やはり博多祇園山笠です。

2010年7月5日
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きさらぎ法律事務所 弁護士福本悟の山笠談議にお付き合いくださって、誠に有難うございます。

7月に入りました。気持ちは、福岡に飛んでいます。

前回のご案内で、『山笠は、のぼせんもんが多い、博多の男の祭』ということと、『階級制度』について、少し言及しました。

確かに、『舁き手』と言われる山を担いで走る男性の締め込み姿(『ふんどし』ではありません!)をみると、男の祭であると納得できます。

また、小さな子どもが、重さ1トンもする舁き山を担ぐことは難しいでしょう。

『博多もんは、山笠で育つ』という言葉を耳にします。

流れに属する博多の家に、男子が生まれると、赤ん坊用の法被を着せ、流れの先達から、お祝いを受けるそうです。

これは、以前ご紹介した女児の誕生を祝う,柳川の『さげもん』と似ているように思います(『社員旅行in長崎・福岡』,『3月,九州のおまつりは、色鮮やかです』)。

博多の子どもは、山笠期間中は、学校給食にもきゅうりが出ないように、徹底して『山のぼせ』になるように学んでいくのです。

山が動くとき、『先走り』と言って、板を持った子どもたちが、山笠の先陣を駆け抜けてきます。

少し大きくなると、山の後押しをし、やがて、『白手拭(しろてのごい)』と言われる手拭の交付を受けて、山を担ぐようになるのです。

山笠をやり遂げるには、流れの中で、役割と分担が必要で、これを表すものが、『手拭(てのごい)』と呼ばれる仕組みです。

手拭とは、『てぬぐい』が、博多流で『てのごい』と発言されるようになったものです。

山笠に参加できる年齢になると、渡されるものが、『白手拭』です。

『参加資格』と言ってよいかもしれません。

『赤手拭(あかてのごい)』に進級すると、一人前と認められたことになるそうです。

手拭は、流れのトップ『総務』に行きつくまで、いくつかの階級があり、また、前年の山笠が終わった後の1年間に他界した流れの先達に対し、報恩感謝の念を持って、当家を訪問するなど、年齢階梯制が、徹底されています。

山笠に上がる人は、『台上がり』と呼ばれ、山笠実働部隊の実質的リーダーです。

山が動くとき、台上がりの手拭の色・模様を見てください。

山を舁くとき、締め込みに加えて、明治31年(1898年)以降、法被と呼ばれる白地に流れをデザインした絣を装着します。

また、平時は、長法被姿の男たちが、博多の町を散見されるでしょう。

前回お話ししたように、仕事場にも、結婚式にも、この姿で出向くことが認められています。

こうして、博多の男性は、山笠とともに成長し、認められていくのです。

東流,西流,千代流,中洲流,恵比須流,大黒流,土居流れの7流です。

これに『動く飾り山笠』として、上川端通という飾り山が、追い山の日、特別に、櫛田神社入りをします。

流れそれぞれに、独特の文化・伝統といったものがあると思います。

もっとも、追い山を見た者の印象から語られることもあります。

たとえば、『恵比須流れは、少人数で、よくまとまっている』,『大黒流は、早くて勇ましい』,『千代流れは、大人数で盛大』などの印象を、私は抱いています。

この流れによる舁き山が、7月15日午前4時59分に、櫛田神社を出発し、『廻り止め』、すなわち、終点に到着するまでのルートは、博多祇園山笠公式ホームページで、ご覧いただければと思います。

福岡市は、北側が海で、『福岡』と『博多』を隔てる那珂川は、南から北へ流れて、博多湾に注ぎます。従って、櫛田神社から北へ向かうのは、『下り』を意味します。

櫛田神社の近い方が、上川端,海に近い方が下川端で、東流,恵比須流地域も、南から北へ向かって、『上呉服町』,『中呉服町』,『下呉服町』の順です。

さて、このコース、縦長で、南北へ行ったり来たりしているように見えます。

古い博多の町並を、余すことなく山が通過するという理由でしょうか。

これは、実際『追い山』を見物して、舁き手がどこから、どうやって現れるか気付けば、本質的な事情がわかるはずです。

次号で、福本悟流のみどころ,感想などを記載いたします。

博多祇園山笠のお話です。

2010年7月4日
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きさらぎ法律事務所の『よかとこ九州』をご覧くださり、有難うございます。

7月になりました。 もう気持ちは、福岡です。山笠です。

前回に引続き、『福岡を心から愛する一人の東京人』から、山笠について、しゃべらせていただきます。

7月1日、『飾り山』が公開されます。

山笠は、博多の行事ですが、飾り山は、天神地区に3つ,ホテルニューオータニ前や、ヤフードーム前にも出現します(『福岡』と『博多』の話は、『歴史のたられば 九州編1』をご覧下さい)。

それと、7月1日夕方、流れの当番町による『お汐井取り』が行なわれます。

これは、箱崎浜まででかけ、この神水(砂)で、流れの山を清め、山笠がスターとします。

山が動くのは、7月10日以降です。もっとも、この間も、子供山笠の流舁,すなわち、各流れに属する将来の山の担い手たちが、伝統行事を引継ぐ意味も込めて、各町内を廻ることがあります。子供山笠には、少女も参加できるそうです。

7月10日から12日までは、町内を回る流舁,あるいは他流舁,すなわち、他の町内への表敬訪問の行事が行なわれ、気持ちを高めていきます。

7月12日は、『追い山馴し』です。

これは、『追い山』のリハーサルで、午後3時59分に、櫛田神社を、1番山が出発し、追い山より約1km短縮したコースを走ります。

7月13日は、『集団山みせ』です。

『山』が、博多から、唯一『福岡』に入る行事で、福岡市役所まで、市内中心の明治通り(昔の貫線)を走り抜けます。

この日だけは、舁き山に、福岡の名士が、台上がりできることになっています。

ちなみに、今年は、天神に入った山は、Uターンして、川端の博多リバレインまで戻る計画が発表されています。従って、『往復』の楽しみがあるわけです。

7月15日午前4時59分、櫛田神社に鳴り響く太鼓ととともに、今年も1番山が櫛田入りし、いよいよクライマックス『追い山』が行なわれます。

博多祇園山笠のクライマックスは、『追い山』です。

東京に戻ってからも、何回も、見物に行きました。この話を聞いた東京の人間が、「全く理解できない」と言いました。

つまり、バカだというのです。

その理由は、

  1. なんで 朝4時59分から始まるのか
  2. なんで あんな重いもの(1トンはある)を担ぐのか
  3. なんで あんなものを担いで走るのか(5kはある)
  4. なんで そうまでして見物したいのか

『59分』に、7つの流れの中の1番山がスタートするのは、櫛田神社の清道旗を廻ったところで山を止め、『祝いめでた』を唄うことが許されているからです。

そして、『追い越し禁止』のルールから、各流れは、以後5分ごとに出発します。全コースを30分少々で走り抜けます。

なぜ、『午前5時』なのか、もともと山笠は、旧暦では、満月の夜明けに最高潮を迎えるものとして運用されていたところ、これが新暦になって、太陽が、東の空を明るくする時間が、この刻なのだということのようです。

山笠が『重い』こと,『走る』ことは、山笠の起源・変遷で、お話しました。

山笠には、『しきたり』というか、『こだわり』があります。

『山笠期間中は、きゅうりを食べない』

これは、きゅうりの切り口が、櫛田神社の祇園宮の神紋と似ているからと言われます。博多小学校の給食にも、出されない徹底ぶりです。

『山笠期間中は、夫婦は居室を共にしない』

これは、山笠は、女人禁制の男の行事だからというものですが、実態(?)は、調べようがないですね。

ちなみに、『直会(なおらい)』,すなわち、各流れの詰め所には、女性は入れないしきたりになっていて、かつては『不浄の者立入るべからず』と書かれた札が立てられておりました。私も、これは現認しました。

『不浄の者』とは、女性を指すとして、これは各方向から反対を受け、数年前より、撤廃されたと聞いておりますが。

『山笠の正装である『法被』『てのごい』は、譲渡禁止で、質入れも、オークションにかけることもできない』

反対に、法被は、背広と同等の正装ですから、山笠期間中は、法被を羽織って出勤する姿は、よく見掛けますし、結婚式にも、着用することが許されるそうです。

これは、歴史と伝統,そして、山笠が、階級社会であることを示すものです。

この話は、次号にいたします。

『山を担ぐ』,『山を舁く』とき、『ワッショイ』ではなく、『オイサ』と声を出す』

これは、先にご説明した『お汐井取り』に出掛けるとき、『オッシォイ、オッショイ』と、皆で元気よく声を掛け合い、この『オッショイ』が、重い山を担いで走るとき、苦しくなって、次第に、『オイッサ,ホイッサ』に変わって、今では『オイサ』と短くなったということのようです。

福岡をホームタウンとするJリーグチーム『アビスパ福岡』のサポーターも、『オイサ』と声掛けして、選手に勢いをつけています。

それから、福岡で司法修習時代、警察署で聞いた話があります。

それは、『山笠期間中は、犯罪が減り、暴力団も、抗争は、ご法度』だというのです。

真偽は不明ですし、常にそうありたいものです。ただ、山笠で、『それどころではない』,皆博多の人は、山のぼせなのだということなのでしょう。

どうですか?少しは、気持ちが高まってまいりましたでしょうか。のぼせてきましたか。

次号では、『追い山』の見どころや、『山』のルールなどについて、お話ししたいと思います。

7月,博多祇園山笠です。

2010年7月3日
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『札幌転勤者は3度泣く』と言われます。

初めて北海道に転勤が決まったとき、最初の冬を迎えるとき、そして、遂に札幌を離れるときだそうです。

福岡に転勤した者はどうでしょう。

魚を筆頭に、美味しい食べ物,熱か人情,交通の利便等々、常に、『実際に単身赴任して良かった都市№1』の地位を、揺るぎないものとしています。

それでは逆に、福岡から、他の都市に出た者が、「『ふるさと』を感じるときは何か?」と問われるとき、しばしば語られるのは、「山笠あるけん 博多たい」「のぼせもんが多か博多でん、いっちゃん熱かなるんは、ヤマが動くときたい」なのだそうです。

もう『7月』と聞くと、心は福岡に飛び、落ち着かないとお聞きします。

たった1年少々、福岡で暮らした私でさえ、そうなのですから。

福岡・博多に縁ある者は、やはり、山笠を外すことはできません。

今回は、『福岡を心から愛する一人の東京人』から、山笠について、お話しさせていただきます。

『博多祇園山笠』は、7月1日から7月15日朝まで、博多の総鎮守櫛田神社を中心に開催される770年続く伝統行事で、国の重要無形民俗文化財に指定されるお祭りと言えます。

ただし、福岡市や、櫛田神社が主催しているのではなく、博多っ子が、『勝手にやっている』と表現しても良いと思います。

今回は、山笠の起源,歴史,変遷についてご説明し、次回以降に、内容,見どころなどについて、語らせていただきます。

仁治2年(1241年)、博多で、疾病が流行った際、承天寺(大博通りを挟んで、櫛田神社の反対側に位置する)の聖一国師が、民に担がれた木製の施餓鬼棚(せがきだな)に乗って、疾病封じの祈祷水を撒いて、清めたのが起源とされ、災厄除去の祈祷信仰と結び付いて、櫛田神社に対して、奉納される神事として、めんめんと続いて来たというのが定説です。

博多の町は、大陸の交易で栄えた商人の町でしたが、群雄割拠の戦国時代、焼け野原となったところ、豊臣秀吉により、町の復興がなり、この『太閤町割り』によって、現在の『流れ』の礎ができたと言われています。

その後、江戸時代には、京都の祇園祭さながらに、各町ごとに、いわゆる流れごとに、きれいに飾った『山』と言われる人形や、絵巻を載せた木製物を引いて、博多の町を歩くならわしが続きました。

そして、貞享4年(1687年)に、東長寺(日本最大の木造坐像である『福岡大仏』で有名です)で 休憩中の土居流れを揶揄した恵比須流れを、土居流れが追い掛け、両流れが、抜きつ抜かれつのデッドヒートを続けたことから、山を担いで走る,いわゆる『追い山』が始まったとされています。

ちなみに、土居流れと恵比須流れの『かけっこ』には、伏線があるのです。

それは、事件の先年、土居流れの女子が、恵比須流れの男子に嫁いだところ、他の流れに『取れらた』と地団駄踏んだ土居流れの若者が、これの花婿を連れて、花嫁が里帰りした折、恵比須流れの花婿をからかったこと、これに怒った恵比須流れの若者が、土居流れ若者を追い掛 て、一触即発になったというのです。

血の気の早い博多っ子のエピソードですね。

『山』は、山車や、神輿のように、御霊が宿る神聖な場所であり、誰もが担ぎ、登ることなど、許されておりません。この話は、後ほどいたします。

現在の『飾り山笠』として見られる高さ10メートル以上もの『山』になったのは、これも江戸時代で、多くの幟を立て、人形を飾ったものから、武士の動きを表す立体的な人形が登場し、絢爛豪華を競うものでもありました。

ところが、明治31年(1898年)、山笠は、中止の危機を迎えます。

それは、当時市内に路面電車が開通し、その架線を、山笠が切断する事故を起こしたことが契機でした。

しかし、山笠を無くすことなど、博多っ子が容認するわけがないのです。

ここで、『飾り山』と『舁き山』の分化が起こります。

豪華絢爛に飾る山と、『舁き手』と言われる男性が担いで走る山が、これです。

7月1日から、7月15日午前0時まで、福岡市内の十数ヶ所に、『飾り山』が登場します。

そして、『舁き山』,つまり、山が動くのは、期間中後半の7月10日以降で、クライマックスは、7月15日早朝の『追い山』で、フィナーレを迎えるのです。


提供:福岡市

山笠の魅力は何でしょう。何でこうも、熱くなるのでしょう。

「よそもんが、何を言うか」と思われるでしょうが、「私もこうして山笠にはまりました」という事実がわかるよう、次号に話を続けます。

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