インドのムンバイで、死亡したとされ、解剖台の上に乗せられた男性が、いざ解剖に着手されるときに目を覚まし、慌てた医療スタッフが、この男性を集中治療室に搬送して手を尽くしたけれども、結局亡くなったと言うニュースが、報じられています。
なんでも感染症の疑いで行き倒れていた男性は、警察により病院に搬送され、死亡したと認定されて、死因の特定のために解剖されようとしたそのとき、呼吸が回復したのだそうです。結局亡くなったのは残念ですが、警察と病院は、死亡したとの判断に関しては、互いに責任をなすりつけていたものの、男性が死亡したとの点については意見の一致をみて、争いに終止符を打ったようです。
インドのこのケースは、警察と病院の本音はともかく、結局お亡くなりになり、残念です。
ところが世界では、これに似た『生き返った』ケースは、たまに聞くことがあります。2014年3月、アメリカ合衆国レキシントンで、医師により死亡が宣告されて葬儀場に送られた78歳の男性が、防腐処理される寸前に、突然遺体袋の中で暴れ出して生存が確認された例、同年11月、ポーランドワルシャワで、これも医師により死亡が宣告されて葬儀場の霊安室に、遺体袋の中に入れられて安置された91歳の女性が、突然動き出して生存が確認された例等あるようです。アメリカの場合は脈を、ポーランドの場合は心臓の停止を医師は確認しているので、皆さん生き返ったことに、仰天したようであります。
死んだと思っていた大切な人が生き返ったことは嬉しいでしょう。でも、どうしても死を受け入れられない、たとえ動かなくなっても生きていて欲しい、大切な人の死亡宣告は聞きたくないとの思いはよく聞くことです。
いっぽうで、今この瞬間に助かる命は助けたい!の議論もあるのです。これは、主として臓器移植において論じられる脳死説の論拠にもなっていることです。
よく、心肺停止と言う言葉が聞かれます。人間の死とは何が基準なのか、これは倫理観、宗教観、医学的見地や法的観点等さまざまな立場から議論がなされます。日本の伝統的な捉え方は、呼吸.脈拍の停止、瞳孔拡大の三要素で判定するのが医学的な立場です。
ところが、心臓が停止すると、身体内の臓器が著しく退化していくことから、臓器移植を行うには、心臓停止の前で、かつ、蘇生の可能性が極めて乏しい段階、つまり『脳死』状態のときに必要と言われるのです。アメリカ合衆国等では、法律で、人の死を脳死時としています。
日本では、臓器移植法が成立した際、人の死の基準を定めず、この法律の要件を満たすときに限り、臓器移植が可能としています。当然臓器を摘出されれば、生きて行くことは不可能です。これまでの一般的な人の死の要件を変えたとまでは言えないとしても、現実として、法律により、死を前倒しする『運用』を認めるのは、違和感を持たれる方もあるでしょう。
さらに臓器移植法改正草案では、臓器を摘出される本人が、明確に反対の意思を表示していない場合には、家族の同意のみで臓器提供ができるよう、さらに踏み込んで、『脳死』をもって『人の死』とすることが検討されてもおります。テレビ番組等で、救われる命を知るとき、あくまで臓器移植の場面とは言え、人の死を早めることに、同意する方向に導かれるように思います。
今日、外国での死者?の蘇生例に触れたのは、日本では、厳格であるがゆえに、多額の費用を使って海外での手術を行う例、間に合わず、命が失われる例を見せられるいっぽうで、いわゆる植物状態に陥っても、反応する可能性を信じ、あるいはそこで温もりを持って存在するだけで良いと思って、何年も過ごす家族が居ることも、忘れてはならないと思うからです。
医学的に脳死と判定されても、まだそこに居る、確かに息をしている、身体は温かいではないか、そんな状態の人を、死んだと扱って良いのかと言う問いです。
脳死とされた後、蘇生するかもしれない!なんて言いません。でも、例えば、人を救うためと言う必要性の観点から、人の死を法律で決めて良いのか、法律実務家である私は、疑問を持ちます。もちろん、臓器移植に熱心なあまり、蘇生可能性ある患者に対する適切な医療が危ういとの危惧も聞かれます。でも、単純に、まだ息をしている人が死んだとは受け入れにくいのが、日本人の倫理観宗教観そして、家族観とでも言う伝統のように思うのです。いろいろな考え方があり、見せられる場面場面により、さまざまな考えに至ると思われます。
だからこそ、法律では明確には馴染まない、人ひとりそれぞれの心で、大切な人の死を受け入れるしかないのではと思うのです。死んだ人間が蘇生して仰天は、喜ばしいですが、その陰で、蘇生する可能性が奪われたケースは無かったでしょうか。冒頭のインドのケース、病院と警察の本音がわかる気がします。