来年のNHK大河ドラマは、堺雅人さん主演の真田幸村を描く真田丸です。武田信玄の元で知略を学んだ父真田昌幸より、武田家は織田信長によって滅ぼされたが、天下を取るのは羽柴秀吉であり、武田家とは縁がある徳川家康の力も侮れないとして、兄信幸は徳川側に、幸村は豊臣側に付くよう、信州真田家を残すために、帝王学を教育されたのが、戦国最後の勇将真田幸村が誕生した契機でした。 そして、真田幸村は、徳川秀忠の関ヶ原への遅参、大坂冬の陣では、徳川家康を追い詰める(わざと仕留めなかったとの伝説も生まれました)等の戦歴を挙げ、彼の最期、大坂夏の陣の終焉により、戦国の世が終わったともいわれます。 さて、今日は、真田幸村の話をするのではありません。戦国の世は、力と力の対決でした。天下統一が近づいた豊臣秀吉の晩年にも、武闘派と官僚の対立が、結果として豊臣家を滅ぼすことになったように、戦国時代が終わりと、台頭してくるのは官僚です。今日は、宇都宮に来たので、徳川幕府初期に起きた吏僚派の代表、宇都宮城主本多正純失脚に纏わるナゾをお話します。 本多正純は、徳川家康が、唯一友と言い、敬称をもって呼んだ三河以来の功労者本多正信の子で、19歳より家康の側近として仕え、その信任を得ておりました。豊臣家が滅亡した直接の原因となった大坂冬の陣の後の和睦を反故にした?大阪城内堀埋め立ては、この本多正純の策と言われます。 ちなみに、この和睦には罠があることを言い続け、最後まで反対したのは真田幸村ですね。真田幸村は、これにより自分の役割、戦国の世の落とし前として、大坂夏の陣に臨んだのでしょう。武闘派真田幸村から、官僚本多正純への時代のバトンタッチとも思えます。 さて、豊臣家が滅亡し、1916年に徳川家康と本多正信が相次いで世を去りました。戦国時代に徳川家康を支えた武功派は、活躍の場はなくなり、家康の側で、行政手腕を振るう吏僚派の本多正信正純が、幕府の礎を築いたとして、重んじられるようになりました。こうして本多正信正純親子対する憤懣が、家康と正信死後爆発するのです。 宇都宮は、日光街道、奥州街道の分岐点で、戦略的にも重要な位置にあります。これは、戊辰戦争でも証明されました。また、神君家康公を祭神とする日光東照宮への入口です。ここを与えられたのが本多正純です。 1622年徳川家康の七回忌の法会に、日光に出かけた将軍徳川秀忠は、途中宿泊する予定の宇都宮城に立ち寄らず、江戸に帰ったことが、『宇都宮釣り天井事件』が生まれた発端です。 本多親子により過年失脚させられた三河時代からの重臣に、大久保忠隣がおりました。 また、秀忠の姉である亀姫は、武功派奥平信昌に嫁ぎ、その孫が、本多正純が入城する前の宇都宮城主でした。三河以来の重臣として、酒井忠世、土井利勝がこれに絡みます。さて、将軍秀忠が、宇都宮に差しかかったとき、姉の亀姫が、秀忠に対して、「宇都宮に不審あり!」と報告したのです。 もちろん、釣り天井なんかありません(本当にあったなら、人目に触れるてバレては意味ない!)が、幕府に対しては、過年二の丸の修理の許可を申し出たのに、実は本丸ま修理したことや、鉄砲を買い込んでいたことが理由とされたのです。 実は、亀姫は、本多正純が宇都宮に入ったため、宇都宮城主だった孫が、当時格下と言われた小山城主た転封されたことや、その娘が、本多親子の陰謀?により失脚させられた大久保忠隣の嫡男に嫁いでいたこと等から、本多親子に対して、恨みがあったとされます。これを利用したのが、老中筆頭の酒井忠世で、次席の土井利勝だったという陰謀説が有力です。それは、秀忠が急遽宇都宮城には立ち寄れなくなった旨、本多正純に伝えに来たのが、酒井老中らの腹心井上正就だったことからも、裏付けられると言うものです。 『宇都宮釣り天井事件』は、城に不審ありが後世の創作に繋がったものですが、将軍秀忠からの糾問に対して、その全てに答えられなかった本多正純は、失脚するに至ったのです。 このとき秀忠は、先代正信からの忠勤に免じて、本多正純を宇都宮城主から、禄高5万石の出羽の国への転封を命じたところ、本多正純が、身に覚えがない濡れ衣と言って固辞したため、怒った秀忠は、本多正純を追放したとされます。あるいは、戦乱の世から泰平の世の礎が築かれたとして、将軍秀忠自らが、これ以上本多正純の力が強くなるのを恐れたのかもしれません。 ここで学ぶことは、いつの世にも、なんとか派となんとか派の対立が起き、歴史は繰り返すと言うことです。 そして、陰謀渦巻く世界でも、結局最高権力者にとって、用がすんだら使い捨てをすると言うことです。大坂冬の陣後の陰謀で、真田幸村そして豊臣家を葬った本多正純は、今度は葬むられました。そして、武功派、吏僚派それぞれの力により、盤石な政権を造ったはずの徳川幕府も、豊臣家臣分断により勝利した関ヶ原の怨念?を、薩摩そして長州から受けて崩壊したのです。 歴史の不思議を思いながら、宇都宮を後にしました。