今日は、日本弁護士連合会の関係行事に出てみようと思って、開催地岡山市に来ました。その後、依頼者との打ち合わせを兼ねて、私の故郷、大好きな福岡に移動しました。岡山市には、このところ岡山地方裁判所出頭等の出張が続いたのですが、ある特徴に気づきました。それは、いつ行っても晴れていることです。 鉄道少年だった昔、SL蒸気機関車を追って、各地に行きました。東京生まれ東京育ちで、情けないことに?25歳まで実家暮らしだった私が、最初で最後?のひとり暮らしをした福岡市に赴任したのはなぜだ!と言う疑問について、司法研修所の検察教官が、結婚式で、苦し紛れにこんなことを言いました。 それは、あいつ(と言いました)がまだ純情な少年時代、新幹線の博多開業と勝負して、小学校4年時に、東京から博多までの国鉄の駅を全部覚えたなんて、全然法曹には関係ない趣味を持っていたからだとの珍説を披露してくださったのです。 そうです。東海道新幹線は、昭和47年3月に新大阪駅から岡山駅まで伸長しました。そして、昭和50年3月に、岡山駅から終点博多駅まで全線開通したのですが、鉄道少年だった当時、新幹線の終点が博多駅になることを知り、新幹線が無視する?全部の駅を開業までに覚えてしまおう!と純粋な(バカな)動機を持ち、小学校4年までに、全部覚えたのでした。 新幹線の終点が岡山駅までの間は、私が小学校高学年、中学生の時代でした。つまり、フットワークが軽かった——そのころは、今ほど太っておりません——ので、終点岡山駅に降り立つことは、結構ありました。 特に、岡山から倉敷を経て、山陰本線の米子駅まで通じる芸備線は、途中の新見駅近くの布原信号所で、D51型蒸気機関車の3重連が見れる絶好のスポットだったので何回か行きました。そしてSLが無くなったころ、昭和51年3月、ようやく受験時代を終え、大学進学を果たしたので、開業1年経過した岡山駅からの山陽新幹線で、広島駅まで行きました。なぜか終点博多駅まで乗らなかったのが運命だったのですね。 さて、話を最初に戻します。そんな少年時代の思い出がある岡山ですが、雨男の私をしても、いつも好天なのは驚きです。 気になって調べてみましたら、岡山市は、日本の県庁所在地の中で、降水量1mmの日が全国最多だと知りました。それで、1989年から、『晴れの国岡山』を標榜しているのだそうです。雨男の私は、自分の結婚式が雨で、主賓をさせていただいた結婚式全部が雨、そして今月出席が叶った結婚式でも雨、実に迷惑な奴ですが、さすが岡山には勝てませんでした。しかも、岡山と福岡は、福本悟からみると、不思議な関係があるのです。 商人の町博多と武士の町福岡の関係、成り立ちは、このホームページができる前の旧版『よかとこ九州』から、何回かお話しています。福岡ができたのは、関ヶ原で東軍将として武功を挙げた黒田官兵衛の子黒田長政が入国してからです。 黒田長政は黒田家の発祥の地備前福岡から、その地名を取ったのでした。黒田長政の福岡入りの前には、関ヶ原の戦いのキーマンになった小早川秀秋が、現在の福岡市東区の名島に福崎城を構えておりました。そのとき備前、備中等周辺大国を収めていたのが、元は毛利氏の一族宇喜多秀家でした。この宇喜多秀家こそ、関ヶ原での最大の悲劇とのちの世に語られることになりますが、小早川秀秋は、なんと宇喜多秀家が太閤秀吉から5大老宇喜多秀家が賜っていた備前他を、徳川家康から拝領することになるのです。 そしてご承知のとおり、小早川秀秋は、宇喜多秀家の亡霊に取り憑かれてわずか21歳で亡くなったと言われます。 宇喜多秀家は、前田利家の娘を正室にしていた関係と、総崩れになった西軍にあって、最初から最後まで怯むことなく戦い続けたことから、死一等を免じられ、八丈島に流罪となったのでした。 八丈島は、当時絶海の孤島であり、内地の人間として最初に流人とは言えやって来たのは、この宇喜多秀家たといわれていますね。小早川秀秋とは異なり、宇喜多秀家は、八丈島で80年余生きていたとされます。宇喜多秀家が生きた、生きられたことで、以後八丈島は、流罪の地とされ、やがて東京都に組み入れられたのです。 宇喜多秀家は、生まれも今の岡山県です。晴れの多い豊かな土地から、まだ内地の人間が誰も暮らしたことがない八丈島にながされた運命に、どんな思いで生涯を閉じたのでしょう。 また、小早川秀秋から受け継いで新しい都市福岡を築いた黒田長政の感慨もどうだったでしょう。そんな歴史に思い巡らしていたら、山陽新幹線は、小倉駅を出ました。さて、数分で福岡です。