10月の三連休の中日に、知人の結婚式に出席がかない、鎌倉の鶴岡八幡宮に詣でました。
鶴岡八幡宮は、応神天皇が祭神ですが、鎌倉武士の守護神、源氏ゆかりの神社として知られていると思います。それは、鎌倉幕府を開いて、初めて武家社会を築いた源頼朝が、前九年の役、後三年の役で源氏の名を知らしめた源頼義、源義家が東国討伐の折、朝廷がある京都の岩清水八幡宮護国寺をこの地に勤請して若宮となし、戦功を挙げた後は、この若宮を修復したことから、源頼朝にあって、平家討伐にあたり、社殿を現在の地に移して施設を整備したのが鶴岡八幡宮のはじまりとされるからです。
この鶴岡八幡宮に向かって、鎌倉駅方面から、段葛と呼ばれる参道があります。
この道は、前は海、後ろは山のこの地では、もともと洪水などで道が通行困難になることを回避するため、一段高い位置に歩道を作ったのが最初ですが、鶴岡八幡宮の位置に、鎌倉幕府の本拠が置かれるようになって、敵に攻め込まれたときの防ぎとなるよう、高く、また、徐々に道幅が狭くなるように作った歴史があるのです。
現在は改修中ですが、鶴岡八幡宮で結婚式を挙げるカップルは、ここを人力車で通行し、鳥居まで来ることができます。 三の鳥居まで続く段葛が終わると、八幡宮の境内になります。北条政子が造らせたと言われる産と死を表す源平池にかかる太鼓橋を渡ると、本殿への石段に入る前にあるのが舞殿です。ここは、源義経の愛妾靜御前が、頼朝政子らの前で、舞をまったとされる建物です。
もっとも、社歴をみると、鎌倉幕府以前に舞殿は、現在の位置にはなかったとされるので、実際靜御前が舞った舞台は、近くにある若宮宮であったとも言われます。さて、この舞殿で、結婚式が行われました。 「吉野山峰の白雪ふみわけて、入りにし人の跡ぞ恋しき しづやしづ、しづのをだまきくりかえし、昔を今になすよしもがな」。
頼朝は、罪人義経を慕う歌だとして激怒しましたが、政子は、かつての石橋山の合戦で、生死不明となった頼朝を案ずる自らと重ね合わせて頼朝を窘め、靜御前に褒美を取らせた話が有名ですね。
NHK大河ドラマではありませんが、男性の主人公には、正妻となる女性よりも歴史的に見て、重要な位置づけにある愛妾がいることがあります。それでもドラマ上では、正妻を中心に描くならわしです。例えば、武田信玄には、正妻三条殿との間の子は歴史の影に隠れ、諏訪御料人との間に生まれた武田勝頼が重要な位置にあっても、諏訪御料人と言われるごとく、正式な名さえ明らかにならないように、愛妾ではなく、三条殿との生涯が描かれます。
徳川家康は、豊臣秀吉と対比されて『後家好み』なんて言われますが、将軍秀忠や松平忠耀、御三家を興した男子は多い中、政争に巻き込まれて亡くなった正妻築山殿こそ、家康の妻として描かれると思います。もっとも、源頼朝は、ある事情で、とても浮気?はできなかったようですが……。 そんな歴史の中で、源義経と靜御前の場合は、極めて珍しいカップルだと思います。言うまでもなく、義経には正妻がおりました。藤原泰衡に攻められた衣川の館で、正妻と女児も、義経とともに最期を遂げております。
この妻子の存在は、数ある義経を描いたドラマでも、あまり触れられません。明治以降、日本の鉄道を引っ張った初期の蒸気機関車は、義経号、弁慶号、そして靜号でした。 現代日本では、当然一夫一婦制です。きさらぎ法律事務所でも、これら関係するご相談と案件が多いです。でも、男と女が地上に遣わされ、そこで愛を育み歴史が造られる、この事実は変わりません。
あの日、靜御前が、義経を慕って舞ったのは、政子が言うまでもなく自然の感情でしょう。日本人には、古くから『判官びいき』と言う言葉があります。その中には、辛い気持ちの中、精一杯義経への愛を訴えた靜御前の姿が重ね合わされたのかもしれません。
恐妻?北条政子さんをして、心を打たれたのですから。 そんな愛情表現の舞台となった鶴岡八幡宮舞殿では、毎日カップルが誕生するのです。靜御前が、護ってくれるような気がしました。ご結婚おめでとうございます。