『徹底』『発展』の意味とは

2015年1月23日
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高等学校で使用される教科書に、誤解を招く記載があるとして、浄土宗が、本格的調査に入ると言うニュースが報じられました。

 

法然を開祖とする浄土宗が、法然とその弟子であった浄土真宗の開祖親鸞の関係をめぐる高校社会科倫理の教科書に、『法然は親鸞に劣る』とも受け取られかねない記述があるとして、発行元に訂正を申し入れることも視野に入れた本格的調査に乗り出すのだそうです。文科省が把握する浄土宗が問題にしている記述は、『(法然の教えを)親鸞が徹底させた』あるいは『発展させた』との部分は、法然の教えが不徹底だった、あるいは、未完成で劣っていたと受け取られかねいと言うことなのだそうです。

 

巷では、宗教界もたいへんだな、生き残りをかけて競争しなければならないのかなんて思われるのかもしれません。でも私は、これは『法然対親鸞』、宗派の優劣等が問題なのではなく、次代を担う子どもたちに大きな影響を与える教科書問題に、一石を投じたものとして受け取りたいと思います。浄土宗によれば、伝統仏教の各教団には、それぞれ完成した教義があるのに、現状は、公教育の場で、それぞれが比較の対象となって、その優劣が論じられる事態となっている、宗教に寛容であるべき教育基本法の精神にもそぐわないと言うものです。確かに『徹底』『発展』の言語の意味からは、浄土宗が懸念することも、わからないではありません。

 

浄土宗からの指摘を受けて、一部の教科書発行元は、同様の意見が研究者からもあったとして訂正した、あるいは訂正を含めた検討チームを設けて研究しているとの対応だそうです。これがあたかも『教科書検定』のごと国からの注文によるのではなく、教科書発行会社の自主的対応――本当ならば――であったことが良かったと思います。

 

宗教宗派はいろいろありますが、私は、基本的にその教義は絶対的な教えであると受け取っています。極論すれば、他の教えは認めないか、少なくとも自派の教義こそ最善だと強調する本質があると思っています。ですから浄土宗が言うように、その優劣など国や公教育で論じられてはならないのです。民主主義は、相対性を前提にして成り立ちます。様々な考え意見思想を尊重し合った社会が形成されるという原理です。これは戦前の反省の上に、政教分離が保障された日本国憲法の基本でもあります。

 

たかが宗派の争いではないと受け取りました。ところで、親鸞上人を開祖とする浄土真宗は、この『騒動』をどうみているのでしょうか?

 

浄土真宗は、江戸時代に本願寺派と大谷派、すなわち西本願寺と東本願寺に分かれました。本願寺派は、「宗教の知識と意義については、公平に教える必要があるが、(問題とされた記載が)直ちに不適切とは言えない」。大谷派は、「親鸞が法然の教えを自己に徹底させたと言うことであって不適当ではない。これを訂正する言うなら、学界等の多数の見解を踏まえて総合的に判断されるべきだ」と表明しております。

 

これを聞いた人は、他人事だなとか、呑気だなと感じられたかもしれません。実は、私が理解する浄土真宗は、全くと言ってよいほどかたちにとらわれず自由、世の中には善人悪人の区別はないと言うものであります。すなわち、寛容なのです。ある意味、「どうでも良い」と言う理解です。

 

こんなことを言ってしまうと、浄土真宗の門徒さんから、たいへんなお叱りを受けるかもしれません。実は、我が家の宗派は浄土真宗西本願寺派です。浄土真宗式の仏壇があり、ときどきご住職様にも来ていただいて、ありがたい説法を賜ります。その中で、私なりに到達したのは、上記の結論です。細かいことが嫌い、ひところ流行ったアバウトな人間からすすると、まさに、救われるご教義なのです。

 

京都にある西本願寺は、国宝がたくさんあります。西本願寺のシンボルとも言える御影堂と阿弥陀堂は国宝ですが、誰でも入れます。拝観料も不要です。この夏、西本願寺に参りましたが、暑さの中、外国人観光客が、ランニングシャツ1枚で休んでおり、前庭では、近くの子どもたちが追いかけっこに興じておりました。とても寛容なのです。

 

こんなふうに申しますと、私と違って真面目な門徒さんから怒られるとして、結局浄土真宗の宣伝をしているのではないかと批判されそうです。そんな気はございませんが、こんなかたちで宗派を語ることができるのも、宗教の寛容性であり、浄土真宗のかたちにとらわれない自由なところと理解していただければと思っております。