7月,博多祇園山笠です。

2010年7月3日
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『札幌転勤者は3度泣く』と言われます。

初めて北海道に転勤が決まったとき、最初の冬を迎えるとき、そして、遂に札幌を離れるときだそうです。

福岡に転勤した者はどうでしょう。

魚を筆頭に、美味しい食べ物,熱か人情,交通の利便等々、常に、『実際に単身赴任して良かった都市№1』の地位を、揺るぎないものとしています。

それでは逆に、福岡から、他の都市に出た者が、「『ふるさと』を感じるときは何か?」と問われるとき、しばしば語られるのは、「山笠あるけん 博多たい」「のぼせもんが多か博多でん、いっちゃん熱かなるんは、ヤマが動くときたい」なのだそうです。

もう『7月』と聞くと、心は福岡に飛び、落ち着かないとお聞きします。

たった1年少々、福岡で暮らした私でさえ、そうなのですから。

福岡・博多に縁ある者は、やはり、山笠を外すことはできません。

今回は、『福岡を心から愛する一人の東京人』から、山笠について、お話しさせていただきます。

『博多祇園山笠』は、7月1日から7月15日朝まで、博多の総鎮守櫛田神社を中心に開催される770年続く伝統行事で、国の重要無形民俗文化財に指定されるお祭りと言えます。

ただし、福岡市や、櫛田神社が主催しているのではなく、博多っ子が、『勝手にやっている』と表現しても良いと思います。

今回は、山笠の起源,歴史,変遷についてご説明し、次回以降に、内容,見どころなどについて、語らせていただきます。

仁治2年(1241年)、博多で、疾病が流行った際、承天寺(大博通りを挟んで、櫛田神社の反対側に位置する)の聖一国師が、民に担がれた木製の施餓鬼棚(せがきだな)に乗って、疾病封じの祈祷水を撒いて、清めたのが起源とされ、災厄除去の祈祷信仰と結び付いて、櫛田神社に対して、奉納される神事として、めんめんと続いて来たというのが定説です。

博多の町は、大陸の交易で栄えた商人の町でしたが、群雄割拠の戦国時代、焼け野原となったところ、豊臣秀吉により、町の復興がなり、この『太閤町割り』によって、現在の『流れ』の礎ができたと言われています。

その後、江戸時代には、京都の祇園祭さながらに、各町ごとに、いわゆる流れごとに、きれいに飾った『山』と言われる人形や、絵巻を載せた木製物を引いて、博多の町を歩くならわしが続きました。

そして、貞享4年(1687年)に、東長寺(日本最大の木造坐像である『福岡大仏』で有名です)で 休憩中の土居流れを揶揄した恵比須流れを、土居流れが追い掛け、両流れが、抜きつ抜かれつのデッドヒートを続けたことから、山を担いで走る,いわゆる『追い山』が始まったとされています。

ちなみに、土居流れと恵比須流れの『かけっこ』には、伏線があるのです。

それは、事件の先年、土居流れの女子が、恵比須流れの男子に嫁いだところ、他の流れに『取れらた』と地団駄踏んだ土居流れの若者が、これの花婿を連れて、花嫁が里帰りした折、恵比須流れの花婿をからかったこと、これに怒った恵比須流れの若者が、土居流れ若者を追い掛 て、一触即発になったというのです。

血の気の早い博多っ子のエピソードですね。

『山』は、山車や、神輿のように、御霊が宿る神聖な場所であり、誰もが担ぎ、登ることなど、許されておりません。この話は、後ほどいたします。

現在の『飾り山笠』として見られる高さ10メートル以上もの『山』になったのは、これも江戸時代で、多くの幟を立て、人形を飾ったものから、武士の動きを表す立体的な人形が登場し、絢爛豪華を競うものでもありました。

ところが、明治31年(1898年)、山笠は、中止の危機を迎えます。

それは、当時市内に路面電車が開通し、その架線を、山笠が切断する事故を起こしたことが契機でした。

しかし、山笠を無くすことなど、博多っ子が容認するわけがないのです。

ここで、『飾り山』と『舁き山』の分化が起こります。

豪華絢爛に飾る山と、『舁き手』と言われる男性が担いで走る山が、これです。

7月1日から、7月15日午前0時まで、福岡市内の十数ヶ所に、『飾り山』が登場します。

そして、『舁き山』,つまり、山が動くのは、期間中後半の7月10日以降で、クライマックスは、7月15日早朝の『追い山』で、フィナーレを迎えるのです。


提供:福岡市

山笠の魅力は何でしょう。何でこうも、熱くなるのでしょう。

「よそもんが、何を言うか」と思われるでしょうが、「私もこうして山笠にはまりました」という事実がわかるよう、次号に話を続けます。