後居留地はなくなったものの、関東大震災後は欧米人は少なくなって、この地域には、中国の料理店が多く残り、ここに『横浜中華街』が形成されました。ただし、その後の日中の歴史の狭間の中で、日本人観光客に認知されるのは、1972年の日中国交回復後のことです。
こうして振り返ると、横浜は、鎖国から開国、幕末から維新の契機であり、その歴史の証人でもあります。私が好きな北のウォール街小樽もそうですが、横浜には、歴史を刻んだ建物が多く残ります。
日本の中に日本大通が、そして中華街があるのは、よく考えれば不思議な感覚です。
そして、最近では、円安の影響もあるのか、日本大通や中華街の周辺には、中国をはじめとする海外の観光客が多くいらっしゃいます。初めての鉄道開通も、新橋(汐留)横浜(桜木町)間です。新しいものと古い歴史が混在する港ヨコハマからのひとりごとでした。
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