横浜市中央区には、『日本大通』と言う地名があります。 これ、『にほんおおどおり』と読みますが、一般的には、道路の名称と思われるでしょう。確かに、その名の道路もありますが、住居表示でもあります。しかも、日本大通の住所内には、神奈川県庁や日本銀行、新聞社や横浜地方裁判所等があり、官庁街なのです。みなとみらい線に『日本大通駅』があり、地上に出たところが検察庁、裁判所です。この路線、副都心線『新宿三丁目駅』まで一本で繋がります。横浜は、便利になりました。 現在は、官庁街となった日本大通ですが、もともとは徳川幕府による安政の横浜開港により、外国人居留地となっていて、地名はありませんでした。それが外国人が多く生活するようになり、居留地の拡大と道路の取り付けを行うようになり、明治になって、この道路が『日本大通』と名付けられました。 そして明治12年に、区画整理により多きくなったこの地域を、先に名付けた道路の名を取って、『日本大通』の町名が付けられたとのとであります。 居留地、そして道路から生まれた日本大通ですが、この道路は、明治3年に、当時日本初の西洋式道路として完成しました。歩道と植樹帯を設け、幅員36mの巨大ストリートは、まさに明治新政府のもと、西洋に後れを取るなの近代化政策のシンボルだったのです。 今でも、横浜スタジアムから山下町大桟橋方向に真っ直ぐ伸びる日本大通は、国の登録記念物に登録されているのです。 そんな由緒ある日本大通ですが、この土地には、しばしば行く私が興味を持ったきっかけは、何年か前の報道で、日本大通の住人は、1人であると聞いたことでした。 確かに官庁街で、一般の住宅は見当たらないようでした。でも、横浜地方裁判所の待合室から眺めると、数年前から近くにマンションが建設されておりましたから、あるいは現在は、もっと人口は増えているのかもしれません。 昼と夜との人口の違いが著しい地域は、結構あると思います。特に、ひところドーナツ現象と言われた都市部中心市街地での居住者減少は、高度経済成長を契機に、バブル期まで続きましたが、バブルの崩壊による不良資産となった企業保有地が、マンション建設業者等の物となって高層マンションが誕生するのは、近時の現象です。 由緒ある日本大通りも、そうなるのでしょうか。この町には、放送局や開港資料館等歴史を示す建造物が並びます。しばしばテレビドラマ等にその外観が使われる横浜地方裁判所も、昔は蔦が絡まる歴史を感じさせる建物でした。 この日本大通から東に数分歩くと、横浜中華街です。こちらは、安政の横浜開港により、欧米人とともに、取引の仲介商売や通訳等に中国から人がやって来るようになり、その後造成された居留地の端に住むようになり、関帝廟や中華学校等を造り、これが横浜中華街の原型とされています。当時は、中国は、香港をイギリスの植民地とされるなど、アヘン戦争以来イギリスの影響が強かったことから、その後欧米との貿易を行う商人等も来て、開国した日本、横浜に、多くの中国人が住むことになったのでした。 その後居留地はなくなったものの、関東大震災後は欧米人は少なくなって、この地域には、中国の料理店が多く残り、ここに『横浜中華街』が形成されました。ただし、その後の日中の歴史の狭間の中で、日本人観光客に認知されるのは、1972年の日中国交回復後のことです。 こうして振り返ると、横浜は、鎖国から開国、幕末から維新の契機であり、その歴史の証人でもあります。私が好きな北のウォール街小樽もそうですが、横浜には、歴史を刻んだ建物が多く残ります。 日本の中に日本大通が、そして中華街があるのは、よく考えれば不思議な感覚です。 そして、最近では、円安の影響もあるのか、日本大通や中華街の周辺には、中国をはじめとする海外の観光客が多くいらっしゃいます。初めての鉄道開通も、新橋(汐留)横浜(桜木町)間です。新しいものと古い歴史が混在する港ヨコハマからのひとりごとでした。