電車が遅れたときに、皆さんどうしますか?

2015年10月20日
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京浜急行電鉄で、駅に車掌が置き去りにされたまま、電車が発車したトラブルがあったと発表されました。


車掌の置き去りは、たまに聞くことがりますが、今回の『事件』では、置き去りにされた車掌が、約700m離れた次の駅まで走って電車を追いかけ、この電車は、追いついた車掌が乗車して、次の駅を約5分遅れて発車したと言うものです。

『置き去り事故』の原因は、北品川駅でドアを閉め、出発の合図ブザーを押した車掌が、その直後、手にしていたワイヤアレスマイクをホームに落としてしまい、これを拾おうとしてホームに降りたところ、運転士は気づかず、発車してしまったと言うものです。

次の新馬場駅でドアが開かないことに気づいた運転士が、車掌がいない異変を把握しドアを開け、運転司令室に連絡し、車掌を『待っていた』のです。ワイヤレスマイクが落ちた原因は不明ですが、これが報道されたのは『えー』と思えることがあったからでしょう。

まず、京浜急行電鉄の発表では、「後続に遅れはなかった」とされます。都会の私鉄、しかも品川駅近くでなんで?と思いきや、種明かしすれば、この事故?を起こした電車が終電であり、この日、『後続』は無かったのでした。


そして驚いたのは、車掌が先に進んだ電車を、走って追いかけたことです。約700m線路と並行する国道を走ったのですが、なんでも司令室から、『追いかけろ!』と命じられたからなのだそうです。

激走した車掌さん、お疲れ様、お怪我がなくて?良かったです。京浜急行電鉄の車両は、ワンマンカーではありませんが、実際新馬場駅では、運転士がドアを開けたように、必ずしも車掌が居なくても、なんとかなる仕組みだと思います。


実際、後続は無かったのですから、慌てて車掌を走らせる必要があったのか、素人は考えてしまいます。確かにふたり乗務が安全であることは間違いないでしょう。運転士は、本来運転が仕事ですから。品川駅には、非番の車掌さんは、居なかったでしょうか。

もし、この車掌さん、途中で事故にあったり、生き倒れたらどうしましょう。新馬場駅で5分?停車しているとき、その原因を、どのようにお客様に説明したのかわかりませんが、まさか車掌が走って電車を追いかけているから停車するなんて、言ったのでしょうか?



何か結果オーライになったから、発表したのではないか、或いは誰か『真相』をバラしたから明らかにせざるを得なかったのかもしれません。終電ですから、運休にはできないでしょう。

よく、アクシデントが発生したときのプロの対応が問題にされます。危機管理と言う問題かもしれません。なかなか判断は難しいかもしれません。でも私は、例えば電車のダイヤが乱れて、裁判所への出頭が遅れるときでも、走ることはいたしません。あれは、走ることが仕事の鉄道ゆえにあったことなのでしょうか。

 

久しぶりの鎌倉鶴岡八幡宮にて思うこと

2015年10月19日
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10月の三連休の中日に、知人の結婚式に出席がかない、鎌倉の鶴岡八幡宮に詣でました。

鶴岡八幡宮は、応神天皇が祭神ですが、鎌倉武士の守護神、源氏ゆかりの神社として知られていると思います。それは、鎌倉幕府を開いて、初めて武家社会を築いた源頼朝が、前九年の役、後三年の役で源氏の名を知らしめた源頼義、源義家が東国討伐の折、朝廷がある京都の岩清水八幡宮護国寺をこの地に勤請して若宮となし、戦功を挙げた後は、この若宮を修復したことから、源頼朝にあって、平家討伐にあたり、社殿を現在の地に移して施設を整備したのが鶴岡八幡宮のはじまりとされるからです。

 

この鶴岡八幡宮に向かって、鎌倉駅方面から、段葛と呼ばれる参道があります。

この道は、前は海、後ろは山のこの地では、もともと洪水などで道が通行困難になることを回避するため、一段高い位置に歩道を作ったのが最初ですが、鶴岡八幡宮の位置に、鎌倉幕府の本拠が置かれるようになって、敵に攻め込まれたときの防ぎとなるよう、高く、また、徐々に道幅が狭くなるように作った歴史があるのです。

現在は改修中ですが、鶴岡八幡宮で結婚式を挙げるカップルは、ここを人力車で通行し、鳥居まで来ることができます。 三の鳥居まで続く段葛が終わると、八幡宮の境内になります。北条政子が造らせたと言われる産と死を表す源平池にかかる太鼓橋を渡ると、本殿への石段に入る前にあるのが舞殿です。ここは、源義経の愛妾靜御前が、頼朝政子らの前で、舞をまったとされる建物です。

写真 1 H27.10.14 写真 2 H27.10.14

もっとも、社歴をみると、鎌倉幕府以前に舞殿は、現在の位置にはなかったとされるので、実際靜御前が舞った舞台は、近くにある若宮宮であったとも言われます。さて、この舞殿で、結婚式が行われました。 「吉野山峰の白雪ふみわけて、入りにし人の跡ぞ恋しき しづやしづ、しづのをだまきくりかえし、昔を今になすよしもがな」。

 

頼朝は、罪人義経を慕う歌だとして激怒しましたが、政子は、かつての石橋山の合戦で、生死不明となった頼朝を案ずる自らと重ね合わせて頼朝を窘め、靜御前に褒美を取らせた話が有名ですね。

 

NHK大河ドラマではありませんが、男性の主人公には、正妻となる女性よりも歴史的に見て、重要な位置づけにある愛妾がいることがあります。それでもドラマ上では、正妻を中心に描くならわしです。例えば、武田信玄には、正妻三条殿との間の子は歴史の影に隠れ、諏訪御料人との間に生まれた武田勝頼が重要な位置にあっても、諏訪御料人と言われるごとく、正式な名さえ明らかにならないように、愛妾ではなく、三条殿との生涯が描かれます。

 

徳川家康は、豊臣秀吉と対比されて『後家好み』なんて言われますが、将軍秀忠や松平忠耀、御三家を興した男子は多い中、政争に巻き込まれて亡くなった正妻築山殿こそ、家康の妻として描かれると思います。もっとも、源頼朝は、ある事情で、とても浮気?はできなかったようですが……。 そんな歴史の中で、源義経と靜御前の場合は、極めて珍しいカップルだと思います。言うまでもなく、義経には正妻がおりました。藤原泰衡に攻められた衣川の館で、正妻と女児も、義経とともに最期を遂げております。

 

この妻子の存在は、数ある義経を描いたドラマでも、あまり触れられません。明治以降、日本の鉄道を引っ張った初期の蒸気機関車は、義経号、弁慶号、そして靜号でした。 現代日本では、当然一夫一婦制です。きさらぎ法律事務所でも、これら関係するご相談と案件が多いです。でも、男と女が地上に遣わされ、そこで愛を育み歴史が造られる、この事実は変わりません。

 

あの日、靜御前が、義経を慕って舞ったのは、政子が言うまでもなく自然の感情でしょう。日本人には、古くから『判官びいき』と言う言葉があります。その中には、辛い気持ちの中、精一杯義経への愛を訴えた靜御前の姿が重ね合わされたのかもしれません。

 

恐妻?北条政子さんをして、心を打たれたのですから。 そんな愛情表現の舞台となった鶴岡八幡宮舞殿では、毎日カップルが誕生するのです。靜御前が、護ってくれるような気がしました。ご結婚おめでとうございます。

 

ヒューマンエラーを起こさないために

2015年10月16日
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三連休の中日、鹿児島空港に着陸しようとした日本航空のボーイング767型機が、降下中に新日本航空の小型プロペラ機が、針路に入ってきたとして、急遽着陸を取り止め上昇して危険を回避したトラブルがありました。世上『ニアミス』と言われるもので、国土交通省は、航空機事故に繋がりかねないとして、『重大インシデント』に認定、国土交通省運輸安全委員会は、航空事故調査官3名を派遣して、今後原因調査を行うとしました。このアクシデントでは、搭乗者に怪我をされた方はおられませんでした。

現時点で国土交通省が発表したところでは、日航機は、鹿児島空港管制官から着陸許可を得て、空港の約5.4km高度約300mのところで、前方左から針路に割り込むかたちで進入する小型機を発見、衝突を避けるため急上昇して着陸をやり直したこと、いっぽう小型機所属会社は、「管制官からの着陸許可を受けて降下中だった」と述べたとのことです。

今年は、この『ひとりごと』でも触れたと思いますが、徳島空港での出来事や、那覇空港でも同様の事態が起こりました。なんか嫌ですね。

鹿児島空港は周囲が山で、東京から向かう航空機は、宮崎市から霧島を右手に見て、錦江湾を掠めて右旋回して南から北へ進入するのが普通で、着陸寸前まで、高い山の中を飛行し、山にぶつかると思ったら、滑走路が見えて着陸となる空港です。山の中で視界が悪く、私もかつて視界不良のため、東京からの便が着陸できず、東京羽田空港行き最終便が欠航になり、帰れなくなった経験があります。


そんな鹿児島空港ですが、この日は極めて視界が良好で、日航機の機長は、とっさの判断でゴーアウンド、すなわち着陸複行を行い、この危機を脱したと報じられます。ゴーアラウンドがなされるとき、着陸寸前で前屈みのところが急上昇となって、客室では、座席に打ち付けられたような感じになることがあります。私も、今年羽田空港での着陸寸前に、これを経験しました。客室乗務員から、最終の着陸態勢に入ったとの案内の後、窓側の席からは、地上が見えたのに急上昇するので、不安を持たれると思います。

元日本航空の機長で、湾岸戦争時に日本人を救出するための日本政府特別機の操縦を託された小林宏之氏は、ヒューマンエラーに関する研究で知られています。私も、縁あって小林氏の勉強会に参加する機会がありまして、その人柄とらともに、プロの心構え、安全安心に対する思いの強さに引き込まれたひとりです。小林氏は、ヒューマンエラーが発生するのは、経験不足、思い込み、コミュニケーション不足を主に挙げられています。

鹿児島空港でのこの一件が、ヒューマンエラーだったのかどうか現時点ではわかりません。ただ、航空機事故の70%が、ヒューマンが絡んだものと言われます。この中には、今年発生したジャーマンウイングスの墜落や、かつての日航機羽田沖墜落事故のように、操縦士の異常操縦が含まれていますので、実際は、『間違った』ケースは、もっと少ないとは思います。

このプロによるヒューマンエラー、私も学ぶべきところが多いと思うのです。

例えば、この鹿児島空港での一件、どちらかの操縦士が、管制官の指示を自己の判断による『思い込み』の可能性だってありえます。


私も、プロとして仕事をさせていただいておりますが、小林宏之氏の言葉には、もっともだと学ぶものがあります。経験とは、いくつにもなっても必要です。経験には終わりはないのです。思い込みは、本当に怖いことです。これは、経験があると思う心の自惚れから、生まれることもあります。そして、コミュニケーションとは、コックピットに必要なのは当然でしょうが、弁護士の場合、依頼者とのコミュニケーションから生まれる信頼関係こそ命綱であります。


高度の機械化が進んでも、これを造り、また、使いこなすのも人間です。弁護士として仕事をさせていただいている私は、全てが人間から始まり、人間との関わりで、ブロの責務を果たさなければならない立場です。


高度のプロ意識が必要とされる場面でのヒューマンエラーの可能性が検証される報道を聞くたびに、気を引き締めなければならないと思うものであります。

 

私は、ハルキストではありません。でも、村上春樹さんは、割と好きな日本人です。

2015年10月15日
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2015年のノーベル文学賞は、ベラルーシの女性作家で、ジャーナリストでもあるアレクシエービッチ氏に授与されることが決まりました。

 

日本では毎年この時期、『ハルキスト』たちが集まってはがっかりする様子が繰り返されていますが、当の村上春樹さんご本人は、確か、「わりに迷惑です。民間のブックメーカーが儲け率を決めているだけ。競馬じゃあるまし」とコメントされたと思います。

 

ところで村上春樹さん、『割と好きな日本人』です。

 

アレクシエービッチさんは、1948年母親の故郷ウクライナで生まれ、その後父親の故郷ベラルーシに移り、新聞社に勤務した後、フリーのジャーナリストとして活動を始め、その傍ら文筆活動をされるようになったとされます。その当時は、ウクライナ等の黒海周辺諸国、ベラルーシ等のバルト三国等は、旧ソ連に属しておりました。

 

それで、アレクシエービッチさんの「戦争は女の顔をしていない」等有名な文学作品は、なかなか世界に発信されなかったそうです。ソビエトの崩壊、ペレストロイカにより、この方の文学作品が世に知られるようになったのです。

アフガニスタンやチェルノブイリにも行き、現地で何が行われているか、しっかり発信されたのです。 アレクシエービッチさんは、チェルノブイリ事故をひとつの契機として、原子力発電に関するメッセージも発信されています。福島原発事故後、日本にもいらっしゃって、このような発言をされています。「原発利用と核とは表裏一体」「原発の平和利用という言葉に騙されてはいけない」。世界唯一の被爆国である日本が、福島第一原発の事故を経験したことに衝撃を受けたのです。

 

数年前、日本の団体に招かれて来日されました。原発再稼働に舵を切ったことは、驚きだったでしょう。 私は、村上春樹さんのファンではありませんし、まして村上氏の文学作品を論評する能力なんてありません。ただ、ハルキストからではありませんが、ノーベル文学賞に関して、気になる声があります。

それは、純粋な文学、小説ではなく、政治的テーマを書かなければ受賞できないと言うものです。ノーベル文学賞受賞者である大江健三郎さんが、憲法9条を守ることを言い、先般の安全保障関連法案に反対のメッセージを出したことも、その理由に挙げているのです。 文学作品が、何をテーマにするか、読者に何を訴えるかは、作家それぞれでしょう。

 

作家は、必ずしも、ノーベル文学賞の獲得を目指して文筆活動をされているのではないと思います。私には、日本人が賞から漏れたとき、あるいは勝負事で結果を出せないときに、その理由を、あたかも日本社会、歴史、政治、より直裁に言えば、日本の政権与党に耳が痛い出来事ーー日本の政治を批判した見解ーーゆえに結果が出たかに言われることが、とても気になります。

 

今回受賞者となったアレクシエービッチさんは、世界各地を自身の目で見て来た中のひとつが日本であり、その中で関心を持たれたのが原発事故だったに過ぎないのだと思います。 一部日本人からのこれら意見について、以前日本にもいらっしゃったアレクシエービッチさんがお聞きになったら、驚きを隠せないのではと思いました。

 

でもこんな風潮?、深刻に考えなくても良いのかもしれません。確か村上春樹さん、何かの国際的文学賞の受賞の折、『核兵器NO』『脱原発』を日本人は言い続けるべきだと演説されました。そんな日本人村上春樹さんのノーベル文学賞受賞が叶わないことを云々する方々は、単なる僻みやっかみを言っているに過ぎないとも思えば良いのです。

 

大河ドラマ真田丸の前に

2015年10月14日
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来年のNHK大河ドラマは、堺雅人さん主演の真田幸村を描く真田丸です。武田信玄の元で知略を学んだ父真田昌幸より、武田家は織田信長によって滅ぼされたが、天下を取るのは羽柴秀吉であり、武田家とは縁がある徳川家康の力も侮れないとして、兄信幸は徳川側に、幸村は豊臣側に付くよう、信州真田家を残すために、帝王学を教育されたのが、戦国最後の勇将真田幸村が誕生した契機でした。
写真 1 H27.10.08 写真 2 H27.10.08
そして、真田幸村は、徳川秀忠の関ヶ原への遅参、大坂冬の陣では、徳川家康を追い詰める(わざと仕留めなかったとの伝説も生まれました)等の戦歴を挙げ、彼の最期、大坂夏の陣の終焉により、戦国の世が終わったともいわれます。

さて、今日は、真田幸村の話をするのではありません。戦国の世は、力と力の対決でした。天下統一が近づいた豊臣秀吉の晩年にも、武闘派と官僚の対立が、結果として豊臣家を滅ぼすことになったように、戦国時代が終わりと、台頭してくるのは官僚です。今日は、宇都宮に来たので、徳川幕府初期に起きた吏僚派の代表、宇都宮城主本多正純失脚に纏わるナゾをお話します。

本多正純は、徳川家康が、唯一友と言い、敬称をもって呼んだ三河以来の功労者本多正信の子で、19歳より家康の側近として仕え、その信任を得ておりました。豊臣家が滅亡した直接の原因となった大坂冬の陣の後の和睦を反故にした?大阪城内堀埋め立ては、この本多正純の策と言われます。

ちなみに、この和睦には罠があることを言い続け、最後まで反対したのは真田幸村ですね。真田幸村は、これにより自分の役割、戦国の世の落とし前として、大坂夏の陣に臨んだのでしょう。武闘派真田幸村から、官僚本多正純への時代のバトンタッチとも思えます。

さて、豊臣家が滅亡し、1916年に徳川家康と本多正信が相次いで世を去りました。戦国時代に徳川家康を支えた武功派は、活躍の場はなくなり、家康の側で、行政手腕を振るう吏僚派の本多正信正純が、幕府の礎を築いたとして、重んじられるようになりました。こうして本多正信正純親子対する憤懣が、家康と正信死後爆発するのです。

宇都宮は、日光街道、奥州街道の分岐点で、戦略的にも重要な位置にあります。これは、戊辰戦争でも証明されました。また、神君家康公を祭神とする日光東照宮への入口です。ここを与えられたのが本多正純です。

1622年徳川家康の七回忌の法会に、日光に出かけた将軍徳川秀忠は、途中宿泊する予定の宇都宮城に立ち寄らず、江戸に帰ったことが、『宇都宮釣り天井事件』が生まれた発端です。

本多親子により過年失脚させられた三河時代からの重臣に、大久保忠隣がおりました。

また、秀忠の姉である亀姫は、武功派奥平信昌に嫁ぎ、その孫が、本多正純が入城する前の宇都宮城主でした。三河以来の重臣として、酒井忠世、土井利勝がこれに絡みます。さて、将軍秀忠が、宇都宮に差しかかったとき、姉の亀姫が、秀忠に対して、「宇都宮に不審あり!」と報告したのです。

もちろん、釣り天井なんかありません(本当にあったなら、人目に触れるてバレては意味ない!)が、幕府に対しては、過年二の丸の修理の許可を申し出たのに、実は本丸ま修理したことや、鉄砲を買い込んでいたことが理由とされたのです。

実は、亀姫は、本多正純が宇都宮に入ったため、宇都宮城主だった孫が、当時格下と言われた小山城主た転封されたことや、その娘が、本多親子の陰謀?により失脚させられた大久保忠隣の嫡男に嫁いでいたこと等から、本多親子に対して、恨みがあったとされます。これを利用したのが、老中筆頭の酒井忠世で、次席の土井利勝だったという陰謀説が有力です。それは、秀忠が急遽宇都宮城には立ち寄れなくなった旨、本多正純に伝えに来たのが、酒井老中らの腹心井上正就だったことからも、裏付けられると言うものです。

『宇都宮釣り天井事件』は、城に不審ありが後世の創作に繋がったものですが、将軍秀忠からの糾問に対して、その全てに答えられなかった本多正純は、失脚するに至ったのです。

このとき秀忠は、先代正信からの忠勤に免じて、本多正純を宇都宮城主から、禄高5万石の出羽の国への転封を命じたところ、本多正純が、身に覚えがない濡れ衣と言って固辞したため、怒った秀忠は、本多正純を追放したとされます。あるいは、戦乱の世から泰平の世の礎が築かれたとして、将軍秀忠自らが、これ以上本多正純の力が強くなるのを恐れたのかもしれません。

ここで学ぶことは、いつの世にも、なんとか派となんとか派の対立が起き、歴史は繰り返すと言うことです。


そして、陰謀渦巻く世界でも、結局最高権力者にとって、用がすんだら使い捨てをすると言うことです。大坂冬の陣後の陰謀で、真田幸村そして豊臣家を葬った本多正純は、今度は葬むられました。そして、武功派、吏僚派それぞれの力により、盤石な政権を造ったはずの徳川幕府も、豊臣家臣分断により勝利した関ヶ原の怨念?を、薩摩そして長州から受けて崩壊したのです。

歴史の不思議を思いながら、宇都宮を後にしました。

 

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