最近の世論調査で、死刑制度を存続させることは止むを得ないと考える人の割合が、初めて前回調査時より減じたと報じられました。 どれくらい減ったのかと言えば、約80%の人が『存置派』されていて、微減だそうです。 減った理由として、袴田事件のように、誤判があったら取り返しがつかないと考える慎重派が出たのではないかと分析されております。 凶悪犯罪は減少しているのに、そうではないようなマスコミ報道は、ある意味国民意識に支えられていると言えるかもしれません。 裁判員裁判が開始されて以降、死刑判決が増加していることも事実です。 しかし、実際国民が死刑判決に関わるようになったから、死刑制度の存続に慎重な意見が形成されつつあるのかもしれません。 今日は、死刑の存廃について語るのではありません。最近の風潮から、大学1年の秋、初めて刑法総論を学んだときの感動と言うか、引き込まれた原点に思い至ったからであります。 死刑は、しばしば応報刑と言われます。道義的責任論に基づくもので、その前提には、自由意思論があります。 つまり、自分の自由な意思判断で、そのような行為をしたのだから、その報いは自ら受けるのだと言う考え方です。 しかし、これだけでは説明のつかないことがあります。もし、人生が決まっていたら、自分の意思ではどうにもならない現実があったら、それは道義的責任を問えるのか?と言う疑問です。例えば、悪い事をして、刑罰を受けるなど相応な報いを受ければ、もうそんな悪い事を止めるはずではないか。 それなのに常習犯と言われるような繰り返し悪いことをする人たちがいる。彼らは、生来の犯罪者ではないとしても、素質や出自等により、そうなることを運命つけられているか、少なくとも自分の意思努力のみではどうすることも出来ないのではなかったか? これは決定論と言われる学説で、犯罪の責任は道義的責任ではなく、社会的責任を問うのだと言う考え方です。刑罰は、応報ではなく教育とするのです。 ただし、決定論から発した社会的責任論であれば、そのような犯罪者を生み、そのままにしている社会こそ責任を問われるのかと思いきや、そうではありません。 教育してもダメな場合は、社会から隔離する、すなわちこの考え方でも、死刑制度は支持されることもあるのです。 今申しましたように、決定論から発する社会的責任論は、矛盾があります。 社会は、そのような人たちに寛容でなければならないのでは? また、だからと言って、人間は、一定程度自分ではどうにも出来ないところからスタートしている部分があることは否定出来ないとしても、やはりその中で、自らの努力により変えていく、自立することは可能だろう、だから道義的責任論も社会的責任論も極端に過ぎ、その人なりの志や努力を尽くしたけれども、やはり『こうなってしまった』結果に関しては、社会や国家は、その限度で受け入れるべきではないのか?これが近代国家の通説となっているのです。 さて、今、『イスラム国』による日本人人質事件が起きました。 政府は、人命尊重の立場から、救出そして解決に、全力を尽くすことは疑う余地はありません。気になるのは、またしても出てきた『自己責任論』です。 かつてのイラク戦争の人質事件の折、危険の場所に自分の考えで行ったのだから責任は自分自身にあると言い出されたことが思い出されます。 私の記憶が正しければ、最初にこれを言い出したのは、政府が対策に窮していた段階で、役人すなわち官僚によるマスコミを前にしての発言だったと思います。 何もあの時国民は、政府を非難していなかったと思います。 発言の当初は、凄い違和感だけでありました。 ところが、自己責任論は、あっと言う間に火が付いたようにあちらこちらで、触れ回られました。 人質となった者が悪いのであって、国には責任はない、金と時間をかけるのはおかしい等の論調に変わったのです。 なんと残酷なことでしょう。今、生命身体等の危険のが限界に達している状況を、そうなった者自らが解決しろと言うのですから。 今回の人質事件の方々は、報じられる限りでも、戦闘地域に好き好んで行ったのではありません。 地域の人々から尊敬されていたとも報じられています。 かつてで学んだ自由意思論が思い出されました。 全部自分自身の考えでやったことだからその結果、すなわち報いを受けるのは当然だと言う考え方とオーバーラップしました。 自分が困難な状態になったら、他人や社会の助けを求めたくても、そうなったのは自分の責任だとあなたは割り切れますか? 以前『明日は我が身』を言いましたが、私は、自分自身に自信はありません。 いつか助けを求めたい事態に遭遇するかもしれません。本当に、『自己責任論』で済まされるのでしょうか?