大地震の前兆?

2015年4月25日
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数日前、茨城県鉾田町の海岸で、イルカ160頭が浜に打ち上げられているところが現認されました。人間の手で、なんとか海に返してあげようと努力されましたが、ほとんどが亡くなったようです。亡くなったイルカは、特に深刻な病気を持っていなかったようで、このような現象が起きた原因は、現時点では不明とのことです。

一部の方々からは、これは大地震の前兆ではいかと案じられています。東日本大震災の1週間前にも、今回の打ち上げ現場から近い茨城県鹿島町で、同じように大量のイルカが浜に打ち上げられていたのだそうです。ある国の予報学者?は、4本年4月12日ころに、関東もしくは東海地方で、大地震が起こると予知したと報じられておりました。

イルカやクジラの大量死と地震の関係が取り沙汰されますが、深海魚の行動と地震の関係は、科学的にも検証されているそうです。

地震が起きて、岩盤が圧縮、破壊される際には電磁波が発生するところ、もし、深海の海底でこれが起きたら、深海魚は、それを感知してその場を離れる、横に動いても電磁波を減退させることはにはならないから、上方向へ逃げることで、その影響から回避できるのだと言うことなのです。

平成17年3月20日に発生した福岡県西方沖地震の折にも、深海魚『リュウグウノツカイ』が、その直前に、日本海側で幾つも捕獲されたことが知られています。

もっとも、深海魚が上に上がってくるのは、様々な事情があるので、深海魚が発見されていたと言うのは、後でのこじつけだとの意見もあります。深海魚の浮上だけではなく、例えば、鳥が大量死した、空が赤く染まった、犬猫が大合唱したまで、いろいろ言われています。

もし、天変地異を予知できたら、私たちは、何をするのでしょうか?

よく東京では、明日降雪の天気予報が出されると、スパイクタイヤになり、シャベルが完売になります。買いそびれた人はどうなりますか?本当に、数日後大地震が確実に発生するとわかったら、海外に脱出しますか。みんなそんな行動をとれば、交通機関はパンクしますから、海外に逃げれる人は、ごく僅かです。逃げれなかった人からは怨嗟の声で、国民各人が、恨み恨みが残るのでしょうか。

関東大震災の折のデマゴーグではありませんが、大事変の前後は、不穏な雰囲気があり得ます。阪神淡路大震災の折、あんな被害がありながら、閉鎖あるいは倒壊した店舗から、大量のVIDEOが持ち去られたそうです。何に使うのでしょうか。

備えあれば憂いなしと言う言葉があります。

これを実践できれば良いのでしょうが、あれもこれもやらなければと考えていると、結局何もできていないことになりかねません。

2011年3月11日のあの時、運良く私は事務所におりました。あの時もそう思いましたが、ジタバタしても始まらない、じっと我慢するしかないと考えて、電車が動くまで、じっと事務所内で待機していました。

その根底には、『なるようにしかならない』との諦めにも似た感情があるのだと思います。


よく、諦めたらアカンと言われますが、裏返せば、これは『なるようになる!』と言う意味でもあり、そう考えると、ネットや何かですぐ情報を得られる現代社会は、「危機管理とは何だろう」と思うこともまた事実であります。

 

三浦知良選手が応援されるわけ

2015年4月24日
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プロサッカー選手で、J2横浜FCに所属するカズこと三浦知良氏が、先日48歳1ヶ月でゴールを決め、Jリーグ得点最年長記録を更新しました。

 

サッカーに関心がある方、また、スポーツの素晴らしさを知る方々は、三浦知良氏の名を知り、カズを応援していると思っておりました。

ところで、その数日後、テレビ番組に出演した元プロ野球選手だった74歳のコメンテーターが、カズに対して、「もう、お辞めなさい」と発言したことが物議をかもしております。

 

そのほとんどが、この方の発言に対する批判的意見だそうです。その『騒動』を聞いた私も、「それはないでしょう」と思いました。

 

このコメンテーターがそのような発言をするに至った理由として、

①後進に道を譲るべき

②三浦知良氏ほどの選手であれば、J2なんて2軍でいつまでもプレーすべきではないと言うもののようです。

 

②の点は、リーグ戦となっているプロ野球とは異なり、日本のサッカー界は、地域に根ざすことから、ピラミッド式に各リーグが構成されているのであって1軍も2軍もない、サッカーを知らぬ者がいい加減なこと言うな!と批判されました。

すなわち、Jリーグは、J1からJ3まで入れ替え戦が行われ、観客動員数でも、J2でも1万人以上の試合はあるし、かつてJ2所属の選手が、サッカー日本代表になったこともある、天皇杯等では、番狂わせがあるのは、プロ野球のイースタンリーグウエスタンリーグとは違うだろう、Jリーグ各チームには、サテライト等下部組織がある、J2がJ1の2軍なんて、カズだけではなく、J2所属選手に対して失礼だと言うことであります。

 

それでは、後進に道を譲るの点はどうでしょうか?

 

サッカーJリーグは団体競技です。サポーターあってのチーム、また、チームを資金面で支えるスポンサーがおります。

もし、カズが本当に使い物にならないのに、自己満足のためにのみ引退しないのであれば、監督がカズを使い、サポーターがブーイングせず、また、スポンサーが撤退しないのはなぜ?の疑問です。

 

プロであることは、人を集め、お金を落とさせることも重要です。

カズの姿、プレーやその競技姿勢を見たいと思う人がいる以上、確かにカズの全盛期のみを期待する人は違うのかもしれませんが、プロ選手としての三浦知良氏のポジションは、依然存在するのではないでしょうか?

 

かく言う私も、『昔のキングカズ』は、好きではありませんでした。笑

日本サッカーが、初めてワールドカップに出場することが決まった『ジョホールバルの歓喜』の試合中、当時の日本代表監督から、途中交代を申し渡された際、まさか?のカズは、自分を指して、「俺が!」のサインをベンチに向かって示しました。

そして三浦知良氏は、サッカーフランス大会のメンバーに、選出されませんでした。

そのあとだと思います。カズが変わったのは。そのときの心中、三浦知良氏が、その後どのようにサッカーと付き合うことに決めたのかは、私どもの理解を超えるものだと思われます。

 

ただ言えることは、あれほどの選手だからこそ、ここで終わることなく、何かを残そう、それこそ後進の手本となり、また、時代を担う子供たちに、メッセージを送ろうと、おそらく心身ボロボロの状態でも、倒れる時まで、辞めることが出来ないのではないのでしょうか。

 

そんなカズの姿が、スキージャンプの葛西選手、プロ野球の山本昌選手らとともに、スポーツを知らない人たちからも、支持されているのでは?と思います。

 

人は誰でも挫折はあるでしょう。

 

それを経験した後、どのように活かし、どのように生きるかが、その人の度量を示すのではないでしょうか?

 

私は、カズの原点、カズが今のカズである契機は、1997年11月16日のマレーシアジョホールバルにあるのでは?と勝手に考えているのです。

統一地方選挙に寄せて

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統一地方選挙は、第二弾に入りました。

各地の首長や議員を選ぶ選挙です。東京は、4月26日が投票日とされています。

 

地方自治の重要性を否定するものではありませんが、盛り上がりませんね。

もっとも、『アベノミクスを進めるか後戻するか』が争点だったとされる昨年末の衆議院議員総選挙も低投票率でしたから、そんなことを言えば、地方で真面目に活動する議員さんやその候補者から、批判を受けそうです。

 

でも、第一弾として行われた各地の選挙結果を見ますと、無投票当選だったり、ある政党を除く相乗りだったり、住民にしてみれば、さしたる緊張感もなく、関心を持てないのはやむを得ない気がいたします。

国会議員の定数削減の話は、本気がどうか、実現するのかどうかは別として、しばしば議論はされております。

 

地方議員はどうでしょう。

 

無投票当選ではありませんが、都内の多くの選挙区では、7.8割の候補者が当選する実情です。

 

数を減らすことで競争が生まれ、品質が向上するなんて考えには、さらさら同調する気がない福本悟を知る方々からすると、『?』と言われるかもしれません。

地方議員の定数多過ぎないですか?人口10万人にも満たない私が住む自治体の議員定数は、優に20人を超えています。当選するのに1000票要りません。通勤電車で眺めらる23区内のある自治体の立候補者のポスターを貼る掲示板は、電車一両の半分くらいを占める巨大なものであります。

より本質的に言えば、議会での決議は、いつも同じ方々が同じ賛否をされるので、もう、やる前から結果はわかっているからです。

私の住む自治体では、国政でいつも『⚪️⚪️を除く』と言われる政党の方プラス1ないし2のグループ、それ以外の約20名のグループに分かれています。

極めて乱暴な意見を言えば、定数を5くらい削減しても、その結果、自治体野党の議席がゼロになつても、与党側が削減の割りを食っても、影響ありません。

 

4月になると、最寄駅などに、立候補予定者が立つています。

もちろん、日頃から議員活動の報告をし、また、ペーパーなど発行される真面目な方もおられます。

でも、ほとんどの方が、政策の説明なく、名前を連呼するだけ、また、何も言わず、タスキをかけて頭を下げるだけであります。特に、この数年気になるのは、国政の実力者のポスターを横に並べて、ただ立っているだけ……。

 

選挙やる前から、全然緊張感ありません。私が住む自治体は、幸い?固定資産税や市民税が年々増収にっているにも関わらず、予算は削減されるのですが、その理由はわかりません。

大勢いらっしゃる議員の先生方から、毎年財政が厳しい、予算は削減して無駄を省いたと言われても、今一つ実感が伴わないまま、今年も投票所に向かうことになりそうです。

 

監督責任を巡る最高裁判決に寄せて(その2)

2015年4月23日
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小学生が校庭から蹴ったサッカーボールが、校外の道路に飛んで来て、たまたまバイクで通行中の80歳の男性が、これを避けようとして転倒、骨折して入院後1年以上経過して、肺炎がもとで死亡した事故を巡って、先日最高裁判所は、ボールを蹴った小学生の両親の監督責任を、否定した判決を言い渡しました。この事案に関する法的判断として、私も正しいと思います。


ただ、この判決後の巷で聞かれる声については、意見せざるを得ません。

私が聞く限り、現在23歳になったこの小学生と両親を非難する意見は聞かれません。

これは良かったと思います。往々にして、これは特に刑事事件の場合に見られるのですが、裁判所で、加害者とされる側が責任を問われないと決まっても、被害者が存在する以上、たまたま証拠の関係でそうなったとか、日ごろ素行が悪いから、責任を問われかねないことになった等、知ったような口で、社会的なバッシングはなされることがあるからです。

これと関連して、反対に今回は、被害者側に対する厳しい意見、非難が多く聞かれます。


これまた誠に残念なことです。80歳になってバイクに乗ることこそ、家族が監督責任を果たしていない、事故後1年以上経過して亡くなったことは、とうてい事故と関連性があるとは思えない、学校等管理者を相手にするのではなく、子どもの親を、10年以上も追い回すのは異常等等です。

これは、悲しいですね。


いつか申したと思いますが、酷く落ち込んでいる方に対して、さらにパンチを見舞わすのは………。


ご本人は、事故により辛い思いをし、また、ご家族も、闘病看護介護は想像を超えるものだったのかもしれません。

このやるせない思いを、小学生の両親にぶつけるしか方途がなかったのかもしれません。

もちろん、『そんなこと』で標的にされたらたまりません。でも、判決が出て、リングから降りた後、当事者でもない世間から、『これでもか』と打ちのめされることは、あってはならないと思います。

さらに気になるのは、コメンテーターとされる方々意見です。


すなわち、この事案は、子ども自身が予期せぬ結果であり、まして親が、日ごろ子どもに対してしっかり躾けをしていたからこの結論は支持されるが、いわゆる少年非行少年犯罪と言われるような子どもの行為に対する親の責任は、全く別だと言うのです。

これは、全く余計なお世話、余計なコメントです。

このような場で、このようなコメントを出す方は、少年犯罪は、厳罰にすべきだとの日ごろの思いが発露されたと思われます。

しかも、少年が、非行犯罪に至るのは、親が悪いとの固定観念もあるようです。確かに、昨今センセーションに報道される事件にあっては、この少年にしてこの親ありと批評されるようなケースが目につきます。

しかし、まさしく具体的事案に則して、その責任は、検討されなければなりません。親の力だけではどうしょうもないケースが全くないわけではないと思うのですが。私も若いころ、少年事件を担当することがありました。親と一緒に、何度も謝りに参りました。いろいろ罵倒もされました。


悔しいでしょうが、親は言い訳いたしません。そんな親の姿を見て、少年は育ちました。少年法の教科書の受け売りではありませんが、少年には、可塑性があると言うのは本当です。何年か経って、その活躍が、テレビ放映された子もおりますし、世界を飛び回って、活動している子もおります。彼ら彼女らは、必死な親の姿を見て、愛情を受けて成長して来たのだと思います。

しかしながら、格差、貧困の連鎖は、家庭に余裕を失わせます。もちろん、なんの努力もせず、全部貧乏が悪いなんて言うのであれば、死刑判決の基準とされたある事件を思い出される向きもあろうかと思います。


親子が語り合い、教え合い、また、これを取り巻く社会が受け入れることをしなければ、これら家庭は、疎外されて行きます。今回最高裁が基準としたように、予見可能性や特段の事情の有無により、具体的事件のあてはめは変わります。


一刀両断的に、具体的事件を想定もせず、『少年事件は親が悪い』とは、言って欲しくありません。

 

監督責任を巡る最高裁判決に寄せて〔その1)

2015年4月22日
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放課後の小学校の校庭で、サッカーのフリーキックの練習をしていた小学生が蹴ったボールが、ゴールネットの上を超えて、敷設されたフェンスや門も越えて道路まで転がり、たまたまバイクで通りかかった人が、これを避けようとしてバイクもろとも転倒して骨折、その後死亡した事故を巡って、この小学生の両親に対する被害者の遺族から求められた損害賠償請求訴訟の判決が、最高裁判所から言い渡されました。


民法の責任無能力者にかわる監督責任が問われる事案ですが、最高裁は、第1審および原審となる高裁の判決を取り消し、被害者遺族側の請求を棄却しました。

つまり、この小学生の両親は、この事故に関して、法的責任を負わないと言う結論です。

街の声は、概ね最高裁判決に肯定的です。

これを報道したあるテレビ番組では、とある方向から、しばしばバッシングされているキャスターが、こんな当たり前のことが、何でこれまで認めれていなかったのだ!と呆れておりました。

『こんな当たり前のこと』であるがゆえに、司法の役割、過去の裁判例から、考えてみる必要がありそうです。

民法は、文字通り市民と市民の間を取り決めする法律です。市民は、ときとしてその好まざる経緯により、被害者と加害者になってしまいます。


この間を規律するのは法令でありますが、両者のバランスを取り、公正正義に立脚して、具体的事案に対する判断が求められます。

ここでは、何の落ち度もない被害者がかわそいそうとの視点があります。

また、自分の手の及ばないこと、どうしようもないことについて、責任は問われないとの視点もあります。

これまで、被害者保護の視点が強く、幼児等責任無能力者が故意または過失により引き起こした事故に関しては、ほぼ例外なく、両親等の監督責任が認めれておりました。


ある意味、被害者救済の方向性が強かったと言えます。

監督責任を怠っていなかったとの抗弁は、ほとんど認めれられませんでした。

それでは本事例で、親はどのように子を監督しなければならなかったのでしょうか。


事故を起こさないためには、校庭でボールを蹴るなでしょうか。ゴールネットに確実に放り込みよう、もっと技能を磨けでしょうか。校庭の外、道路を遥か彼方から通行してくる人車がないか確認してから蹴れでしょうか。はたまた校庭では、ボールを蹴るなでしょうか。

判決は、通常は人身に被害が及ぶものとは認めれない行為によってたまたま人身に被害を発生させた場合には、当該行為について具体的に予見可能であるなどの特別な事情が認めれられない限り、監督責任を負わないと判断しました。


この小学生の両親は、日ごろから一般的に危険な行為に及ばないよう厳しく躾けていたとのだから、『本件事故』に関しては、監督責任を果たしていないとは言えないとされました。


平たく言えば、校庭でゴールネット目掛けてサッカーボールを蹴ったことで、第三者が死亡することの具体的予見は不可能と言う判断でしょう。

この判例の示した基準、と言っても、予見可能性とか、特段の事情の有無とか、この業界に馴染みがない方には、だからなんなの?のお声が聞かれそうなよく分かりにくい基準ですね。

要は、具体的事案に則して、ケースバイケース、私が日ごろ言うところの紛争が発生した具体的場面では、法律も判例もない、あなただけの事実、これは変えることは出来ないことを前提に、どうしたいのか、どうすれば良いのか、あなたにとっての到達点は何なのか、これを目指して依頼者と弁護士が信頼関係を持って、ブレずにやり遂げることに尽きるのだと思います。

実は、私が関心を持った、感心したのは、この小学生の両親とその代理人弁護士の出されたコメントです。

担当弁護士は、「子どもがボールを蹴った、他人が死亡した、当然親の監督責任となると言うのは違うのではないか」とずっと引っかかっていたと述べられました。

両親は何がいけなくて、どうすれば回避できたのか、最高裁に上告することは躊躇したが、どうしても蟠りは消えなかったようです。

そしてこの両親は、現在23歳になったこの小学生の思春期青年時代を通しての苦悩を振り返りつつも、この事故で亡くなられた被害者がおられることは、決っして忘れられるものではなく、自分たちの道義的責任が消えることはない、この先も、終わることのない苦悩が続くのだと言われました。

巷では、裁判を勝ち負けで捉える風潮があります。

勝ち負けと競争は、私が嫌いな言葉です。

私自身、このようなご質問を受けた場合には、勝ったことも負けたこともありませんとお答えします。
事案が解決すると言うことは、ある意味ひとつの到達点節目に過ぎす、都合よく申せば、セレモニーの類だとも評せましょう。

自分の依頼者そして相手方には、ここに至っても戻らないもの、失ったものはあるのです。

ひとつの結果は結果であって、やっと解放される思いはありますが、トラブルに巻き込まれた人は、それ自体が災難であり、結果が出たからと言って、大はしゃぎする気は起きないのです。

まさしく『粛々と』受け止めるだけだと思います。

この事案は、このご両親と代理人弁護士だったからこそ、今後の監督責任に少なからず影響を与える一穴となったのではないかと思いました。ここから気づきその他の事柄についても、またお話しするかもしれません。