放火殺人事件で無期懲役を受けた元被告人が再審開始決定を受けて釈放されたとの報道に寄せて

2015年11月5日
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大阪高等裁判所は、20年前に発生した小学6年生が、自宅風呂場で入浴中に火災が起きて焼死した『事件』で、放火殺人罪で無期懲役が確定して服役中の母親と、当時同居していた男性に対して、再審を認める決定を出しました。

正確に言えば、再審決定を出していた地裁の決定に対して抗告していた検察官の申し立てを棄却したのですが、抗告棄却決定と合わせて、無期懲役刑の執行停止を決定したので、服役中の元被告人は、20年ぶりに釈放されたのでした。

刑事裁判は、検察官が、合理的な疑いを入れない程度の立証をしなければ無罪です。犯人が誰かどうかは関係ありません。しかし、現実には、『事実』が発生すれば、犯人が居ると言う前提で捜査がなされますし、裁判所も、犯人とされた被告人の弁明が信用できるかの観点で審理していると思わざるを得ません。それは、日本人の国民意識に添うとのだと思っています。

例えば、被害者が存在した以上、じゃ誰がやったの?との声が必ず聞かれますから。

今回の再審では、被告人の自白とおりであれば、被告人が無傷であるはずはないとの疑問が出てきて、それからじゃなぜ火事になったかについて、再審弁護団の実験により、いわゆる自然発火の可能性が出てきて、それならそんな自白は信用できないのではないかとなり、捜査官の押し付けや誘導があった疑いが残ると論理展開され、再審決定が認められたわけです。

昔から、再審の扉は開かずの門と言われますが、再審弁護団が、それこそ合理的疑いが払拭される程度の『被告人はやっていない』立証が求められるのが、刑事裁判の現実です。

やはりと言うべきか、ネット上では、この被告人両名が犯人にちがいないとの投稿がほとんどです。

被告人の国籍を言うのは論外ですが、小学生に災害保険をかけるのは怪しい、やって無いのに認めるのはおかしい、自然発火なんてあり得るのか?等等です。無期懲役を言い渡した大阪地裁の判決でも、被告人が火傷などすることなく自白とおり行動することは不可能との鑑定結果が出ていたのに、自然発火は抽象的とか、自白には真迫性があるなどと述べて、有罪としていたそうです。これが、裁判官を含めた日本人の自然の感覚なのだと言うことです。

何が真迫性ありかと言えば、『熱かったので顔を背けた。特に右側が熱かった』ですって。不謹慎ですが、こんな表現が、犯人で無ければ、それを経験した者で無ければ喋ることができないのだとされるなんて、裁判官って、文学的センスないですね。

『口三味線』なんてお褒め?の言葉を頂戴することがある私でしたら、もう少し真迫性あるストーリーを作れます。抽象的云々は、初めから検察官の主張した事実以外には真実はないとの観念があって、なんとか被告人の自白が矛盾しないよう理屈を後付けしたと見えます。裁判官は、と言うよりも国民は、起訴された人は犯人だとまず思っているのです。

一部報道によると、最近日弁連は、死刑判決が予想される刑事事件については、被告人には黙秘権の行使を勧めるようマニュアルを作ったとのことです。

被告人は、最初から最後まで何も喋らなくてよいのは憲法上当たり前であり、今更日弁連は何を言うかです。あえてこんなことを発表するから、批判されるのだと思います。

全件取調べを録音するとの提言は、いつになっても実現可能性はないのに、憲法に規定される黙秘権を行使することが悪いような風潮があるとすれば、捕まって起訴された人は犯人に違いない、悪いことをやって認めない(自ら説明しない)のはとんでもないことだとの観念があるのでしょう。ここでも、悪いことをしなければ捕まらない、裁判にかけられないとの前提があります。

私が若い頃、ある被疑事実で任意?取調べの後、逮捕勾留された人がおりました。この人の知人が私を知ってたので、任意?のときから弁護活動を行いました。担当刑事には、被疑者が主張する事実を説明し、逮捕状が出たら私が付き添って出頭させることを約束し、逮捕後勾留期間は20日におよび、何回も接見に行き励まし、警察官や検察官には随時連絡を取って、刑事訴訟法上可能な手続きは全て取り、行ないました。

私が被疑者に言ったことはただひとつ、あなたは犯人ではないのだから、住所氏名以外絶対に喋ってはならないと言うことです。何か話すと、『自白調書』が出来上がるからです。真実は、弁護人が検察官等に説明してある、20日辛抱できるか、何年も刑務所に入るのかの瀬戸際だと説明し、合わせて裁判所は、起訴された件は無罪にはしないのだと、被疑者を説得激励し続けたものです。この被疑者は頑張りました。満期に釈放され、その後不起訴となりました。

このときは、被疑者すなわち私の依頼者は、「やっていない」確信があったから黙秘したのです。この被疑者の勤務先からは、当初やってないのになぜ捕まるのだなんて声も上がりましたが、家族と一緒に説明にあがり、納得し信じてもらえました。

この経験は、私が検察官を志していたことから進んでできたことかもしれないと、そのときは思いました。日本の社会、何年経って無罪になっても、社会的な制裁から逃れることは難しいです。捕まったら、検事が起訴したら有罪だとの観念があります。裁判官は、検事が起訴したから有罪にしても大丈夫だとでも思っているのではないかとも感じることがあります。本当にやっていない人は、黙秘するしかありません。

最近では、『話せばわかる』悪いことをしていないなら逃げるのはおかしい云々は、例の痴漢冤罪で、マスコミに登場する弁護士あたりからも述べられています。黙秘権の行使は、これと構造は同じです。まともな!検察官ならば、黙秘している間に、弁護人がしっかり検察官に情報提供すれば、正しく処分してくれます。別の件では、当初黙秘していたけれども、私から検察官に、「検事の前なら話します。聞いてやってください」とお願いしたこともありました。

警察官であれ検察官であれ、はたまた弁護人であれ、それぞれの正義ではなく、『本当の正義』を心を割って共通認識がもてたら、少なくとも間違った判断、別の被害者を生むことは避けられると信じています。なんか世間、特にネット社会では、弁護士は犯人を逃がすのが仕事であるかに思われていることは残念です。

それよりもいつになっても懸念するのは、いったん捕まった、検事が起訴した、まして裁判所がひとたび有罪にした人は、『やっている』との根強い観念があることです。ちょっと見方を変えれば、子どもに保険金を掛けた家が火事になった、保険金が支払われてよかったとの意見は間違いなのでしょうか。

作られたストーリーの上で刑事裁判が行われるのは、ストーリーを作り、運び、そしてこれに乗せられた人たちの責任です。有罪率が99点何%なんて言われる『精密司法』の国であるが故の『個別の事例』で終わるのでしょうか。



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